katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

棟梁とリピーターさんの相席教室

2017-08-21 23:24:29 | モザイク教室
今日は棟梁とリピーターさんの相席教室。アクアリウムバスの下地で随分とバタバタしちゃった事もあって、来る前に何とか帳尻合わないかな・・・・とやっては見たものの間に合わず・・・若干オーバー気味だったけれど、彫り足してここまで来たのね。

ただ問題は以前は全面的にバックをやらないって事で、それを踏まえてこうなった訳で・・・。ただこれを見て、いくらか心境の変化があったりすると、もう少し張る部分を増やす事も考えるかも知れないし・・・。そんな中、予定よりもバックを張る部分を増やす。

ってな事になったのね。さてそんな中、今日イチの指導な話は、黄色い花にしたい・・となる。当然、自分が黄色くしたいのだから、じゃタイルを持って来て・・・と言えば、テーブルには色んな黄色が並ぶ事は言わずとも判るのね。問題はそこじゃないのね。

大事なのは黄色以外の話なのね。しかも、その前にどんな黄色がそこに無いか?なのね。例えば見なくても棟梁なら、絶対に味付けの濃い黄色は外さないはず。じゃリピーターさんは?となると、それが外れていたのね。つまりその時点で葉っぱに濃い緑は無いのね。

だってバランスが悪くなるからね。逆に棟梁ならこれも迷わずに持って来るだろうね。つまり指導はリピーターさんには濃い色をちょっぴりでも使えないか?になり、逆に棟梁には逆に濃い色を少し控えないか?になる。それで、さっきの話だけれど、黄色い花に黄色。

当たり前なんだけれど、黄色い花だから・・・って言っても、黄色だけでは無いのね。影になる部分だってあるからね。じゃその部分を持って来る前に口にして・・・と言うと、薄い茶色って言うのね。そうね、当然、薄いみたいな表現はするはずなのね・・・。

じゃ棟梁は?って言うと、茶色って。まぁ当然なのね。じゃ2人は実際何を持って来たか?すると、確かに薄い色は持って来たけれど、茶色に見えるか?となると、恐らく10人に聞いたら10人が茶色とは言わないだろうな・・・って色だった。

つまり自分の口にした言葉とは違うものを持って来てしまっているのね・・・ただ自分だけがそう思っているだけでね。では同じ茶色と言った棟梁は?って言うと・・・これがおうど色を持って来たのね・・・そこで、それって茶色かな?って聞くと、だって茶色は、

濃過ぎるから・・・って。あはははは。嘘つきぃぃぃって話。ここではっきり明暗が分かれたのね。つまりリピーターさんは口にした薄い茶色には見えないものを持って来た・・・だってタイルには薄い茶色なんて無いからね。

こんな場合、そもそもが口にした表現が間違っていて、更に持って来た色は仕方なく選んだだけ・・・そんな感じだから、間違いを指摘して是正出来るのなら、簡単に是正は出来るのね。ただ棟梁は?と言うと、茶色と表現して、持って来たのはおうど色・・・。

何故、おうど色と平仮名表記なのか?・・・おうど色は漢字で書くと黄土色・・・つまり黄色に土って書くのね。つまり黄色に合わないはずは無いのね。じゃ合うって事にすると、口で表現した色と違うものを選択したのは、リピーターさんと同じなのに、

結果としては、合っている事になった事になる。完全に裏切りなのね。正解だけれどね。じゃ自分だけが合っている・・・これがもし教える側だとしたら?もし仲良しに相談されていたとしたら?・・・だから、自分だけが合っているだけでは、それ以上は

上手くならないって事なのね。上手くなったら、人に相談されたり、質問されたりもするから、その表現一つでその人に影響される可能性が高くなると言う事なのね。しかも受けたダメージだって大きいのね。だって間違った表現は一緒なのに、最後の最後で

完全に裏切るのだから。じゃ何故そうなったか?ここね。簡単な話で簡単な表現をしたか?なのね。そもそも混ぜられるのなら、その自分の表現の色を作れば良いのね。勿論、その色を作る技術が難しいんだけれどね。それがタイルは混ぜるでは無く選ぶなのね

・・・人が作った色の選択なのね。だから自分の思った色がそこにあるとは限らない・・・いや絶対に無いって方が良いね。ただ、はっきり幼稚園の子供でも判る表現なら、大抵の色はあるのね。つまり、赤、青、黄色、緑、白、黒・・・ってね。

