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建築家になれなかった私だけれど、建築物を見るのは今でも好きだ。建築は人間を包み込む総合芸術だから、外観も空間も心地よいものでなければならない。だから設計者がどのような思いでこのラインを引いたか、などと考えることが楽しいのだ。ということで今日は「東京の名建築」として名高い、フランク・ロイド・ライト設計の「自由学園・明日(みょうにち)館」の見物に出向く。西池袋の過密地帯に、奇跡のように建ち続ける学び舎である。
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自由学園は1921年、羽仁もと子・吉一夫妻が創設した女学校だ。設立にあたって夫妻は、校舎の建築を帝国ホテル建設のため来日中だったライトに依頼、その教育理念に深く共感したライトは快諾した。こんな具合に館内の解説に従って書くと、美しい魂の出会いが簡単にこの建物を産み落としたように聞こえてしまうが、実際は大変な事業だっただろう。よほど真剣で切実な思いがなければ、大正期にこの校舎は実現できなかったと思われる。
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昭和に入って学園は東久留米の現在地に移転する。西池袋の校舎は「明日館」の名で、卒業生の活動拠点になる。1997年に国の重要文化財に指定され、大規模な保存修復を経て公開された。おかげで私のような素人建築好きも見学できるわけで、この素人はまず、想定外の小ささ可愛らしさに驚いている。校庭から望む中央ホール棟の柱列デザインは、写真でしか知らなかった素人に「大きな建物だ」と錯覚させた力がある。楚々とした清潔な力である。
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英国バース産石材の蜂蜜色に似た壁と、屋根の深い緑がとても上品だ。廊下などの天井は実に低く、長身者は頭上が気になるだろう。しかしそのことがホールや食堂の天井空間に特段の開放感を与える効果が計算されているようだ。ガラス窓も椅子も、調和のとれたデザインが施されているが、直線ばかりという印象がある。曲線は食堂に吊り下げられた照明くらいだ。旧帝国ホテルも直線が多いようだから、この時期のライトの作風なのだろう。
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明日館の周辺は、計画性のない路地が入り組む住宅密集地だ。駅ができ、街が膨張して行くに連れ生まれた住宅街だと思える。池袋は戦争末期の空襲で焼け野原となったのだが、駅西側は豊島師範学校の一部と立教大学、それに明日館周辺だけが焼失を免れている。館内に掲示されている豊島区教育委員会作成の地図を見ると、惨禍の中の奇跡としか言いようがない。「疎開せずに残っていた隣組の人たちの懸命な消化活動のお陰」と説明がある。
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近くの郷土資料館で「区政90周年特別展・豊島大博覧会」なるものが開催中だったので覗いてみる。若山牧水が「麦ばたの垂り穂のうへにかげ見えて電車過ぎゆく池袋村」と詠ったのは自由学園が開設されたころの風景で、「池袋駅なんてものは廃駅といってもいい位のみすぼらしいもので、お隣の大塚目白などのにぎやかな街に比べるとまるで田舎駅だった」と書くのは童画家の武井武雄だ。自由学園のここも開校時は「目白」だったたらしい。
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私が初めて東京で暮らしたのは東上線の沿線で、池袋は一番近い大きな街だった。東口には丸物デパートがまだ営業を続けており、西口の東武デパートも今ほど大きくなかった。闇市マーケットはすっかり撤去されていたものの、駅西口はどこか殺伐とした印象だった。駅の東西をつなぐ薄暗い地下通路は、若い私でもあまり通りたくない道だったけれど、「WEロード」と名を変え、若い女性作家が柔らかい色彩の通路にしてくれた。(2023.1.18)
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自由学園は1921年、羽仁もと子・吉一夫妻が創設した女学校だ。設立にあたって夫妻は、校舎の建築を帝国ホテル建設のため来日中だったライトに依頼、その教育理念に深く共感したライトは快諾した。こんな具合に館内の解説に従って書くと、美しい魂の出会いが簡単にこの建物を産み落としたように聞こえてしまうが、実際は大変な事業だっただろう。よほど真剣で切実な思いがなければ、大正期にこの校舎は実現できなかったと思われる。
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昭和に入って学園は東久留米の現在地に移転する。西池袋の校舎は「明日館」の名で、卒業生の活動拠点になる。1997年に国の重要文化財に指定され、大規模な保存修復を経て公開された。おかげで私のような素人建築好きも見学できるわけで、この素人はまず、想定外の小ささ可愛らしさに驚いている。校庭から望む中央ホール棟の柱列デザインは、写真でしか知らなかった素人に「大きな建物だ」と錯覚させた力がある。楚々とした清潔な力である。
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英国バース産石材の蜂蜜色に似た壁と、屋根の深い緑がとても上品だ。廊下などの天井は実に低く、長身者は頭上が気になるだろう。しかしそのことがホールや食堂の天井空間に特段の開放感を与える効果が計算されているようだ。ガラス窓も椅子も、調和のとれたデザインが施されているが、直線ばかりという印象がある。曲線は食堂に吊り下げられた照明くらいだ。旧帝国ホテルも直線が多いようだから、この時期のライトの作風なのだろう。
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明日館の周辺は、計画性のない路地が入り組む住宅密集地だ。駅ができ、街が膨張して行くに連れ生まれた住宅街だと思える。池袋は戦争末期の空襲で焼け野原となったのだが、駅西側は豊島師範学校の一部と立教大学、それに明日館周辺だけが焼失を免れている。館内に掲示されている豊島区教育委員会作成の地図を見ると、惨禍の中の奇跡としか言いようがない。「疎開せずに残っていた隣組の人たちの懸命な消化活動のお陰」と説明がある。
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近くの郷土資料館で「区政90周年特別展・豊島大博覧会」なるものが開催中だったので覗いてみる。若山牧水が「麦ばたの垂り穂のうへにかげ見えて電車過ぎゆく池袋村」と詠ったのは自由学園が開設されたころの風景で、「池袋駅なんてものは廃駅といってもいい位のみすぼらしいもので、お隣の大塚目白などのにぎやかな街に比べるとまるで田舎駅だった」と書くのは童画家の武井武雄だ。自由学園のここも開校時は「目白」だったたらしい。
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私が初めて東京で暮らしたのは東上線の沿線で、池袋は一番近い大きな街だった。東口には丸物デパートがまだ営業を続けており、西口の東武デパートも今ほど大きくなかった。闇市マーケットはすっかり撤去されていたものの、駅西口はどこか殺伐とした印象だった。駅の東西をつなぐ薄暗い地下通路は、若い私でもあまり通りたくない道だったけれど、「WEロード」と名を変え、若い女性作家が柔らかい色彩の通路にしてくれた。(2023.1.18)
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