今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

374 湖国(滋賀県)ささなみの湖国静かに陽が差せり

2011-09-02 16:43:30 | 滋賀・京都
滋賀県の人たちは、郷土を指して「湖国」と呼ぶ。琵琶湖の国という意味なのだろう。県民が手をつなぎ、優しく湖水を抱いているような、晴れ晴れとした誇らしさが伝わって来る。私も「日本を歩いて、良かったのは何処?」などと尋ねられると、まず「近江」を挙げることが多い。暮らすには静かで穏やかで、文化の層が厚そうだ。旅をするには歴史が堆積し、空が広く、緑が濃い。そしてどこか寂しい。湖国は敗残の地でもあるのだ。

近江の国は、都のバックヤードであることを常に宿命づけられて来た。大和に中央政権が誕生して以来、それが京都に遷り、そして京都を離れるまでの千年余、近江は都を支える兵站基地であった。近江の木々は都造営のために切り出され、琵琶湖の幸は都の人々の胃袋を満たした。琵琶湖は諸国の物資を運ぶ水路となり、陸路も北から東から、人々を都につなぐ街道になった。逆を言えば、人を押しのけずとも需要がやって来る土地なのだ。

だからだろうか、近江はいつも控えめに一歩下がり、頼もしくも節度を保っているように思える。人格に譬えれば、ぜひ近くにいて欲しい、信頼できる理想の同僚のような存在である。こうした土地からは、あまりアクの強い人格は出ないのではないか。戦国期の武将にしても、近代の政治家からも、そうした名は思い浮かばない。

むしろ自己主張の乏しいこの土地に、ブルドーザーにまたがって乗り込んで来たのは、他国の土建屋集団であった。日本中が土地あさりに狂奔した時代、琵琶湖は埋めれば金になる宝の湖だった。その風光をこよなく愛した芭蕉は、自分を膳所の湖畔近くに葬るよう言い残したほどだったが、今その墓所の先はすっかり埋め立てられ、湖面を望むことは到底できない。湖畔の葦はすっかり減って、平気で飲めた琵琶湖の水は遠い記憶になった。

そうなって初めて、湖国人は琵琶湖のかけがえのなさに気が付いたのだろうか、万事が控えめな人たちが、積極果敢な条例を定めて琵琶湖の復元に取り組み始めた。すっかり減った葦も、圃場で育てて少しずつ湖畔に植え替えている。まるで琵琶湖の増毛計画である。水質浄化は確実に成果を挙げ、水辺は憩いの場に戻った。

近江には彦根城という国宝があるものの、多くの城は戦いに敗れ、血に染まって炎上した城の跡である。短命に終わった近江朝廷に始まって、近江は敗残の地なのである。平城京を追われた恵美押勝は琵琶湖を彷徨い、高島で切られた。木曾義仲は信濃に落ちようとして斃れ、浅井一族は小谷城で滅び、信長を討った光秀は安土城に入って三日天下を終えた。そして三成は、過ぎたる城・佐和山を築きながら関ケ原に敗れ、城は炎上した。

さらに加えれば、この地に多くの足跡を記した朝鮮の人々も、半島での覇権に敗れ、追われて来た人たちではなかったか。彼らは先進の文化を伝え、何代も重ねて近江の人になって行った。近江路の静寂は、これら敗れた者たちの哀しみから来る石の翳り、土の匂いであると私は思い込んでいる。それは石垣を覆う雑草のように、時間によって沈潜し、視線から遮られているのだ。

甲子園球場が1万7000個並べられるという琵琶湖の水が、遊び疲れた子らが何処でも飲んで平気であるような、戦後間もないころまでの水質に蘇った時、1400年の時空に漂う哀しみは、湖国から、彼方の空へ昇天して行くことだろう。少しだけ残して。(2011.7.15-18)







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