それをエメラルドブルーだとか、ハロウィンの紫とかってね・・・でもきっと薄い茶色って表現は、ただ薄いを付けただけじゃん・・・って思えば、とてもシンプルな表現をしたと思うのね・・・きっと。でもタイルには無いんだから見つかる訳が無いのね

・・・。まっ、世の中のストレスの原理。口で表現したものと実際のものが違ったギャップ・・・これがストレスの原因。しかも、自覚として何が?何処が?になるから、巡る気持ちに収拾が付かなくなる・・・。ただね、ここがリピーターさんは無いのね。

何故なら、無ければその中で解決してしまう・・・そんな性格の持ち主だから。だからモザイクには向いているのね。ただ、その感覚は合っているのだから、表現さえ間違わなければ、何の問題も無いのね。こちらはそこを教えれば何の問題も無いのね。

でもね、棟梁は結果として合ってしまった・・・つまり常に結果は合ってしまうから、ストレスは起こらない・・・けれど、もし一緒にやっていたら?どうなる・・・・何回も何回もこんな事が起こったら?・・・。

これが目を使って探す所まで一緒にやったとしたら?ただ、こっちのが良くなぁぁぁい?って黄土色になるんだろうけれど、もし手が離せずに、言葉のみだったとしたら?完全に、結果を見て・・・茶色をこれ濃くなぁぁぁい?って言うんだろうね・・・きっと。

しかも、濃い色が好きな棟梁にね・・・。あはははは。こらこらって話。そもそも、俺は全く指導はしていないのね・・・勝手に棟梁が選んだ黄土色を見て、2人が納得しただけ。その結果を説明して、だからそうなった・・・って指導をしたのね。

偶然じゃ無くて必然でそうなったってね。まっ、簡単に言えば、思い込みって話で、まず自分がどうしたい?って思った時に、既にリピーターさんは黄色だらけのタイルがテーブルにあった・・・しかもそこには濃い黄色は無く・・・。

つまり好みで外した。この時点で濃い色全部が外れてしまう可能性が大になった自覚を持たずに、黄色だけの事で外したって気持ちなのね・・・きっと。だから、例えば葉っぱの緑とか、他の部位に移動したら、その都度、考える事になる。

だからもし、その部位では濃くても大丈夫と思うと、それを使おうとしてしまうから、それが強調されれば、黄色い花が目立たない可能性が高くなる。逆に安定して薄いのだけを選んで行けば、ぼぉぉぉとしてしまう。つまりメリハリに欠ける。

こんな事をもしオレンジなんて選ぶのなら?ポップに仕上げれば良いと思うのね・・・ってそれを使うとどう見える?を考える。ただ、リピーターさんには無い話だから、スルーして・・・。いずれにせよ、口にした言葉通りに探した事で、似た色を選んで失敗

ってリピーターさんと、同じ茶色と口にした棟梁が何故黄土色たどり着いたか?は簡単で、表現に頼らずにタイルの中から、自分が資料を見て感じた色を探していたから・・・。そんな探し方は本人にしか出来ないし、代わりに持って来て・・・と頼まれても、

誰も持って来られる人はいない。だから、素直何だろうね・・・2人共。方や表現通りに探して、無いから無いなりに持って来た。けれど棟梁は自分の表現に惑わされる事無く、自分の思う色にたどり着く。2人に後悔は無い。けれどね・・2人集まってお互いの

意見交換や、その結果を見ると・・・棟梁のが良いねって事になった時点で、2人の意見は一致したのだから、それでは単に偶然で片付いてしまうのね。しかしそこは必然にして置かないと、また偶然は起きないのね。何故そうなったのか?ってね。

常に言っている最初の1手なのね・・・けれど、最初に濃い黄色を外した・・・ここを例え数枚でも入れるって最初の1手の勇気があるのなら?出して来たはずなのね。けれど外した時点で、もう触る可能性は少なくなった・・・。

何故なら、数日後はkameyaさん教室。出張先には自分で持って行ったタイルしか無い・・・しかも、一体何処から張る?ってなると、彫っている下地は、余程上手い人で無い限り、中心部から始まるのね。だって外側から張って行くと入らなくなるかも・・・

