今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

255 たつの(兵庫県)・・・城下には薄口醤油漂いて

2010-01-18 11:46:12 | 大阪・兵庫

播磨路のどこかに龍野という城下町があって、古い家並の中に静かな暮らしが守られている、ということは知っていた。しかしなかなか訪ねる機会がなかった。佐用町の帰りにようやく立ち寄れた龍野は、晩秋の落日が空を燃やしていた。「まるで《赤とんぼ》の色だな」と考えたのは《こじつけ》だが、その風景がよく似合う街だった。

城下の「静かな暮らし」は私の想像を超えていて、夕食を摂りたいと古い家並をうろうろしたのだが、それらしき店はいっこうに見当たらない。小路で出会った人に尋ねると、「このあたりにはありませんなあ」と告げられ慌てた。翌朝、宿泊した国民宿舎「赤とんぼ荘」から見晴らすと、ミニチュアセットを観るようなかわいい城下町である。

鶏籠山というランドマークの小丘と、それに連なる丘陵が街の片側を塞ぎ、もう一方は揖保川が天然の外濠となっている。脇坂藩5万石の、小藩ながら行き届いた藩政によって、醤油や素麺といった地場産業が育まれ、人材育成にも熱心だったことが三木清、三木露風らを排出したと聞けば、街歩きの励みになる。

この街が「童謡の里」を掲げ、それが露風の《赤とんぼ》に因ることは私にも分かる。何しろ私が暮らす東京の街は露風終焉の地で、龍野とは姉妹都市なのだから。だが「夕焼小焼の 赤とんぼ 負われて見たのは いつの日か」と唱う童謡「赤とんぼ」が、発表時は「夕焼小焼の 山の空 負はれて見たのは まぼろしか」という「赤蜻蛉」であったことは、資料館に立ち寄って初めて知った。

龍野神社の裏山にある展望台に「吾や七つ母と添い寝の夢や夢十とせは情け知らずに過ぎぬ」という露風の歌が紹介されていた。両親の離婚によって母に会えなくなった操(露風)少年が、寂しくなると登った丘だという解説に、行きずりの私まで悲しくなった。私の街は午後5時になると、市の広報無線で「赤とんぼ」が流れる。これからは、いっそうしんみり聴くことになるだろう。

展望台からもっと高みに石段が続いていて、てっぺんに野見宿禰の祠があるというので頑張って登る。埴輪の発案者として伝わるこの相撲の始祖は、奈良の三輪山の麓の、出雲という小さな集落に祀られていたはずだが、などと昔の旅を思い出しながら登り切ると、出雲大社・千家の家紋を彫った岩扉が、いかにもどっしりと閉じていて、玉垣には「梅ヶ谷勝太郎」「朝汐太郎」などの名が見えた。

このユニークな古代の英傑が、出雲への帰郷途上、龍野で病没したのだとは知らなかった。その死を悼んだ出雲人が大勢やって来て、川から石をリレーして墓を築いた記憶が「人々が立つ野=立野」という地名を生み、やがて「龍野」の表記が用いられたのだという。城下町が、古代の伝説に溶け込んだような朧げな話だ。


腹が減った。街の辻で思い迷っていると、長身のご老人と目が合った。「何かお探しかな?」「素麺が食べたくて」「ではご案内しましょう」とスタスタ先を行かれる。揖保川に架かる龍野橋では「ここから12キロで海です」「ああ瀬戸内海ですか」「ふむ、わたしらは播磨灘と言いますがな」と、またスタスタ。着いた店は定休日だった。ご老体は「これは残念。では、ごめん」とスタスタ。「揖保の糸」の本場で素麺を食べ損ねた。

仕方がないからもうひとつの特産である醤油の「うすくち龍野醤油博物館」に立ち寄った。土地の水と大豆と塩、そして京・大阪への地の利が醸造業を興し、かの魯山人をして「これがないと料理にならない」と言わしめた薄口醤油を育てた背景がよく分かった。「限定醸造《龍野乃刻》予約受け付け中」とあったから申し込んで帰ったら、先日届いた。確かにいつもの醤油と違う風味があって美味い。(2009.10.6-7)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 254 佐用(兵庫県)・・・悲... | トップ | 256 坂出(香川県)・・・瀬... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

大阪・兵庫」カテゴリの最新記事