katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

くじらとキウイの相席教室

2023-07-01 07:03:54 | モザイクタイル教室

今日は久しぶりのくじらとキウイの相席教室。んーそうね、くじら教室ってのは、タイルに一切触らなくても良い・・・に近い教室でね、くじらの考え方と俺の考え方のすり合わせ的な会話だけで成立するような事だったりするのね。ただ基本的には余り変わらないとは思うのね。

でも大きく違うのは、組織みたいな所、それは会社でも学校でも、団体に所属するってスタイルの中で、普通ってくくりでは無い場所に入った場合の話ね・・・例えば釣りバカ日誌のはまちゃんのように、出世する要素は一切無い・・・こんな場合、非難はされても嫉妬や妬みや欲望と言った事に

巻き込まれる事は無いのね。だから悩み事があるとしたら、リストラってだけだと思うのね。映画の中でもそうだったのね。これが現実だとしたら、もう一つあるとして、窓際の部署で馬鹿にされながら生きる・・・こんな事もあるかも知れないが、それとて、お金は貰えて釣りが出来るって強く

思える精神力があれば特に問題は無いのね。ちなみに精神力とは、ここでも目に見えない力って事ね。まっこっちの悩みの話では無く、もし出世側にいたとすると・・・こっちの話ね。まっ俺はそっち側をエリートって言うんだけれど、この両極端な例以外を普通って呼ぶと思うのね。

これをサッカーなら、一人だけ手を使うキーパーって言う、人と違う事をする点を取られないようにはするけれど、点を入れる役目では無い人と、逆に何しろ俺に回せ的に、一方的に攻撃に専念するような、点を取る事だけに重視するなんてフォワードって事にすると、ミッドフィルダーって真ん中

の人達が普通な人達って役目分担になると思うのね。ただチーム一丸となって・・・って言うスポーツと、仕事の組織となると、地位や名誉などの出世にはお金が付いて来るから、嫉妬だ妬みだ欲望が渦巻く中に身を置く事になるのね。ただそれも、エリートと叩き上げって言う考え方1つで、

大きく違って来るのね。まぁ俺の場合なら、履歴書のトップに美大の名前が無い事は芸術を名乗るには、大きなマイナス要素にはなるのね。だから叩き上げ側にいるのね。これがタイル屋なら、元気とやる気で十分。肩書きは別に要らないのね。しいて言えば後を継ぐなんて言うといわゆる2世ね。

ただ猿之助や、圓楽さん、貴乃花さんみたいに、先代が立派な場合には、跡目を次ぐ者としては一般人には判らないプレッシャーがあるだろうし、エリートにしか判らない辛さはあるだろうね。でも俺の親父程度の名前を継いでも、あぁ何処どこさんのせがれかぁ・・・程度だから、大した話では

無いのね。話を戻して、普通はそんな組織の中では、後ろ盾の学校繋がりとか、色んなくくりで色んな特典もあるかも知れない。逆に何も無い場合、お天道様が見ている・・・的に、毎日の繰り返しで発見される事をひたすら待つ・・・的に、地味ぃぃな事になったりするのね。

こんなルールがあったとすると、世の中には常に例外って奴がいるのね。その例外は前例が無いって奴だから、まぁ学校で言う飛び級的になるから、恐らく相当目立つ事になる。ここで俺側の人なら、普通じゃ無いし、エリートでも無い・・・って事なら、自覚するだけで、厄介な事になるな・・・

って警戒して置くと思うのね。所が何も考えない、意識しない・・・ってスタイル側で生きようとすると、普通なら何も問題無くても、人が羨むようなくくりの中に入れた場合、物凄い波風が立って当たり前なのに、何でこんな事に・・・なんて思っちゃうものなのね。準備や用意が無いから。

つまりそうなりたい・・・なら、そうなる準備や用意って心を持ち合わせれば、その日が来た時には、憂う事と願う事で大体乗り切れるのね。そうならなければ良いな・・・と願い、そうなっちゃったかぁ・・・と憂う。だから、大体いつも普通。ただ心の準備や用意が必要だから、そうなる前に

ありとあらゆる想定を考える事で、何も起こっていないのに、元気なウチに傷んで置くスタイルになるのね。だから痛みは慢性化して平均的な痛みがずっと続くと考えると、ローン的な考え方で、一定に支払う方法と、変動的に支払うって考え方と同じね。だから俺は一定を選んでいるって事ね。

