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河村顕治研究室

健康寿命を延伸するリハビリテーション先端科学研究に取り組む研究室

辞令交付式

2024-04-01 | 大学
新年度がスタートした。

本日は岡山駅前キャンパスで辞令交付式が行われた。

我が家の庭ではミモザが咲き、大学の桜もかなり開花していた。







吉備国際大学Charme岡山高梁 VS ディアヴォロッソ広島

2024-03-24 | 大学
高梁市神原スポーツ公園多目的グラウンドにおいて2024プレナスなでしこリーグ2部 第2節 吉備国際大学Charme岡山高梁 VS ディアヴォロッソ広島 株式会社本多組マッチデーが開催され、マッチドクターとして参加した。

試合に先立ち、シャルム高梁会を代表して近藤高梁市長から個人バナー贈呈式が行われた。


両者五分五分の接戦で結果、1対1の引き分けであった。








第118回医師国家試験の合格発表

2024-03-15 | 大学
第118回医師国家試験の合格発表が午後2時に厚生労働省のホームページに発表された。


  (出願者数) (受験者数) (合格者数) (合格率)
新卒者 9,716 人 9,489 人 9,048 人 95.4%
全 体 10,614 人 10,336 人 9,547 人 92.4%

第 118 回医師国家試験の合格基準は、
1 必修問題は、一般問題を1問1点、臨床実地問題を1問3点とし、
総得点が、 160点以上/200点

2 必修問題を除いた一般問題及び臨床実地問題については、
各々1問1点とし、
総得点が、 230点以上/300点

3 禁忌肢問題選択数は、3問以下
とする。

大学別の合格者状況では、私が注目している東京医科歯科大学は新卒で受験者数107人に対して合格者数は104人であった。

残念ながら新卒でも3人不合格となっている。

最近の医師国家試験はとても難しくなってきており、新卒で医師国家試験予備校が作った対策資料をiPad等を使って効率よく対策をして高得点をあげないとなかなか合格しない状況になっている。

一人でコツコツまんべんなく勉強をしていたら確実に落ちるだろう。

昨年に比べると合格率が少し上がったが、合格最低点はかなり上がっている。

これは受験生が例年以上に努力して得点をアップしたためと思われる。

大学コンソーシアム岡山代表者会議

2024-03-15 | 大学
大学コンソーシアム岡山代表者会議が岡山理科大学で行われ、参加した。

今回の議題の中で、注目すべきは、『基本方針検討委員会』が設置されると言うことである。

これはコンソーシアムの基本方針を検討する委員会という位置づけで、代表者会議の下に基本方針検討委員会を設置するというものである。

吉備国際大学でもブランディング実行委員会というものを学長を委員長として設置して、職位を問わずに優れた意見を取り上げようとしているが、こういった委員会はなかなかうまく機能しない。

しかし、漫然と従来どうりの行事をこなしているだけでは発展は見込めないので、こうした小回りの効く委員会は必要だと思う。

令和5年度 順正学園学術研究交流会

2024-03-14 | 大学
本日、順正学園学術研究交流会が行われた。

今回は九州保健福祉大学が担当で、私が開会挨拶を行い、九州保健福祉大学の学長が閉会挨拶を行った。

順正学園では平成17(2005)年2月から学術交流コンファレンスという研究発表会を九州保健福祉大学と吉備国際大学とで交互に開催して15年間実施してきたという実績がある。

学術交流コンファレンスの目的は、『各専門分野の研究者が横断的に連携することにより、新たな視点をもった専門性の高い学際的研究を期するとともに、学園全体の学問水準の向上と研究者の研究意欲の向上、若手研究者の育成をはかる』というものであった。

当時、発表者は全員開催校に集まって会場で発表し、開催校でない方の教員はテレビ会議システムで参加するという方式だった。

コロナ禍をきっかけにMicrosoft Teamsを用いて一昨年前から順正学園 学術研究交流会として研究発表会が再開された。


令和5年度スポーツ表彰

2024-03-04 | 大学
令和5年度スポーツ表彰が行われた。




表彰基準は以下の通りである。
(1)団体及び個人を対象とする。
(2)同一団体・個人で複数回出場している場合は、最高成績を対象とする。
(3)賞の区分は次のとおりとする。

