マリアテレジアの独り言

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同僚の身代わりを願い出た殉教者・・・『聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者』

2019-08-14 04:22:33 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。

8月14日。年間第十九水曜日。

       『聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者 記念日』
    

           ポーランドのカトリック司祭。
       アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、
      餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなったことで知られ、
              『アウシュビッツの聖者』と呼ばれます。

 

     皆様!
今日は、日本にもゆかりの深いコルベ神父様の47年の御生涯を省察したいと思います。
         よろしくお願いいたします。


『今日の集会祈願』

『信じる者の力である神よ、
あなたは聖マキシミリアノ・マリア・コルベの心を汚れないおとめマリアへの愛で燃え立たせ、
     宣教の熱意と隣人愛で満たしてくださいました。
     聖人の殉教を記念し、その取次ぎを願うわたしたちが
神の国のために自分を捨てて人々に仕え、死に至るまで御子イエスに従うことができますように。』

 

《生誕》

 1894年。 ポーランドで生まれる。
        父は、在俗フランシスコ会のリーダーで、
        第一次世界大戦中にポーランド独立のために義勇軍に参加し、
        ロシア軍に捕らえられ、1914年(コルベ20歳の時)に処刑される。
       
   
    一家は、信心面では聖母マリア崇敬が強かった。
        コルベは自身の『回想録』で語ります。

       『私は聖母に私はどうなるのか尋ねました。
        聖母は使徒と赤の2つの冠を持ってきました。
        白は純潔を保つ聖職者、赤は殉教者となることを意味していました。
        私は両方ほしいと言いました。』


《少年時代》

1907年。13歳。 兄のフランシスコと共に、
         国境を越えてルヴォフ(現ウクライナ領のリヴィヴ)にある
        『コンベンツァル聖フランシスコ修道会』 の小神学校に入学。


         コルベは数学の才能に恵まれ、
         数学の授業を担当した教師が
   「こんな才能をもっているのに司祭になるのは惜しい」と嘆く程であった。
   この頃に、彼はロケットで月に行けると考え、ロケットの図面を描いたという。


1912年。15歳。
 ローマへの留学生に選ばれる。

           ローマで、哲学、神学、数学および物理学を学んだ。
         18歳までに、哲学の博士号と神学の博士号、を取得した。
         


《青年時代》

1914年。17歳。  初誓願をたて、『マキシミリアン』 の名前を与えられる。
        後に、自身で、聖母マリアの崇敬を示すために、さらにマリアの名前を取って、
             『マキシミリアノ・マリア』とした。

1917年。20歳。 6人の志願者と共に、
         神学校聖堂の汚れなき聖母の祭壇の前で聖母へ奉献を行い、
         『汚れなき聖母の騎士会』 と呼ばれる信心会を創立した。

     
      大神学校の教会史の教授として3年間勤める。


《司祭時代》

1918年。21歳。  ローマで、司祭に叙階。

1922年。28歳。 出版による布教活動を志し、『無原罪の聖母の騎士』 を初出版した。
        同年。
         グロドノの修道院に移り、当地での出版活動を開始した。
      この頃に、コルベと共に後に日本に宣教に来るゼノ・ゼブロフスキー修道士と出会う。

  
      グロドノの修道院が手狭となり、
      活動の拠点を移動する必要に迫られたコルベに、
ドウルッキ・ルベッキ公爵は、ワルシャワの近くに所有する土地を無条件で土地を寄贈した。


1927年。33歳。『無原罪の聖母の騎士修道院』を創立。
          『無原罪の聖母の騎士』等の出版による、宣教に力を入れた。



《東洋での宣教時代》

1930年。36歳。  3月7日。 コルベを含む5人の宣教師は・・・・
    
                      写真中央が聖コルベ。左隣がゼノ修道士。

        
         フランス・マルセイユから上海行きに乗船。


      4月11日。5人で上海に到着。

  更に。
      
   4月24日。 コルベ司祭、ゼノ修道士、ヒラリオ修道士、3人で長崎に到着。 

  
      聖コルベは、ゼノ修道士、ヒラリオ修道士の二人と共に、
       日本人の心温かさと主キリストの招きに信頼して、
        予告もなく、長崎に上陸したのです。