けれど、中心部からやったら、外側は少しはしょれば良い・・・じゃ中心部って何色?普通は影になって濃い色だと思うのね。つまり初日に濃い部分からになるのだから、持って行かなければ、恐らくもう使う事は無くなるのね。

まっ、とは言え保険で俺が用意して行くとは思うけれどね・・・それだって、俺がうっかり忘れちゃうって事だってある訳で。しかも、それは老婆心の余計なお世話って話だから、使わなければ持っているだけだから、そこにあるってだけ・・・。

いずれにせよ、アトリエと出張先では大きな違いがあって、ただ技術では無くて、今後使う色の準備も技術の1つなのね。だからこそ、また1つ上手くなって行く訳で・・・当然、表現も正確になれば、これを持って来て・・・と忘れものがあっても、持って行く

事は出来るけれどね・・・そこがお母さんが用意してくれるのと、自分で用意するのとは違うのね。その失敗が大人になるのね・・・って事だと思うのだけれど。じゃ棟梁。


まだ若干、手が痛いのね・・だから折角痛いのね。って思えば、考えるって頭を動かす方を多くすれば良いだけなのに、ついつい切りたい・・・進みたい・・・になる。それはね、手慣れた部分をやろうとするからなのね。もっとピタッと止まる場所をやれば

良いだけなのね。すると、羽根の中のクルッとした部分の相談として、どうしたら良いですか?と丸投げ発言をするのね。もう棟梁クラスになると、そんなそそのかしには乗らないので、相談とは?自分の意見ありきで、そうする為にはどうしたら良いか?になり

いきなりどうしたら良いですか?って言うのは、実はもうちょっとで進めなくなる場所になるんで、先生何か良いアイデア下さいなっ・・・って言っているのね。ばかちぃぃぃん。ダメです。って話。自分で考える癖を付ける・・・何故なら切るのが上手いから

であって、切る事に困らない以上、考える事で困れば良いのね。そもそも切る行為が上手くなったってのは、ギターが弾ける、野菜が切れる、字が書ける・・・みたいな話で、それは全て出来ただけで、考えてはいないのね。

弾けるのは楽譜通りって話で、曲を作った訳じゃないし、切れたのは寸法通りであって、何を作るか?を考えないと、漠然と切っただけだし、字が書けたのは、何かを真似しただけで、自分だけの字って追及はしていないはず。それはオリジナルには遠い。

単に出来ただけ。真の自分らしさとは?自分勝手とは全く意味が違うし、共感を得られなければ、ただの自己満足に過ぎない。それなら無人島制作で十分楽しめるし、それならもう十分ここに来なくても出来るはずなのね。

それをここに来る以上、意味が必要になる。勿論、楽しいから・・・とか、上手くなりたい・・・とか、宿題が・・・とか、人それぞれで良いけれど、続けるってのはそう簡単じゃ無かったりするのね。そう言う点でも、棟梁は考えるって部分が指導になる。

じゃクルッと・・・の説明。今の羽根の部分を口で表現すると、シュと伸びて・・・みたいに言うので、シュっと・・・を手で表現すると、手を真っすぐ伸ばしたのね。俺もそう思うのね。それがクルッとって表現したのだから、クルッとをやってみ?になる。

でもそうすると、四角い形でピザみたいになったとして、その間にある羽根も同じようになるのが嫌だと言うのね。じゃどうする?って事になった時に、嫌な事は判ったのね・・・ただ良い事が見つからない・・・そこで何作っているんだっけ?の質問に羽根って

・・・だよね、終わっていないのに羽根に見えるね・・・って言うと、まだ気が付かない。要するに羽根を作りたくって、羽根に見えるように切って来たと思うのね。しかもまだ羽根の完成を待たずに羽根に見える・・・ここに気が付くべきだと思うのね。

つまりもう羽根に見えているのなら?もう羽根に見えなくても良いんじゃない?って話。つまり模様にする・・・なんて考え方もあるんじゃないのかな?ってね。常に言っている85点をすんなり取れば、15点をふざけにチャレンジが出来る。

ただ神様チックだから、カジュアル過ぎるのはいかがかな?とは思うが、下品にならないように・・・キラキラし過ぎも困るし、そうなると形の問題・・・羽根に見えるじゃなくて、素敵な模様・・・まっ色んな鳥の羽根を見る事だね・・・ヒントは。

いずれにせよ、みんな上手くなって来たから、指導の内容が本気で出来るのは先生冥利に尽きるけれど、こっちも気が抜けないのね。ただ、当然こちらも同様、成長するので、教える事で改めてそれを意識出来て、だとすれば・・と新たな考え方も生まれる。

そんな中、最近思うのは、仮にね、ピカソが晩年に自画像を描いた後に、やっと思うような絵になった・・・的な表現をしたらしいが、そもそもデッサン力があるのだから若い頃から技術を持っているはずなのに、どうして晩年にやっと・・・なんだろうか?

