マラソン交流会のあった『萩市』は、誇りを持って、のぼりを立てています。
『明治維新の原点 ニッポンの近代化は、この萩から始まった』 と。
ねんりんピックマラソンを終えて・・・萩市にお邪魔しました。
大好きなNHK大河ドラマ:『花燃ゆ』の『松陰村塾』や尊敬する『松陰先生の人生』。 そして 『明治の産業革命の出発地』。
色々知って開眼しました。
皆様も、『萩世界遺産』の一部を、御一緒にお楽しみ下さい
『明治日本の産業革命遺産と萩』 訪問記です。
『萩市』 と 『明治日本の産業革命ー製鉄、製鋼、造船、石炭産業ー』 が、
平成27年(2015年)7月、世界遺産に登録されました。
『本遺産』は、日本がわずか50年ほどの短期間で、
急速に近代化・工業化を実現していった過程を視覚的に物語るものです。北は岩手県釜石市から、南は鹿児島県鹿児島市までの広域に分散する、全23遺産で構成されています。
又・・・19世紀半ばから20世紀初頭に至る重工業の発展の過程を物語るものであり、
世界史的に見ても顕著な普遍的価値をもっています。
『萩の5つの資産』
①萩反射炉 ②恵美須ヶ鼻造船所跡 ③大阪山たたら製鉄遺跡
以上3つは、自力で工業化を試行錯誤した物証です。
まず訪ねました。
①『萩反射炉』 正面姿
『反射炉』は、西洋で開発された『金属溶解炉』です。
鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉で、萩藩の軍事力強化の一環として導入が試みられました。
思い返せば・・・
私達夫婦の現役時代は、鉄鋼が花形産業でした。
若かりし頃を思い出します…夫が熱く語っていたのが『反射炉』です。
男のロマンが詰まっているのでしょうね!
『萩反射炉』 後姿
緑の森の中の巨塔。歴史の産物。 美しい!
女の私も、歴史のロマンを感じて、大好きなんです!
安政2年(1855年)。
萩藩は、反射炉の操業に成功していた佐賀藩に藩士を派遣し、
鉄製大砲の鋳造法伝授を申し入れますが、拒絶され、反射炉のスケッチのみを許されます。
『反射炉 模式図』
土の下の部分が溶鉱炉。
鉱石を溶かすには2000度は必要ですよね。1500度程までしかいかず『試験炉』に終わったようです。
萩藩の記録で確認できるのは、「安政3年(1856年)の一時期に試験炉が操業された」ということだけで、
『萩反射炉』は、スケッチをもとに設計・築造された『試験炉』であると考えられています。
現在残っている遺構は『煙突』にあたる部分で、高さ10.5mの安山岩積み(上方一部レンガ積み)です。
オランダの原書によると、反射炉の高さは16mですから、約7割程度の規模のものになります。
『反射炉』が現存するのは、
静岡県・韮山と萩の2ヶ所だけ。 今年7月に、2ヶ所同時に、世界遺産登録されました。
『韮山反射炉』は実際に使われました。 『萩反射炉』は日本中の反射炉作成のモデルになりました。
わが国の産業技術史上たいへん貴重な『遺跡訪問』でした。
無料のボランティアさんがしっかり説明してくれました。
良くわかりました。 感謝します。
残りの 『萩の5つの資産』
④松下村塾 ⑤城下町
次に訪ねました。
④『松下村塾』
工学教育の必要を説いた先駆的存在としても、重要な意味を持っています。
『松下村塾』(吉田松陰の実家)は、
祭神を松陰とした『松陰神社』の境内に、当時のままに、遺されていました。
松陰神社。 『参道から大鳥居』
世界遺産登録後わずか2カ月半。 秋晴れの一日を楽しむ人々でした。
正面奥に・・・ 『松陰神社』
明治23年(1890年)。
『松下村塾』改修の時、実家杉家の私祠として、土蔵造りの小祠を建てたのが始まりです。
明治49年(1916年)。
松陰村塾門人・伊藤博文の名をもって、公に神社創建県社列格許可を得て、『松陰神社』と成リました。
松陰の、至誠熱烈なる愛国心は、人々の景仰するところです。
『松下村塾』の歴史。
始めに・・・
『幽囚室』 幽囚宅・実家杉家の旧宅
杉家(右)、吉田家(左)の先祖の神霊を祀った、実家の『三畳半の部屋』
安政元年(1854年)3月。
松陰先生は、同志・金子重輔と共に、伊豆下田港より米国への密航を企てる。
失敗して、自首して、江戸の獄に入れられる。
同10月に『萩の野山獄』に送還され、翌2年12月に実家に謹慎を命じられ、『幽囚の身』となる。
松陰は、『幽囚室』で、終日、読書著述講義に没頭しました。
2年後。後安4年(1856年)。
藩許を得て・・・ 『松下村塾』 を開村。
『松下村塾 講義室』
始めは古小屋で、『八畳一室』のみでした。
塾生の増加に伴い・・・
師弟の労苦により、 十畳半と土間一坪を増築しました。
松陰先生は、家伝の兵学を講義されました。
愛と情と至誠をもって青年の教育に精魂を打ち込み、生きた人材の育成に努められた塾舎です。
当時のままに遺された、『松陰・杉家の実家』
NHK『花燃ゆ』は、この実家を撮影し、実家そっくりのセットを作ったそうです。 そっくりすぎて不思議な感じでしたよ
講義室にかけられた『松陰先生 肖像画』 そして 私達の案内ボランティアさん自前の『松陰の言葉』
ボランティアさんは私達3人につきっきり。こちらも無料でした。
『夢なき者に理想なし』
『夢なき者に成功なし』 その通りですね。 夢って素敵ですよね。
若人も熟年者もいつも夢を持って…生き生きしていましょうね!
