『師』は、一年前この世に別れ、神の前で、下記の『御言葉』を用いて、御自身について宣言なさったことでしょう。
そして
今朝の追悼ミサ司式司祭も、追悼の言葉の中で、『師』の姿を、下記の『御言葉』で 表されました。
『わたし自身は、既にいけにえとして捧げられています。
世を去る時が近づきました。
私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
今や、義の栄冠を受けるばかりです。
審判者である主が、かの日にそれを私に授けてくださるのです。』
テモテへの手紙 4章6~8節
『私の師』
お別れの日から1年。 今日・10月2日。 師の一回忌でした。
朝7時~ 『追悼ミサ』
私の目から、止まることを知らずに、流れる涙
追悼ミサを写すカメラまで…涙でぼやけます
司式司祭の、追悼の言葉 が続きました。
「師は、
神の声に聞き従って、福音を伝える熱意を持って、神に一生を 捧げられました。」
「師は、
私の出来る事は何でもしますと、忠実な僕として、謙遜な生き方を 生涯貫きました。」
「師は、
心温かく柔和で、そばにいると、こちらも心温まりました。」
「師は、
最後の病で2ヶ月少しの病院生活の時も、医者が言うとおり痛くつらいはずだが、顔に出さず 忍耐強い人でした。」
「師は、
神にすべてを委ね、幼子のように 生き切った方でした。」 と。
『師』が一生の道しるべとした・・ 『御聖体』
司式司祭の言葉が語ります。
「神の愛と慈しみを伝えるために心を砕かれた『師』に倣って、『師』に喜ばれる人になりましょう!」
私にとって・・
『師』は・・師で、先生で、親で、兄弟で、ありました。
『師』 と 私。
私の車での思い出も多く、追悼式の間、心暖まる思い出を 思い出していました。
私の歴代の車の内、三台の車の祝別は、『師』によって授けられました。
祝別の度に、必ず、言われる言葉は・・
『あなた様が、この車を使って、お人に、喜びと福音を、運ぶことができますように!』 と。
聖書通読会の仲間が、病が発見され、余命少なくなった時・・
『師』は、通読会の後いつも玄関に待っておられ・・・「車に乗せて下さい。!行きましょう!」 と。 半年強、毎週、仲間を訪問しました。
『師』は、道中、話されました。
「食べ物も口に入れることができず、どんなに痛く苦しいいことでしょう。 それでも、泣き言一つおっしゃいません。
でも・・私たちもそんな時を迎えます。 その時に・・「苦しい!」「痛い!」と、泣き叫んでもいいんですよ。
泣かなくても叫んでも、信仰の深さには、変わりはありません。」 と。
『師』が手術後、病院に御一緒する時・・
『師』は、途中で、言いました。
「ホローをあけて・・オープンカーにして走りましょう!!」 楽しい道中でした
病院で待つ間、お手洗いに行かれた『師』。
看護婦さんが、「Cさ~ん!」と『師』を呼びます。 「今、お手洗いです」と私が答える。
いつもの看護婦さんが、「お父様が戻られたら、声をかけてくださいね。」と。
『師』と私。 「親子なんですよね!!」と。 二人の嬉しい秘密の話?でした。
『師』と私の実の母。 いつも「10歳お姉さんなんですよね。」「私が10歳上ですよ。覚えやすいですね。」と始まりました。 馬が合って、会うと、楽しく話していました。
正に、
『師』と私。実の親子のように・・有難い御指導を、40年にわたり、拝受しました。 有難いことでございました。 感謝申し上げます
『師』の生涯。
1926年(昭和元年) フランスで誕生
1950年(24歳) パリで司祭叙階
1952年(26歳) 日本・神戸に、1ヶ月間の船旅のあと、到着
それから60年間
2012年(86歳) まで・・関西地方で、宣教活動。 一筋。
2012年(86歳2ヶ月) 帰天。
正に・・・『御言葉』の通りの生涯でした。
『わたし自身は、既にいけにえとして捧げられています。
世を去る時が近づきました。
私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
今や、義の栄冠を受けるばかりです。』
テモテへの手紙 4章6~8節
司式司祭の、最後の言葉 が語られました。
「『師』の蒔いた種は、確かに、育ちました。 実っています。
かの日・神の国が来る時に、
『師』と共に、皆で、神を賛美することができますようにと願い、『師の命日の御ミサ』を、共に捧げてまいりましょう。」
以上。
『師』の一周忌が、滞りなく、執り行われました。 私も『師』に倣って・・・。と。 誓った私でした。
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。 大切な人とのお別れは寂しいものです。 でも・・心の中での会話が増えますよね。今まで以上に。お別れした大切な人と!
