katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

フェルメールのリピーターさん教室

2022-05-21 06:44:47 | モザイクタイル教室

今日は午後からフェルメールのリピーターさん教室。それまでは、ご紹介で夏の出張教室の問い合わせがあって、そのサンプル構想・・・趣旨としては大人の方を対象として、子供さんも参加出来るような・・・って話。

そんな訳で昨日までの方向性では、

こんな鍋敷きな感じだったんだけど・・・どちらかと言うと、子供寄せになっている感じがして、

こんな感じの模様の方がシンプルなのかな・・・と迷ったりしていて。色合いとか形の不揃いなのは、全て陸前高田の残ったパーツを全体像とか雰囲気作りを見るのに使っているだけで、趣旨はぺきぺきでは無く・・・と言う方向。

今までほぼ必ずと言って良い位、出張教室にはぺきぺきを使って来たが、先日のINAXのアートタイルが今年いっぱいで生産中止なんて事を考えると、ぺきぺきにも大きく影響すると思われると、今後使いずらくなると想定した方向の一回目。

そんな形も考えて・・・ただ物事は必ず何を取っても、良い事と悪い事は背中合わせ。つまり無くなるのは寂しいし、大きな打撃だけれど、逆に他のタイルを使って来なかった事による新鮮さはあると言う事になるし、ぺきぺきやアートタイルは、

10cmやそれ以上の大きさなんで、1パーツを大きく出来る事で、作品自体も大きくしやすいし、しかも柔らかいから、未就学児でも切りやすいのね。しかしながら、それが無くなるとなると、お手軽には切れなくなる。

そうなると、既存の形のタイルを使って、並べるだけになり、単に色合いと配置だけの問題になるのね。そもそもが、考え方として、柔らかいから誰でも切れる・・・取っ掛かりには持って来いのタイルなのね。しかし誰でも出来るとなると、

悪い事は、余程素敵に見えないと、若干可愛いにしかならず、幼稚さが残る欠点もある。そうね、例えば音楽なら童謡を演奏するとする。仮に見ないで子供の演奏と、ピアニストの演奏を聞き分けられる?とか、料理としてゆで卵を子供と大人

で違いを出せる?となると、余程の目利きでは無いと、簡単には判断出来なくなる。これをクラッシックの名曲だったり、フランス料理みたいな格式ある料理にすると、確実に差が出たりする。つまり腕が左右するって事なのね。

それが証拠に本気のぺきぺきの作品になると、こうしたフェルメールの名画作品になる訳で。ぺきぺきと言えど、侮れない作品になるのね。良い事と悪い事は背中合わせって言うのは、こんな話で、お手軽なだけに差が見つけづらい。

その差って言うのが、ある程度の大きさがあって、そこに果てしない時間を注ぎ込めば・・・であって、初心者とコースターで競えば、そうたやすく差は付きづらいのね。何故ならコースターの大きさに名画は作れないから。

つまりその大きさの中で作れるものとなると、モチーフは限られる事になるからなのね。これが真似るってスタイルの話ね。似ているか?似て無いか?の話だからなのね。でも、オリジナルとなるとこれが話は違って、オリジナルの創作段階は、

別にタイルが切れなくても良いのね。考えるって事は、切れる前提では無いのね。これは全て同じなのね。まぁ悪意を持って説明すれば、簡単なのは、秋元康先生は素晴らしい歌詞を描くが、それに合った作曲が出来るか?とか、ピアノやギターを弾けるか?って話。

別にそんなの要らないでしょ?つまり作詞するには、楽器なんて別に要らないのね。だから、オリジナルで何かを作るとなった時、考えるって部分で素敵な事が浮かぶ人達がいて、そこで満点を取るような構想の場合があったりするのね。

所が逆に、習っているけど、オリジナルでは無くて、ずっと何かモチーフを真似る事を繰り返して、技術を会得している場合・・・全く逆のスタイルね。こんな場合は、技術が素晴らしいのね。つまり音楽なら楽譜があれば、初見で演奏し、