  そこで。

     3人は、早坂司教に『無原罪の聖母の騎士』の出版許可 を願った。
     司教は、コルベが哲学博士号を持っていることを知ると、
         自教区の神学校で哲学を教えることを条件に、出版を許可した。

1931年。37歳。5月。
        長崎大浦の仮修道院で、日本語版の『無原罪の聖母の騎士』の出版を開始。


1932年。38歳。   『聖母の騎士修道院』 を設立した。

     5月。 インドでも修道院を設立するために神戸から船に乗り、
                エルナクーラムを訪れる。
          
        インドの教区の司教から歓迎されて出版の許可も得たが、
     コルベがポーランドに戻ったこともあり、その後の計画は進まなかった。



《ポーランドへ一時帰国時代》


1933年。39歳。4月。 ポーランドでの管区会議に出席するために、日本を離れる。
    
   その間に、重病であった駐ポーランド公使河合博之のカトリックへの改宗に尽力した。

 そして。

《再び日本》   日本に戻る。が・・・戻った3年後、


《ポーランド帰国時代》

1936年。42歳。 ニエポカラノフ修道院の院長に選ばれたために、故国ポーランドに帰国。
 
        帰国後は、『ニエポカラノフ修道院』院長を務め、
        出版やラジオなどを通じての、活発な布教活動を行った。
   
     コルベはこのころには既に、将来の戦争と自分の運命を悟っていた。


1939年。45歳。

  2月18日付。 日本における後継者であるサムエル・ローゼンバイゲル神父『手紙』を書く。
    
      「戦争が勃発し、送金が出来ない場合に苦境に陥らないように、
    経常費に関しては自立できるよう徐々によく考えておくのが良いでしょう。」と書いた。

   
   
9月1日。 ドイツ軍のポーランド侵攻による第二次世界大戦の勃発

     
        コルベは、活動の縮小や停止を余儀なくされた。

  『ニエポカラノフ修道院』も病院として接収され、多くの修道者が修道院を去った。



《逮捕》

  9月19日。 コルベは修道院に残った修道者らと逮捕され、
        ドイツにあるアムティッツ強制収容所へと収容された。

   11月。  ポーランド領にあるオスチェロー強制収容所へ、移送された。
  12月18日。   修道者と共にコルベは、釈放された。

    
    病院となっていた『ニエポカラヌフ修道院』に戻ったコルベたちは、
     ユダヤ人にもカトリック教徒にも、分け隔てなく看護をした。

      コルベたちの行為は、ナチスを刺激し、監視が強化された。
     どうにか。
      ポーランド語版のみ『無原罪の聖母の騎士』の、再出版を許可された。

         修道院には再び多くの人が集まり、食料不足に悩まされた。

 

1941年。47歳。2月17日。 
       ゲシュタポにより、コルベは4人の神父と共に、逮捕された。

          その理由としては、
       コルベ神父が発行していた『無原罪の聖母の騎士』や日刊紙が、
          ナチスに対して批判的なものであったからとも、
            当時のナチスは、
            ユダヤ人のみではなく、
      ポーランドにおける有力な人物をも逮捕の対象にしていたからともされる。

    
       コルベは、
           パヴィアックの収容所に収容された後に、

      『アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所』 に送られた。
 
    『死の門』 アウシュヴィッツ第二強制収容所(ビルケナウ)の鉄道引込線


           囚人番号は16670であった。
      


    コルベの逮捕では、
     退会したニエポカラノフの元修道士が署名した告訴状が証拠とされたが、
     ドイツ語の読めなかった元修道士は、
     ドイツ語で書かれた文書をいわれるままにサインしただけであり、
      しかもその文書はゲシュタポによる偽造であった。


    この後、
    20人の修道士が彼の身代わりになることを申し出たが、
    この申し出は却下された。



《身代わりの死》    

  7月末。

      収容所から脱走者が出たことで、
      無作為に選ばれる10人が、餓死刑に処せられることになった。
         
       囚人たちは番号で呼ばれていたが、
      ポーランド人軍曹フランツェク・ガイオニチェクが、
        「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。


       この声を聞いたとき、そこにいたコルベ
 「私が彼の身代わりになります。私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」
                                                                              と申し出た。

