今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

254 佐用(兵庫県)・・・悲しみと疲れが滲む星の里

2010-01-18 11:42:27 | 大阪・兵庫

写真での判別は難しいかもしれないが、対岸を小学生が列を成して下校して行く。旗を手に誘導している教師も見える。こちら側に架かる橋が異様なのは、欄干が崩れているからだ。ここは兵庫県佐用町。この夏、水害によって甚大な被害を被った街だ。私が訪ねたのは川の氾濫から2ヶ月ほど経ったころ。街にはまだ被害の爪痕が生々しく残り、人々は深い疲れを滲ませていた。それからさらに2ヶ月、暮れに向けて、町の人たちの生活はどうなっているだろう。

自然災害といっても、例えば地震と水害とでは被災地の「疲れ方」に違いが感じられる、といったことを、神戸から救援に駆けつけた阪神大震災の被災者グループが話していた。「よく言い表せないのだが」としながらも、リーダーは「何か違う」と繰り返した。彼らは全国の産炭者から炭の寄贈を受け、浸水家屋の床下に除湿消臭用の炭を敷くボランティア活動をしているのだ。

「ここまで水が来たのです」と、玄関の柱の、自分の背よりずっと上の変色した部分を指差したおばあさんは「水が引いた後は臭くてねえ。炭を敷いてもらって本当にありがたい」と安堵の表情をみせた。水害は、このニオイとなって長く被災者にまとわりつき、生活再建を阻み、疲労を倍加して行くようである。

ほとんどの店が閉じたままの商店街を行くと、閉め切られたガラス戸のすぐ内側に運び出した様子のソファーで、おじいさんが疲れた顔で寝入っていた。奥の居宅部分はまだ片付けがつかず、あるいは臭気が激しいかして、店先で横になるしかないのだろう。

すっかり水に浸かって再開できずにいるのだという駅近くの福祉作業所では、濁流に洗われたらしいアルバムがポリバケツの中に放置されていた。きちんと貼付けられた写真は何かの記念のスナップか、弾ける笑顔に満ちているものの、その笑顔が泥まみれになっていた。

5年間に2度も洪水に襲われた町の人たちのことを思うと、国や県の河川管理はどうなっていたのかと憤りが湧いて来る。しかし「5年前の台風被害を機に堤防を嵩あげしたが、予算はここまで工事するのがやっとだった。水は、この先から流れ込んだ」と、切ない話も聞いた。

こうやって人々に厄災をもたらす流れは、しかし常には物資の集積を可能にし、この街を出雲と因幡への街道が交差する宿場として賑わせて来たのも事実だろう。そんな中国山地の要地に佐用(さよう)という町があることを、私は恥ずかしながら、今度の水害のニュースで初めて知った。

佐用と聞けば、万葉集の「松浦の佐用姫」を思い浮かべる程度の「播磨音痴」の私であるから、この町の名が播磨国風土記に登場する農耕神話の神「賛用都比売」に由来することなど、もちろん無知であった。ただ実際に出かけてみたことで、近くに「上月」「三日月」といったゆかしい地名があることも知った。

そのことで、私の空想癖がにわかに蠢き始めた。「もし風土記が、(そういう転用が言語学的に可能かどうかは知らないが)「用」に「夜」の文字を当てていたらどうであったろうか」と。佐用は「佐夜」あるいは「小夜」となって、この一帯は「月」に呼応した美しいイメージで満たされたに違いない。

                          
復旧作業に追われる町の人たちには「何をのんきなことを」と叱られそうな連想を楽しんだのは、駅で「あさぎりと星の都 佐用」と刻まれたプレートを見かけたからである。月だけでなく、星も美しいところらしい。

今夜の宿を隣町の龍野に定めたので、帰路はJR姫新線に乗った。高校生の下校ラッシュに乗り合わせた。佐用から列車で帰宅するのだから、彼らの家は水害を免れた地域なのかもしれないが、通学などで苦労があったことだろう。それでもみんな屈託なさそうに談笑していることが、私の気持ちを少し楽にしてくれた。(2009.10.6)
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