覚えている曲なら見なくても演奏みたいな感じになるし、料理ならレシピがあれば初見で、少しアレンジなんかも出来たりして・・・勿論見なくても作れる料理があったりもする。ってこんな感じの人になるのね。

所が反面、オリジナルとなると、一転技術はあったとしても、考える制作をしていない場合、いつもの素敵さ加減が出るか?となると、ほぼ見劣りする場合が多いのね。それは仕方無いのね・・・それは技術の為に真似をし続け会得したのだから。

つまり悪意のある言い方なら、天下の秋元康さんでも作曲は出来ないのだから。これが物真似師としても、昔のコロッケさんなら、形態模写で歌わなかったし、漫画なら、ヒカルの碁やデスノートの小畑さんのように作画のみ。

こんな人達もいたりするのだから、そのスタイルは人それぞれなのね。所が物作りって分野になると、ついついオリジナルなんて事をしたくなるのが、世の常なのね。つまり作曲がしたくなるのね。そうなると、今風ならパソコンは出来るに

越した事は無いし、古典的ならギターやピアノの主線を引くような楽器は出来た方が有利になる。つまり技術が必要なのね。勿論、考える側の作詞側だって、技術は必要なんだけれど、目に見えない事教室って言うのは中々成立しないのね。

まぁ例外なら伝統的なのは、俳句ね。初心者でもベテランでも歴史上の人物でも、17文字で競い合う。これが文学なら大作だから大きく差は出て、素人にも判りやすいが、17文字では、時より素人でもビギナーズラックはあったりする。

こうした話からも、ここまで出来るようになったリピーターさんには、次はオリジナルのコースターなんてものを作る事をお勧めするのね。考えて作る・・・これは今までに無い練習になるし、お手軽な時間で終われるはずなのね。

ただね、凄いのは17文字でも差をハッキリさせるのがプロ・・・でもね、ここが難しいのは、何度も出て来るけど、作家katsuなら大作の陸前高田のようにそれ相応の結果は出たりする。勿論依頼品としての小物作品でも、そこそこの依頼も

あったりする。所が先生katsuだったり、小物の販売って事になると、17文字作品みたいな感覚・・・短編小説くらいの感じなら何とかなるが、ん・・・何が良いんだろうか?ってサンプル作りって毎回悩むのね。

制限時間、予算、対象年齢、素材・・・この場所で受けたからと、使い回しが出来ないのが、俺のスタイル・・・陸前高田のように顔の見える場合、そこの土地や歴史、ゆかりのある物、人・・・それを網羅したらこうなった・・・。

こんなスタイルだから、同じものを他では使えないのね。簡単な話で、俺の場合、依頼が極端で、施設などが負担してお客さんの負担が軽い場合、内容を攻められるのね。つまり遊ぶとか、面白いとか、ふざけたり、馬鹿馬鹿しい感じだったり、

そんな部分を多く出せる。それは結果として、この金額なら面白そう・・・って思えるからだと思うのね。所が全額お客さん負担となると、当然お金を出したんだから・・・となると、要求も厳しくなるだろうから、こっちも真面目に・・・

みたいな内容になる。所が流行りものタイルの取り付けみたいな事を避けて、タイルを切るってスタイルでやろうとすると、どうしても使い勝手の良いぺきぺきやアートタイルに頼りがちになる。しかし初めての人が綺麗に切れるはずは無い。

だから下地を凝って、何とか切れれば、そこそこな見栄え・・・って続けて来たんだけれど、結果としては可愛い仕上げにはなっても、お洒落な仕上げにはならないのね。それは練習無しの初めてでは多くは望めないのね。

そもそも使い慣れたぺきぺきで無く、硬いタイルで何処まで、何が出来るのか?・・・新しい事をするって言うのは、考える・・・って事が、限られた時間の中、ずっと続くのね・・・しかも、それが良いかどうか?も判らずに、サンプルを

作らないとならないのね・・・だから大変なのね。実際作るのは俺じゃ無くて、初めてやる人達なのだから。何が何処まで出来て、その前にこのサンプルを見て、やりたい・・・って思うだろうか?って。


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