katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

わんちゃんとみどり教室とアクアリウムバスのサンプル

2018-09-27 06:47:16 | モザイク教室
今日はわんちゃんとみどりの相席教室。ただ大作も小物も両方終わってしまったわんちゃんの目的は、ひとまず達成したし、次の下地って言うのも特に作っていないし、何しろアトリエに来るって事だけでも良い人なんで、何か1日で仕上がるようなもの無いかなぁ?とサンプルを物色してこれになったのね。

相当前に、爬虫類の眼を作る・・・って感じのものだったんだけれど、それを模様を作るに変えたり、もはや単なる枠としてご自由に・・・って感じになり、後数枚なんて感じでシュールになっていた下地。ただこれだけの模様を1cmタイルで作ると、これはこれで良い仕上がりになったのね。

まぁこれだけの腕になって、その腕を持ってして、自分のやりたい事とこの大きさの中で出来る事がしっかり合致して、時間を読めればきちんと結果が出る・・・って話で当たり前と言ったら当たり前なのね。ただ、この大きさでも丸々1日掛けている・・・って事ではあるのだけれどね。

ってもみどりはって言うと、


そうね、今回大作が完成したわんちゃんの作品をキウイであり、みどりのような腕の人が見た事はとても大事な事だし、当然わんちゃんよりも先人の感想はねぎらいにも、今後の参考にもなっただろうし、その相席の持つ意味を感じているのはわんちゃん本人が一番良く判っているだろうね。

逆にローラのような入ったばかりの人には、わんちゃんは先人になる訳だから、その2人とは逆の立場で話が出来ただろうし、それもまた勉強の1つだったりもして、常に海外で1人作っているスタイルとは全く違う賑やかな相席は、何もかもが新鮮で刺激になっているだろう・・・って話。

そう言う何もかもが刺激になるたまにの人には、何もかもが新鮮に映るけれど、逆にみどりには何もかもが左程驚く事は無く、ほぼ日常となる。そりゃ数日前に来ているし、更にブログも見ていれば、毎日更新しているから、ほぼ何をしていたか?は簡単に手に入るのね。って事は、アクアリウムバスの事も

、そしてサンプルの事も知っているから、それを生で見たり聞いたりするだけの事で、これもただ更新しているのと一緒。つまり2人共に、同じブログで情報を得て、方やそれを月に3回更新して書き換えるのと、方や年に2.3回更新して書き換えるだけの違いであって、そこに何の違いがあるか?って言うと

数が多いと細々した説明が出来るし、逆に数が少ないと大まかに全体を通して・・・みたいな大きな失敗の無いような説明になる。ただこれは初期段階の話で、今のわんちゃんはあの大作を1人で作れるようになった人なのね。つまりこのブログを通信の勉強として使ってくれてここまで来た事になるのね。

そうなると、これから必要になって来るのは、ここでは説明仕切れない、文字で説明では無くて、生で体感して感じる・・・って事がわんちゃんには必要な事だと思うのね。つまりお客さん扱いでは無く、日常・・・つまり日頃来ている人と同じような体験をね。

そうなると、キウイのような生徒とした立ち位置でのエースの相席は、おやつでお休みの時間もあるし、楽しい話も多いし、和気藹々な感じでもある。逆にみどりになると、弟子なんでお小言な事も多いし、とは言え楽しく無い訳でも無い。しかも2人共にイベントやら出張の手伝いもして貰っている。

つまりタイプは違えど実力者である。その2人との相席って言うのは、とても得るものは多いし、感じる事も多いだろうと思うのね。しかも、わんちゃんの時間を取る事も無いしね。そんな考えもあって、今まではわんちゃんよりも上手い2人の相席が多かったのね。

しかし今回のローラの相席は、多分初めてだと思うのだけれど、自分が上の立場での相席となった訳で・・・それは過去の自分との遭遇になるし、意見や感想を言う場面の言葉の選択だったり、ローラの質問が新鮮に聴こえたりしただろうし、今までに無い経験値になったと思うのね。

そして、何故こんな話になるのか?って事になると、もうわんちゃんはいつでも弟子で良いよ・・・そうなりたいと思ったら。って人になったよってお伝えする為なのね。これだけ熱心にここに通って、更に1人であの作品を作れる。そして辞めない・・・もはやその権利は十分にある。