松陰先生の教える『松下村塾』は、
幽囚室時代を併せ、安政3年(1865年)から僅か2年半の短期間に過ぎませんでした。
それでも。
松陰の薫陶により有為の人材を多数輩出し、明治の大業に尽くされました。
広く世人に知られるところでありますよね。
左奥に・・・ 『松門神社』
主として松下村塾の塾生の神霊を奉斎した社。 皆が共に
昭和31年(1956年)に鎮座祭が斎行されました。
更に。
敷地内に・・・
石碑。 『明治維新胎動の地』
『薩長土連合密議之処』
文久2年(1862年)。
薩摩の田上藤七。 土佐の坂本竜馬。 長州の久坂玄端。
勤皇有志が集い、『今後は藩のことより国のことをどうするか?』 協議を行いました。
この時 『三藩の密約』 がなされたと伝えられています。
敷地内にあった旅人宿での『会合の跡地』でした。
正に・・・『明治維新の発祥の地』ともいえる『松陰塾』を目の当たりにしました。
感動で心震える思いの私でした
『松陰神社』の手前に・・・
石碑。 『親思ふ心にまさる親こころ けふの音づれ何と聞くらん 虎二郎』
『碑文』は松陰の自筆を模写拡大したもの。
松陰の両親に先立つ不孝をわびている気持ちが込められていますよね。
松陰の通称の『虎二郎』と書いたのは、両親と一緒の幼い頃を偲んででしょうか?
松陰の偉業とその心を偲んで…涙が出た私でした。
『永訣書』と呼ばれる、手紙の中に書かれた和歌です。
松陰が、安政6年10月20日、萩から再び護送された江戸の伝馬町獄から、斬首を前にして、
父杉合之助、叔父玉木文之進、兄梅太郎に送った手紙です。
29歳の若さで没した吉田松陰。
日本の近代化を果たしたと言える松陰は、正に、世界遺産に相応しい人物です。
ボランティアさんの説明をしっかり覚えてノートして…書きました。
最後に・・・
⑤『城下町』
工業化を推進した政治・経済・文化・教育の拠点として・・・
江戸時代の町並みが今に残ります。
武家屋敷や、商家などがそのままに残っていました。
見つけました。 『高杉晋作誕生地』
当時より…今は半分の大きさだそうです。 記念建物も店も5時には閉館。
「庭だけならお入り下さい。」と。 御親切に。
高杉晋作の写真が数枚。
歴史の跡地にたたずむと・・・
「その当時の人達と同じ場所に立っている!」と。 感動に胸高鳴ります
こんな『場所』も近くに・・・
正に寺小屋。 『高杉晋作と伊藤博文 両公幼年勉学之所』
黙々と。 勉学の日々。
吉田松陰の遺志を継いで・・・ 『至誠』
更に行くと・・・
『木戸孝充旧宅』 もありました。 皆さん全員が松陰村塾の門下生ですよね。素晴らしい!
静かな落ち着いた佇まい。 『静寂 沈黙こそ金』の言葉が思い出されます。
5時。 城下町には静寂が覆います。
午前中にねんりんピックの多くのランナー達が走り抜けたのが嘘のようです。
走ってる間・・・私は全く美しい城下町を見る余裕なしでしたね。 トホホホホ
旅は、非日常の喜びの中で、心を強くしていきますよね。 今回も良い旅でした。 感謝!感謝!
以上。萩世界遺産訪問記でした。
長々とお付き合い下さり感謝申し上げます。
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
今年も2か月ほどになりました。終わり良ければすべて良し。 今年も良い年に致しましょう!