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大阪の人々にとって、「天王寺」とはいかなる「場所」か。私の「大阪暮らし」は13ヶ月に過ぎなかったから、街に抱く大阪人の心情を理解するには不足だった。ただ「東京で言えば《上野》かな?」と想像した程度である。「訛り懐かし停車場」かどうかは知らないが、交通の拠点で公園があり、動物園があって美術館があり、そして露天暮らしが似合う、懐かしいけれども落ちつかない街。天王寺はそんな上野によく似ている。
私の大阪暮らしから、すでに17年が経過している。その年、大阪市立美術館で「鴨居玲展」をやっていた。思い返してみれば、天王寺で鴨居展とは出色のミスマッチである。その凄まじいばかりの人間凝視に打ちのめされて美術館を出ると、けばけばしい扮装をしたお年寄りたちがカラオケを絶叫し、気味の悪い姿で踊り狂っているではないか。まるで鴨居作品を抜け出した群像である。天王寺的白日夢に、私は眩暈を覚えた。
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ただプロムナードは高いフェンスに囲まれて、隣りの動物園そのままの「人間館」である。傍若無人の大阪人が、よくまあ檻の中を行儀よく歩いていることよと、新種のヒトを眺める思いで通天閣を目指す。「ジャンジャン横丁」を通過すると、上野から浅草にやって来た気分になる。フグ料理の張りぼては浅草・雷門の大提灯に似ているし、新世界の雑踏は仲見世といい勝負である。
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「天下の台所」といわれたころの大阪は、国の富の7割を集めていたのだという。いまはせいぜい2割あるかどうかだろう。大阪は大きな地方都市に過ぎない。しかし大阪が元気を盛り返さないと、日本はますますつまらない国になってしまう。(2008.5.12)
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