・最優秀スポーツ賞 全国大会優勝、国際大会への出場

・スポーツ優秀賞 全国大会上位入賞(ベスト4)

・スポーツ功労賞 全国大会出場(備考参照)


【なでしこリーグ】2024年度 ドクター・メディカル会議

2024-02-25 | 大学
私は吉備国際大学Charme岡山高梁のチームドクターをしているので、
本日行われた【なでしこリーグ】2024年度 ドクター・メディカル会議(Zoom)に参加した。

アジェンダ
(1) 事務局挨拶
(2) なでしこリーグ概要
(3) 外傷サーベイランス(2023年度)
(4) ベンチ入りドクターと会場ドクター
(5) ネイルについて
(6) 質疑応答、意見交換

なでしこリーグ・WE リーグ合同メディカルスタッフ会議

2024-01-13 | 大学
2024 年 1 月なでしこリーグ・WE リーグ合同メディカルスタッフ会議がオンライン会議(Zoom)で行われた。

私は吉備国際大学Charme岡山高梁 チームドクターとして参加した。

ドーピングの問題、つけ爪によるリスクの問題、メンタルの問題など、現場を知らないと分からないようなテーマについて議論が行われた。

仕事始め式

2024-01-05 | 大学
元旦から能登半島地震が発生し、大変な年明けとなったが、本日、仕事始め式が行われた。

平穏な1年であって欲しいが、今年も甘くはないだろうと覚悟している。

どうか無事に1年が過ぎますように。

岡山経済同友会2024年新年祝賀互礼会

2024-01-04 | 大学
岡山経済同友会2024年新年祝賀互礼会が岡山国際ホテルで開催され、出席してきた。

写真は閉会挨拶をする岡山経済同友会代表幹事の中島義雄氏である。

中島さんとは古い付き合いでよく存じ上げている。

中島さんは株式会社システムズナカシマ 代表取締役社長である。

昔から、ナカシマメディカルの研究会でご一緒してよく知っている。

最近は学校法人中国学園の理事長にもなっておられるので、私とは同業とも言える。



石井十次はなぜ岡山県医学校をやめたのか(続き)

2024-01-03 | 大学
岡山県医学校のことを調べた結果、以下の様に書き改めた。

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【福西志計子と石井十次】
福西志計子が順正女学校の前身となる私立裁縫所を高梁に開設した頃、明治15(1882)年に宮崎県から石井十次(いしいじゅうじ)が岡山県医学校に入学してきました。
十次は金森通倫を通して新島襄の教えを受け、2年後金森から洗礼を受けました。
福西志計子と石井十次には密接な交友があり、十次の妻品子は、明治18(1885)年に新しく設立された順正女学校に入学して第一期生として学んでいます。
石井十次は孤児を救う活動に没頭したため卒業試験に失敗して医師になるのを断念し、キリスト教の精神によって岡山孤児院を創立して社会事業・児童福祉の先覚者となりました。
石井十次は医学部四年で退学していますが、のちに偉業をたたえ鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』に第三高等中学校医学部明治22(1889)年卒業者として掲載されており、このようなことは岡山大学医学部の長い歴史で他に例がありません。

石井十次が入学した岡山県医学校について調べると、明治13 (1880) 年に設立後、明治15(1882)年に甲種医学校に認可され4年間の教育を受けた卒業生は無試験で医師開業免状の交付が認められました。
県医学校の学生数は1学年75人前後であり、これに対して卒業生は毎年20人前後でした。
鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』は明治17(1884)年から始まっており、名簿に氏名が記載されている卒業生は明治17(1884)年11人、明治18(1885)年15人、明治19(1886)年9人、明治20(1887)年10人、明治21(1888)年4人です。
教育が厳格であったため卒業するのはきわめて難しく、明治21 (1888) 年に第三高等中学校医学部へ移行するまでこの状態が続いています。
そのような厳しい状況の中で石井十次は孤児救済のために医学を捨てざるをえなかったのだと思います。
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追記

社会福祉法人石井記念友愛社のホームページでは以下の様な記述がある。

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明治14年、石井十次(16歳)、内埜品子(15歳)と結婚。
上江小学校教師。翌年、宮崎警察官の事務官。
明治15年(17歳)、宮崎病院院長、荻原百々平の勧めで岡山県甲種医学校(現 岡山大学医学部)に入学。