勿論どちらにもリスクはある。しかも40の手習いなんて言葉もあるし、人間はそう変わらないって言う人もいる。ただそれは変えようとしていないだけで、必ず変わりたく無かったとしても、変わらないとやっていけない日が来るだろうね・・・きっと。そのまま生きられる自信があるなら、

こんな話は元気な時の坊さんの話だから、ぬかに釘、馬の耳に念仏的になるから、余計なお世話なんだけれど、くじら教室では、何しろお互いの考え方をぶつける事が大事なのね。何故なら身の回りにはこの考え方が無いだろうから・・・。自分の環境の中に。つまり俺はウイルスになる。

くじらの中に、くじらの環境の中に無い考え方なら、自分の中に無かったものだから、ウイルスになる。仮にそのままウイルスだとするのなら、感染しないように来ないって選択があるのね。ただもしその自分の中に無い考え方ウイルスを自分の中に入れ、もしそれを受け入れて自分なりの解決に

役立てたとしたら・・・それがワクチンにもなる。ただそもそもいつものくじら、いつもの体調で無いと、ワクチンは病魔の原因にもなるのだから、量と見極めも必要なのね。そうね、久しぶりだったし、思ったよりも元気だった事もあり、いつも以上にウイルス多めだったのね・・・あははは。

まぁ後は、自分を自分でどう見るか?この見極めも大事になる。その最たる話がさかなクンなのね。田舎には良い人や親切な人はいるが、学者はそうはいない。自分のものさしで図る人達に、あれが良い、これが良いと言われて、変わり者扱いもあったりすれば、普通なら親子共々、兄弟でも、心は

折れるだろうが、諦めないって言うか、まい進って言うか、続けるって継続していると、結果としては学者になってしまう。つまり逆を言えば、この先、学者になる人に、やれ魚好きなら魚屋さんになればとか、水族館の飼育員とか・・・って言われて、更に変人扱い。

でも白鳥になって、一人だけ別の世界へ・・・人と違うって生き方は、中々難しいもので、その群れの中では生きづらい。でもそこで生きようとするからであって、予定調和では無い事は冒険って刺激になる・・・そうね、最終手段は俺はタイル屋辞めて、モザイクだけにしたけどね・・・。

まっ最後はこの一言で終わるだろうけれどね。まぁこんな話は今は普通って思っている人達には理解しずらいけれど、自分の身を下に置けば、何とも楽な生き方が出来るが、オスカルじゃ無ければ、そうも出来る人はいないだろうし、本当に下ならまだしも、ただ単に下に置いて楽しよう・・・。

そんな考え方だったりすると、思い違いがあったりすると、偉い事に巻き込まれるはずなのね・・・人の群れって言うのは良くも悪くも群れなのだから。まぁこんな話を横で聞いているキウイは、俺がいつに無く荒れているような内容に思うんだろうが、叱咤激励って言うのなら、くじらに誰が叱咤

する・・・って言うと、普通の大人なら曖昧にしとけば良いのね。それが平和に繋がると信じているから。ただそれなら叱咤激励では無くて、激励激励って言葉にすれば良いし、砂糖に塩では無くて、砂糖砂糖の方が甘いはずなのね。ただ叱咤激励とは塩に砂糖って感じだと思うんだけどね。

そしてそう感じるキウイは砂糖なはず。なら必要なのは塩でしょ・・・何でもバランスってもんがある。増してや砂糖増量なら、塩は力士くらいになりそうでしょ・・・。心技体って一体なんだろうね・・・。何でも理屈や理由がある・・・って考えると、そうする為にはどうすれば良いか?

になるけれど、事が起こってから動き出しては、対応だけになるし、ほぼアドリブだったり、思い付きになる。普通はそうなるには、ベテランお母さんの料理みたいなもんで、冷蔵庫の中にあるもんで・・・って出来るのは、ベテランだから。つまり時間が掛かるのね。

でももし、時間を掛けずにそうになりたいのなら、理屈や理由、仕組みを理解出来れば、全部じゃ無くても、大まかに外す事は無くなるはずなのね。何しろ是正するには受け入れる体制が整わないと、けど・・・って文章になるものなのね。つまり変える気は一切感じられないのね。

勿論こんな話は、サンプル話だから、人はそれを聞いてアレンジする・・・って変化させるのは、体験教室にも十分ある事なのね。何せ物作りって言うのは、自分自身なんだからね・・・。どう使おうが、お任せなのね。

それと気が付くと、ゴール目前なのね。


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