katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

かぐやが帰って日常に・・・

2022-10-11 23:35:47 | 休み?

今日は午後イチでかぐやが帰るんで、羽田に送迎。まぁこうした時間がとても大事で、大阪に帰ると電話での話になると、例えば、かぐやの都合に寄って、それじゃまた・・・って事になったり、時には気分なんて事で持ち越し・・・なんて事になったりするのね。それでは鉄は熱いうちに・・・

が出来なくなるのね。それを待ち切れずにやったりすると、当然意見は食い違うし、お互いに嫌な気分になる。ただこれはサザンと桑田さんとか、安全地帯と玉置さんのように、別の人のようなやり方で、前者の場合、ソロになると政治にも介入するような歌詞もあったりして、大衆音楽から大きく

離れたりもするし、後者では愛の歌しか歌わない歌詞から、ソロになると田園のような応援歌みたいなものもあったりするのね。つまりkatsuって人も一緒で、ソロとそうじゃない場合の、2つあると思っているのね。つまりソロでない場合の折り合いなんてもんがあるはず・・・だと。

つまりいつかそんな場面が来た時の練習・・・だとね。だから、かぐやとは突っ込んだ話が多くなるのね。でも先日の話のように、人の否定はして、自分の意見が無いって言うのは、お話にならないのね。常に最低でもこんな風に思っている・・・って言う事は伝えようとしないと、具体化が出来ないのね。

勿論、常に自分があれば答えられても、それが正しい訳では無いし、そんなに正しい確率が高ければ、かぐやが師匠になっちゃう訳で・・・。まぁいくらなんでもそんな事は無いから、となると、弟子と言う立場で責任も背負いつつ、自分を語らないとならないのだから、きつい立場であるとは思うが、今何も言えない状況では、いつかその時が来たら、果たしてその状況下で提案が出来るだろうか?

となると、向き合う回数も多くなるが、まぁ向き合い疲れにもなるだろうし・・・こんなやり取りを電話でやるのと、実際会ってやるのでは、全く違うのね。何しろ最低限、これからのマルシェ出店の是正についての方向性のきっかけだけは、置いて行って欲しいのね・・・。

何しろ電話になると熱量が変わり、温度差に繋がってしまいがちだし、伝わりづらいと、じゃそれで・・・なんて事になるのね。それでは結果の前にプロセスに納得出来なくなる。ただ、いる時間を有意義に・・・と思う気持ちと、いた時間は有意義に使ったよな・・・って気持ちは別物で。

最終日まで有意義に・・・なんて目的意識を持つべきなのか?、それとも、昨日までのやるべき事はやったのだから、最終日くらいと考えるべきか?なんて葛藤は常にあって、だからこそ決定するまでとは言わずに、きっかけくらいなんて言い方なんだけれどね・・・。

でもそれとて、一体ゴールをどうしたいか?で全ては変わって来るのね。単純に例えば、楽しくって言うのなら、出来れば良いだけだから、スポーツなら、野球ならキャッチボールをしたとか、テニスならラリーをした。これで十分で、これこそが体験教室感覚なのね。

所が、野球をしたいとか、テニスをしたいとなると、ただボールを投げて取ったとか、ただ打ち合っただけでは満足感は得られないから、試合が出来るように・・・となり、ルールに乗っ取り、打つ走る取る投げるの一連の動作を習う事になったり、テニスなら、サーブを2回の中で入れて、相手の

コートに入れるなんて練習があったりして、体験とは違う事になる。それが更に技術の向上となると、今度は相手の嫌がる事、困る事の駆け引きを習う事になる。相手の裏をかくなんて事になるのね。全てのスポーツは、あっち向いてホイが基本で、勝つって事が目標なら、ここは絶対にそうなる。

まぁ普通はこんな所が、素人としての感覚になるんだろうが、それだって高校野球やダンス甲子園なんでも良いけれど、目標がただ勝ちたいって言う位と、最高峰の一番とでは、練習の熱量も変わって来るし、ましてやプロになるって事になれば、結果が全て・・・負けて良い事は1つも無い。

なんて事を考えてしまう時間ばかりでは、かぐやも疲れるだろうし・・・。この辺かな?なんて事も思ったりすると、最終日はスルーなんて事もあったりする。甘いと言えば甘いし、そこを頼っていると思われるのなら、俺自身が甘いって思われるんだろうし・・・まぁこんな事を常に考えたりする。

そんなこんなでいつものように羽田に送って、いつもならお茶して帰るんだけど、折り返して母の病院なんで、今日はそのまま折り返し。何とかそっちも間に合って、終わったら夕飯時・・・お弁当買って一緒に食べてからのアトリエ。ただ、日常の立て直しってそれで無くても大変なのに、病院