医学への思いも断ち切れずにいた十次は、明治22年、「人は二主に仕ゆること能わず」との聖句に従い、医書を焼き医学校を退学。
この時、児童福祉・教育に専心する覚悟を決める。
十次23歳の時であった。
ーーー

多くの資料で岡山県甲種医学校という表記をしている。
岡山大学医学部の資料では岡山県医学校と記録されている。

甲種医学校というのは明治15(1882)年の太政官達により一定の条件を具えた医学校の卒業生も無試験で免状を得ることができるようになり、同年の医学校通則によって医学校が 甲・乙 2 種に分けられたことによる。
甲種医学校は修業年限が4年で、東京大学医学部の卒業生3名以上の教師が必要とされたが、卒業生は無試験で免状を与えられることになった。

したがって、岡山県甲種医学校という表記は間違いであり、岡山県医学校が甲種医学校に認可されたというのが正しい。

石井十次はなぜ岡山県医学校をやめたのか

2024-01-01 | 大学
昨年末に以下の様な文章を書いて、大学の教職員何名かに読んでもらったらいろいろと疑問が寄せられた。

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【福西志計子と石井十次】
福西志計子が順正女学校の前身となる私立裁縫所を高梁に開設した頃、明治15(1882)年に宮崎県から石井十次(いしいじゅうじ)が岡山県医学校に入学してきました。
十次は金森通倫を通して新島襄の教えを受け、2年後金森から洗礼を受けました。
福西志計子と石井十次には密接な交友があり、十次の妻品子は、明治18(1885)年に新しく設立された順正女学校に入学して第一期生として学んでいます。
石井十次は孤児を救う活動に没頭したため卒業試験に失敗して医師になるのを断念し、キリスト教の精神によって岡山孤児院を創立して社会事業・児童福祉の先覚者となりました。
石井十次は医学部四年で退学していますが、のちに偉業をたたえ鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』に第三高等中学校医学部明治22(1889)年卒業者として掲載されており、このようなことは岡山大学医学部の長い歴史で他に例がありません。
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疑問というのは、本当に退学した石井十次が岡山大学医学部の卒業生名簿に掲載されているのかというものであった。

これについては最新の鶴翔会(岡山医学同窓会)『会員名簿』に掲載されていることを確認した。

しかし、私自身も十次が孤児救済の社会事業をするにしても医師であった方がより活動の幅が広がると思うのに、なぜ退学してしまったのか疑問であった。

年末年始に時間があったので、岡山県医学校について調べてみた。

岡山医学同窓会報を読んでいたら以下の様な記述があった。

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「東の東大、西の岡山」と天皇行幸
明治16年(1883)8月27日甲種学校として岡山県医学校が認可されてから、明治17年(1884)6月に第1 回の卒業式が行われた。
卒業生は首席で卒業した21歳 の津下(守屋)甫一郎(後一等軍医正)以下11名であった。
その中に、日本人として初めてパスツール研究所 に留学し、「グラム染色」 を我が国に紹介し、明治20 年(1887)に初めて「免疫」 という用語を用いた、大正 6年(1917)に海軍軍医総監になった矢部辰三郎(写真)がいる。
当時、他の医学校では卒業生は未だ出ていなかった。
岡山県医学校では教育が厳しい為に、300人を超す生徒中、卒業試験合格者は毎年20人前後と少なく、卒業出来ない者は、医術開業試験を受けて医師となった。
明治17年(1884)に、この厳しい医師の養成をしている岡山県医学校を視察した文部大臣 森 有礼は、関西第一の医学校として、「東の東大、西の岡山」と絶賛したという。
更に、各県の医学校への明治天皇の行幸は、代理を遣わす習わしであったのに、岡山県医学校へは、明治 18年(1885)8月6日に異例の天皇行幸があった。
明治21年(1888)1月の第9回で、岡山県医学校卒業試験は最後となったが、9回迄の卒業生の総数は90名であった。
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このような厳しい岡山県医学校の教育と孤児救済の活動を両立することは石井十次にはできなかったのだろうと納得できた。