ただまだ習いたい事があるのか?それとも逆に教えたり、その実力を使った事に参加をしたりしたい方を優先出来るか?なのね。例えば、仮にもしわんちゃんの日にイベントやら出張が当たったとする。仮に習いたいを優先すれば、予約の日を変えて行く事になる。しかし俺が忙しくなると、その数も

増えるかも知れない。それがもし弟子であれば、こちらも遠慮なく誘うだろう。何故ならその腕を色々活かしたい・・・って扱いになるから。つまり教える事もそこにはあるし、制作って事もあるかも知れない。何が来るか?判らない。でも習う事だけを続けるのなら、いつかそんな事も起こり得る。

しかし逆に活かしたいであるのなら、そんな日も勉強になるし、刺激にもなる。ただ習う時間と引き換えになる。そうね、進撃の巨人でリバイ兵長って偉い指揮官のような人が、責任者として戦場で、チームとして戦った時に仲間が死んで結果を得られず、そこで次の機会では、個人プレーで戦い

仲間が死んで結果を得られず・・・その繰り返しになった時、最後は自分で決めろ・・・なんてシーンが出て来るが、そんな選択は恋愛でもそう。
失敗した事を悔やんで是正をして次の人と上手く行かなかった場合、これもダメだった、これもダメだった・・・と深みにはまる。

しかし本来是正をするのなら、同じ人に是正をしないと変化にならない。違う人、違う場面でそれを試しても、本来の是正にはならず、ほぼ意味の無い事になる。しかもそれは結果が全てであれば、どんな形であろうが、成功した事になり、プロセスでは無く結果となった事になる。

もはやにわとりと卵の話みたいな事になる。常に何かと向き合うと最初はやって見たい・・・って素直な気持ちだったりする。それがやるからには上手くなりたい・・・に変化したりする。所が賞だったり、級だったりするのなら、判りやすいが、当然受かる事もあれば落ちる事もあるだろうね。

また他にも発表会なんて事もあったりするし、モノつくりなら展示販売なんて事もあるだろうね。所がここには良くも悪くも全てほぼ無いのね。ただ作るだけ・・・そして場合に寄っては人から凄いね・・・って時々、見せる機会があった時に言われるだけ。ってそんな感じ。

そんな中、わんちゃんは自分の代表作が出来上がった。これだけ出来れば趣味の世界なら十分な作品である。その次なるステージは習うでは無くて、教える事なのかも知れないのね。教えるって言うのは、育てるって言う事に繋がり、自分が作るでは無くて、人が作るのだから、いかに手を出さずに

言葉で連れて行けるか?が問われ、その技量がレベルアップすると、伝えるって事が上手くなるもので・・・そうなると、自分が習う人になった時に、より繊細な質問が出来るようになるもので・・・だからこそ、その技量に届いたような人に声を掛けたりもするのね。

ただわんちゃんの場合、いかんせん来る回数が少ない・・・それはかぐやなみ。果たしてそれが正解かどうか?ただ先日、キウイと一緒にデイ・サービスに行った時のワンちゃんは楽しそうだったし、中々初めてとは思えない位、手慣れていたのね。いずれにせよ、そんな話をする位の人になった・・

と言う事でもある。そんな中、さくらのカウンセラーでもある先生から、俺に・・・とみどりから手紙を預かった。流石に全て公開って訳にも行かないが、その一節に、師とは真理に向き合う事・・・と書いてあった。ん・・・そこで、みどりに昨日のかぐやのくだり、どう思った?と聞くと・・・

鏡かと・・・って言うのね。おかしい、全くおかしい。こんな気の利いた謎かけのような返答が出来る程、変わったとは思えない。何だこの違和感・・・ただ面白い。これはヒカルの碁を知っている人なら、簡単に判る話だけれど、眼に見えない人がその人の後ろに見えるのね。

つまり弟子であるみどりの器はこの位・・・って知っているはずなのに、今日のみどりは手強い・・・しかも、人はそんなに簡単には成長しない。となると、何かを手に入れた事になる。そしてその何かを手に入れたとすると、必ずそれを授けた影響力の大きい人がいるはず・・・。誰だ?それは。