を挟んじゃうと、気持ち的にそれで疲れちゃったのね・・・ただ1つだけ良い事があったとすると、最近の2回の母の様子が明らかに良くなっていて、まずは表情が全くの別人のように豊かになっていたのね。調子が崩れている人って言うのは、覇気が無いのね。だから喜怒哀楽なんて事は少なく、

ん・・・そうね、能面みたいに見えるのね。だから心底って感じにならないから、笑っても愛想笑いに見えるし、もっと言えば、楽しいって気持ちにならないのね。それでは表情に表れないし、怒りにしても、元気であるなら自己主張なんて事もあり、不満なんて事があったりする。

それが文句となったりすれば、表情に出やすいが、悪いのは自分だから・・・なんて事になると、ごめんなさい・・・的に引き込みがちになるから、これで喜怒の2つに差は無くなる。そうなると、次は哀になるが、これは歳を取ると涙もろいなんて事になるから、黙っててもそうなりがち。

そして楽にしても、楽観視的に、何とかなるよーって、なんくるないさーって感じなら、その時点で、心配ないさーになるが、通常なら、今まで出来た事が、出来なくなる事で悲観的になるって考えるから、100から減って行く一方になる。ほら昨日までの話になる。

それが一旦リセット出来れば、0にして、2出来たとか、5出来たに変わって来る。それが出来ていた自分と比較するから、もう戻れないって卑下すれば、悲観的になる。これが喜怒哀楽の表情の仕組みなら、調子を崩した人の表情って言うのは、1つになる。とても判りやすいのね。

こんな事が合っていたとしたら、もしプロの役者なら、この程度の事は知った上で、演技をすれば、そこを誇張すれば、オーバーアクションになるだろうし、知った上で、一旦リセットすれば、それが着崩し的になるのね。つまりそれを知らないままでやると、だらしなくなるのね。

それを知った上で、崩すとやり過ぎにならなくなる。ただこれもビギナーズラックって初心者なら通用する仕組みがあって、常識を知れば、非常識はしずらいが、最初は無鉄砲な事がしやすいから、それがハマると、誰もが避ける事が出来たりする。まさかのど真ん中ぁでしたなんて感じにね。

例えば釣りなら、足元かよ・・・みたいな。更に、幸せって言うのは身近にあるみたいな・・・とか、外国へ行って日本の良さが判るとか・・・ね。いずれにしても、この気持ちって言う部分が変化すると、ここからが病は気からなのね。気の話。これによって前向きになるものなのね。

そうなるとやって見ようかな・・・って。それをある程度強制的に行うのが、幼稚園だったりデイ・サービスだったりするのね。そもそも行きたいと思っているよりも、行くのかぁ・・・って知らない所に行かなきゃならない感じの方が多いと思うのね。その時に、誰かと一緒とか、新しい事が好き

とか、行きたいと思う気持ちになりやすい人と、刺激が不安になる人がいるのね。母も俺も後者かな。所が行くと決まると、行かなきゃならないに変わり、行ったのなら頑張らないと・・・と継続させようとし過ぎちゃうのね。まぁ無理すれば続かないんだけれどね。所が母は老人。

あの頃とはキビキビ感が違うから、そこまで頑張れない。ただ言われたら素直に聞くだろうから、真面目にやるだろう。その勤勉さはきちんと結果に伴って行ったと思われるのね。例えばね自宅にいれば、ラジオ体操すらしないだろうね。所がデイ・サービスで運動をさせられる。

そのされられている事を、しなくちゃ・・・って思う人と、えーやるのぉ・・・ってやる人では、汗のかき方だって違うと思うのね。つまりちゃんとリハビリした事になる。その結果、杖なしで歩けるようになり、歩く姿勢も変わった。しかもその結果を先生に褒められた。そりゃ気分が良いね。

ほらまた気。こんな理由から今、恐らくすこぶる元気だと思うのね。じゃここから良い事と悪い事は背中合わせ・・・って言うから、老婆心でここから、駄目になる事があるとしたら?と考えると、褒められたって人がいるのなら、褒められないって人がいるはずなのね。そしてもしその褒められなかったって人が、

長老だった場合、妬まれたり、恨まれたり、嫌味の1つも言われれば、恐らく母の事だから、一挙に落ち込むだろうし、行きたくないなんて始まるだろうし、歩けるからと、杖無しで出掛けるであろうから、持って行かないと・・・って言わないとならないし、本来は人よりも長けていると思われるなら、

何しろ実ったら頭を垂れる・・・の姿勢なんだけどね・・・判るかなぁ、母ちゃん。無理だろうなぁ・・・何もしでかさないと良いんだけど。

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