湖北に出かけた日、古戦場で知られる賎ヶ岳に登り、山頂の眺望を楽しんで余呉(よご)の湖畔に降りた。木漏れ日がちらちらと戯れているほかは、湖面に浮かぶ鴨たちを揺らす波さえない晩秋の昼下がり。完全な静寂が三橋節子という日本画家の作品を思い出させた。
湖北からは、遥かに遠い琵琶湖の対極にあたる大津市の長等公園に、彼女の美術館が建っている。35歳で没した画家は、生活の場でもあった長等の丘から、終生愛した近江の風景に向き合っている。絶筆となった作品が、湖北に残る羽衣伝説を材とした『余呉の天女』であった。
余呉湖は、周囲6キロ余のかわいい湖である。半周して駅に出ようと湖畔を歩いていると、いつの間にか大きな雲がやって来て、霧のような雨を煙らせた。傘がなくとも差し障るほどの降りではなかったことが幸いしたのか、ほどなく大きな虹が架かった。
南の賤ヶ岳の空から来る光りを受け、虹は、三橋節子がしばしば絵の下地に用いた、墨を流したように沈んだ色の北の空に輝いた。天女が地上に産んだ児と別れる余呉の説話と、母でもあった画家のことを考えていた私は、あまりに「出来過ぎた」光景の出現に驚き、思わず「近江はいいなあ」と見とれたのだった。
しばしば地方に出かけると言うと、「どこの土地が良かったですか」と訊ねる人が多い。この「良かった」は人それぞれで、景色についてのこともあれば、ただ漠然と印象を聞きたいということもあって答えは難しい。私自身の「良さ」の基準にしたところで、年齢によって微妙に根拠が変わって来ている自覚がある。
「私はどうにも近江が好きである」と書いたのは司馬遼太郎氏だが、この私も近年、滋賀の魅力にはほとほと降参しつつある。それはリタイアして、好きな土地で暮らしてみようか、などと考える年頃になったからなのだろう、「暮らす」という視点で街を眺めるようになって知った滋賀の「良さ」だ。
近江はほんのいっとき都になったことがあったけれど、ほとんどの時代が中央のバックヤードとして、政治という魑魅魍魎から一歩引いて生きて来た。多くの伝統産業が興り、聖人や俊英、それに大商人を排出してきたのも、京・大阪と程よい距離が保たれていたせいではないか。
それだけでも十分に魅力的なのだが、「敗残の地」という歴史が他の土地にない翳りを滲ませてもいる。壬申の乱に始まり義仲の敗走、信長の浅井攻め、そして安土、佐和山城の炎上がそれであり、国が敗れ、半島から逃れて来た百済の人々の気配さえ濃い。
そうした歴史や文化をひっくるめて、さらに何よりも琵琶湖がいい。広大な琵琶湖の空があることがいい。近江のあちこちを歩いていて、琵琶湖が見えるとホッとするのは空が広いからだろう。
なかでも「コホク」は、その音の響きからして好もしい。微かな残照を浴びて鎮まる地・・私の勝手なイメージはそんな絵となる。寂然とした余呉湖の佇まいに加え、木之本や高月の人々が守り伝えた仏の残欠や、観音の笑みを思い浮かべるからかもしれない。
ところがそうした町の名前が、間もなく消えるのだと今回の旅で知った。新年とともに合併して長浜市になるのだそうだ。長浜も魅力的な街ではあるけれど、浅井や伊香地域の6町で「湖北市」とでもなってくれたらよかったのに、などと他所者は無責任な感想を持つのである。(2009.11.19)
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