そして
今朝の追悼ミサ司式司祭も、追悼の言葉の中で、『師』の姿を、下記の『御言葉』で 表されました。
『わたし自身は、既にいけにえとして捧げられています。
世を去る時が近づきました。
私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
今や、義の栄冠を受けるばかりです。
審判者である主が、かの日にそれを私に授けてくださるのです。』
テモテへの手紙 4章6~8節
『私の師』
お別れの日から1年。 今日・10月2日。 師の一回忌でした。
朝7時~ 『追悼ミサ』
私の目から、止まることを知らずに、流れる涙
追悼ミサを写すカメラまで…涙でぼやけます
司式司祭の、追悼の言葉 が続きました。
「師は、
神の声に聞き従って、福音を伝える熱意を持って、神に一生を 捧げられました。」
「師は、
私の出来る事は何でもしますと、忠実な僕として、謙遜な生き方を 生涯貫きました。」
「師は、
心温かく柔和で、そばにいると、こちらも心温まりました。」
「師は、
最後の病で2ヶ月少しの病院生活の時も、医者が言うとおり痛くつらいはずだが、顔に出さず 忍耐強い人でした。」
「師は、
神にすべてを委ね、幼子のように 生き切った方でした。」 と。
『師』が一生の道しるべとした・・ 『御聖体』
司式司祭の言葉が語ります。
「神の愛と慈しみを伝えるために心を砕かれた『師』に倣って、『師』に喜ばれる人になりましょう!」
私にとって・・
『師』は・・師で、先生で、親で、兄弟で、ありました。
『師』 と 私。
私の車での思い出も多く、追悼式の間、心暖まる思い出を 思い出していました。
私の歴代の車の内、三台の車の祝別は、『師』によって授けられました。
祝別の度に、必ず、言われる言葉は・・
『あなた様が、この車を使って、お人に、喜びと福音を、運ぶことができますように!』 と。
聖書通読会の仲間が、病が発見され、余命少なくなった時・・
『師』は、通読会の後いつも玄関に待っておられ・・・「車に乗せて下さい。!行きましょう!」 と。 半年強、毎週、仲間を訪問しました。
『師』は、道中、話されました。
「食べ物も口に入れることができず、どんなに痛く苦しいいことでしょう。 それでも、泣き言一つおっしゃいません。
でも・・私たちもそんな時を迎えます。 その時に・・「苦しい!」「痛い!」と、泣き叫んでもいいんですよ。
泣かなくても叫んでも、信仰の深さには、変わりはありません。」 と。
『師』が手術後、病院に御一緒する時・・
『師』は、途中で、言いました。
「ホローをあけて・・オープンカーにして走りましょう!!」 楽しい道中でした
病院で待つ間、お手洗いに行かれた『師』。
看護婦さんが、「Cさ~ん!」と『師』を呼びます。 「今、お手洗いです」と私が答える。
いつもの看護婦さんが、「お父様が戻られたら、声をかけてくださいね。」と。
『師』と私。 「親子なんですよね!!」と。 二人の嬉しい秘密の話?でした。
『師』と私の実の母。 いつも「10歳お姉さんなんですよね。」「私が10歳上ですよ。覚えやすいですね。」と始まりました。 馬が合って、会うと、楽しく話していました。
正に、
『師』と私。実の親子のように・・有難い御指導を、40年にわたり、拝受しました。 有難いことでございました。 感謝申し上げます
『師』の生涯。
1926年(昭和元年) フランスで誕生
1950年(24歳) パリで司祭叙階
1952年(26歳) 日本・神戸に、1ヶ月間の船旅のあと、到着
それから60年間
2012年(86歳) まで・・関西地方で、宣教活動。 一筋。
2012年(86歳2ヶ月) 帰天。
正に・・・『御言葉』の通りの生涯でした。
『わたし自身は、既にいけにえとして捧げられています。
世を去る時が近づきました。
私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
今や、義の栄冠を受けるばかりです。』
テモテへの手紙 4章6~8節
司式司祭の、最後の言葉 が語られました。
「『師』の蒔いた種は、確かに、育ちました。 実っています。
かの日・神の国が来る時に、
『師』と共に、皆で、神を賛美することができますようにと願い、『師の命日の御ミサ』を、共に捧げてまいりましょう。」
以上。
『師』の一周忌が、滞りなく、執り行われました。 私も『師』に倣って・・・。と。 誓った私でした。
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。 大切な人とのお別れは寂しいものです。 でも・・心の中での会話が増えますよね。今まで以上に。お別れした大切な人と!
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