     
  責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスは、この申し出を許可した。
       

   身代わりのコルベと9人の囚人が、地下牢の『餓死室』 に押し込められた。


         通常、
       『餓死刑』に処せられると、
       その牢内において受刑者たちは、
       飢えと渇きによって、錯乱状態で死ぬのが普通であったが、
    
     コルベは全く毅然としており、他の囚人を励ましていた。

     
     時折、

     牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツは、
 『牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた』
                            と証言している。

  
  2週間後。

    コルベを含む4人は、まだ息があったため、
   当局は、病院付の元犯罪者であるボスを呼び寄せて、フェノールを注射して殺害した。


     通訳のボルゴヴィツは、このときのことを以下のように『証言』している

      『マキシミリアノ神父は、祈りながら、自分で腕を差し伸べました。
       私は見るに見かねて、用事があると口実を設けて外へ飛び出しました。
       監視兵とボフが出て行くと、私はもう一度地下に降りました。
    マキシミリアノ神父は、壁にもたれてすわり、目を開け、頭を左へ傾けていました。
         その顔は穏やかで、美しく輝いていました。』


《帰天》 

  8月14日。 コルベ神父の亡骸は、木の棺桶に入れられ、
 8月15日。 カトリック教会では大祝日にあたる 『聖母被昇天の祭日』 に火葬場で焼かれた。

    コルベ神父は、
    『愛の殉教者』として、主と聖母マリアと共に、
              休むことを知らない生涯を全うしました。

     生前、『聖母の祝日』に死にたいと語っていたといわれています。
                       その通りになりました。

  
     
      アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の『死の壁』
  
         死の壁の前で祈るローマ教皇フランシスコ 2016年


『今日の奉納祈願』

     『全能の神よ、聖コルベの模範に力づけられ、
  わらしたちも自分の命をあなたに捧げることができますように。』



《コルベ神父の列福》


 1971年。没後30年目。10月17日。 パウロ6世によって『列福』された。
1982年。没後40年目。10月10日。 同国出身の教皇ヨハネ・パウロ2世によって『列聖』された。

     列福式および列聖式の場には、
     コルベに命を助けられたガイオニチェクの姿もあった

     ガイオニチェクは、奇跡的に終戦まで生き延びて解放され、
         94歳の天寿を全うするまで、
       コルベに関する講演を世界各地で続けていた。


『今日の拝領唱』

   『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』
                ヨハネ福音書 15章13節


1973年。没後42年目。
         当時の西ドイツで、
         『コルベ神父の記念切手』 が発行されました
  
  神父の肖像の右下には、『殉教の地』:『アウシュヴィッツ』 の表示があります。

 

1998年。没後57年目。
        ロンドンのウェストミンスター教会の扉に
  
    『20世紀の殉教者』 の一人として、コルベの像が飾られました。 左端。

又。

    イタリア半島の中東部に位置する
          共和制国家:サンマリノでも、
   『鉄条網を背後に収容者服姿のコルベ』 の 『記念切手』が発行されました。

 

聖コルベ神父様は、
ジャーナリスト、政治犯、アマチュア無線、薬物中毒者、家族、そしてプロライフ運動

            の守護聖人になられました。

 

『今日の祈願』

 『いのちの源である神よ、
聖コルベが主の食卓からいただいた愛の火をわたしたちの心に燃え上がらせてください。』
 


  コルベ司祭様の47年の人生をご一緒に振り返らせていただきました。
                       ウィキペディアより資料を拝借しました。

   皆様!
  ご一緒していただき、ありがとうございました。 感謝申し上げます。
  
     コルベ神父様にも、心からの感謝と賛美をささげます。
       ありがとうございました。 感謝申し上げます。
 
 
いかがでしたか?
     コルベ神父の、『身代わりの死』を学びながら・・・
 『負の歴史』は二度と繰り返してはならないと、心から思った次第でした。
      そして、
     コルベ神父様はじめ無数の方々の『犠牲』が、
 『負の歴史』の繰り返しを止めているのだと、心から考えた次第です。
      
       
       明日は、『終戦の日』です。
   戦争で亡くなった沢山の方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
 
 

皆様!

御訪問に感謝申し上げます。
大型台風が日本列島を縦断中です。くれぐれもお気を付けください。 お元気で!

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