それと同時に良く先人の指導者達が、子供の感性は素晴らしいとか、思うままとか、そんな表現をする。当然ここも受け入れると、もしそうなら、みんなそうすれば良いじゃん・・・って話なのに、何故大人になると出来ないのかな?・・・あはははは。

完全にさっきの話。つまり思い込みだと思うのね・・・大人になると。子供は見たままを描くから、左右対称にならない。顔を描いても目の位置が違うままで描こうとする。それが正しいが、美しいか?となった時に、ついつい同じ位置に修正してしまう。

大人はね。所がそれでは模様的になり、機械的になり、自然では無くなる。天然の美しさには、左右対称っぽいのはあっても、左右対称では無いのね・・・けれど、作り手の技術を見せる時に、ついついそうした事で補正をしてしまうのね。

しかも、そんな描き方だったり、経験値を増やせば増やす程ね。更に言えば、人のやる事はそうそう変わらないと言うのだから、変えようとしなければ、何も変わらないだろうし、逆にそのままなら維持をしないと衰退して行く事になるのね。

つまり何かを捨てた人が何かを得る・・・そうね、時間の使い方もそうだし、生活感、人付き合い、好み、なんでも良いが、一貫性があれば、どれも似た選択になるだろうし、その都度変えるスタイルなら、その場面場面で考えるんだろうし、

そもそもオリジナルとは?自分自身なのだから、体験なら今の自分だし、大作なら、今までの自分のような作品になるだろうし、これからの未来なんて作り方も出来るだろうが、常に今日の繰り返しって考え方もあるだろうね。どれを選択しているか?だけ。

ただ意識しているのと、無意識とでは結果は大きく違うし、意識するのなら、意識する心構えが必要だし、無意識なら結果を受け入れれば良いだけ。別に驚く事は無いのね。ただそれだけなのだから。だからそこに目的なんて言葉を付けると、目的意識になり

、宿題だから・・・と言えば、やろうとする時間を作ろうとする訳で・・・簡単な話。それでね、またピカソに戻ると、デッサン力に頼らずに子供達のように見たままの表現が出来た頃が晩年だった・・・って話だと思うのね。それが素敵に思えたから。

けれど、良い事と悪い事は背中合わせで、デッサン力があればあるほど、そこから遠ざかる。何しろテクニックが身に付くのだから・・・何かを捨ててしまった結果ね。それをピカソは晩年、それらを使って子供らしくって言うのね。

大体そもそも子供にはテクニックも無ければデッサン力も無い。だから素直に見たままだった・・・けれどそれは幼いって子役特権みたいなもので守られているのね。それが証拠に小さい、可愛いって言うのは、背が高くなり声変わりすれば全て失う。

無くなってしまえば得るモノが無いと、無くなったまま・・・芸は身を助ける的な話なら、身に付ける繰り返しの努力は裏切らいって話で、持って生まれた小ささや可愛さは大人と引き換えに失う訳で・・・人は平等と言うのなら、平等である。

ただ、心って言うものが擦れなければ、擦れない気持ちで、モノ作りとしてオリジナルに反映する事は出来るだろう。ってみんなだったり、子供達に教えたりしていて痛感するが、それがもし正しいとして受け入れれば、ピカソが晩年気が付く事が、割と早めに判った事になるが、当然判ってしまうと、逆にそのテクニックやデッサン力を身に付けないと、同じ土俵には上がれない事になる。ただ、今更、簡単にはデッサン力は中々上がらないから、少しづつだとして、そうなるとテクニックとなる。

ただテクニックなんてもんは、知ってしまえば、簡単なもので、いとも簡単に真似をされる。アイデアとかね。それが技術って言うのは繰り返しの鍛錬で誰にでも身に付くが、考える・・・ってのも、繰り返しの鍛錬だと思うのだけれど・・・。

そんな葛藤の中でやっているのは・・・・


後はカボチャで3個で1つのお教室予定・・・・。



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