って事になるのだけれど、みどりから手紙を預かった・・・相手は先生。って事で、先日の労作展で、さくらからみどりに渡ったものが、今ここにある・・・と判断していたのだが、良く考えれば不自然なのね。何故ならその先生には2度程、お会いしていて、、しかもさくらが連れて来た・・・。

つまりそれなら、さくらからその手紙を貰うのがスマート。つまりみどりから貰ったって事は・・・なるほどね、みどりが先生と会ったって事かっ・・・つまり今日のみどりの後ろにいる人は先生って事か・・・それならツジツマが合う。どうりでいつもと違う雰囲気に感じたのね。

何がどう違うと感じたか?って言うのは文字では難しいのだけれど、例えば困った顔をしたとする。これがいつものみどりなら、自分の気持ちを上手く伝えられずに・・・って困った顔をするはずなのね。でももし、困った顔って言うのが、上目線・・・つまり親が子供を見る目線であったとしたら?

その表情もやはり困った顔になる。つまり表情は一緒になる。所がその成長を見逃すと、子供は成長していて、もし自分を過信していると、正論を突き付けられるなんて事があると思うのね・・・それは子供と親の関係。こちらは大人と先生の関係やら、弟子と師匠の関係ってもうワンランク上で、

言い方を変えれば、同じ大人・・・成長をする気なら、経験値もほぼ一緒。技術も会得であるのなら、それを作る人も成長として会得は大事であるが、そう言う人と出会うって言うのは、そう簡単じゃないのね。そうね、簡単に言えば、学校では無く塾みたいな事だったり、学校のクラブでは無く

クラブチームとか、みたいに普通では無い場所に行った時に、普段とは違う指導であったり、考え方とでくわしたりする。まっ、これがエリート的な成長の場所だったりすると、今度は逆に一緒に共にみたいな事が重視で、結果よりもプロセスって点では、思い出作りって感じを得るなんて考え方も

あったりすると思うのね。仮にどちらに身を置いたとしても、当然クラブチーム的なエリートで勝ち抜けば、よりプロに近づく指導を受けられるが、当然ふるいに掛けられるから、残れば・・・の話で、大きくは外れる事の確率は高い。つまり厳しい結果も覚悟しないとならない。

逆に学校のクラブであれば、余程の有名校で無い限り結構な確率で試合にも出られるだろうし、大人になってからの思い出話は、前者よりもしやすいかも知れない。おっと話を戻して、つまりみどりの成長を考えると、身の廻りにクラブチーム的な所属をしない限り、日常にそれ程の変化を与える、

そんな人物はいないはず。なのにこんな大きな変化を及ぼす・・・そんな人物・・・なるほどね。ならば、弟子のみどりとは思わないで、眼に見えるみどりでは無く、後に見える先生と話している・・・と思えば、違和感は消える。人を見掛けで判断をしない・・って話だったり、眼に見える事だけ

にとらわれずに、眼に見えない事をいかに感じられるか?になる。こんな事をタダで出来るなんて有難いのね。人の成長は相槌を打って貰い、安心をする事では無く、思い込まず、確実な根拠でそうである・・・みたいな事で、それこそ真理の意味する事に繋がって行くと思われるのね。

そうなると、さっきの先生の一節・・・師とは確実な根拠で物事の本質と向き合う人の事・・・って意味になると思うのね。正直、まぁ面倒な役割だなぁ・・・と思う反面、もしその役割が俺に与えられた役目なら、ただそれを受け入れるだけ。

つまりみどりと向き合っているのでは無く、後の先生が、昨日のかぐやの話をみどりの口を借りて、鏡かと・・・と言ったとしたら?つまり弟子がその態度であるのは自分自身の問題であり、本当に影響を及ぼす力があるのなら?それを認めて、当然やる事は1つ・・・明日、かぐやに俺の技量が無く、

すまん・・・と謝るべきである。となる。・・・のかな?あはははは、面倒だわっ。鏡だったら頭を下げれば、頭は下がるだろうから。まぁ、あの先生は厄介な事をするなぁ・・・しかし勉強になる。




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