katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

りょうさんとラパンさんの相席教室

2019-02-08 03:01:02 | モザイク教室
今日はりょうさんとラパンさんの相席教室・・・・って何か足りないって感じじゃない?・・・そうなのね、普通ここには最初に棟梁って入っているはずなんだけれど、それがインフルエンザって事でお休みになっちゃって・・・そんな訳で初の棟梁無しでの教室って事になっちゃったのね。


ただそれも新鮮で、例えば自分の作品に夢中になれば、何も話は出来ないから、大抵は上手い人が話すもので、そうなるとこのメンバーなら棟梁が話題提供になったりするのね。例えば、何を見た、何を食べた、何処に行った、家族の事、何しろ話す気ならいくらでもあるのね。

勿論、そこには楽しい事もあれば、大変な事、嬉しい事、悲しい事・・・と色々ある。その時に勇気のある人は、私はこう思う・・・って言う主張をするのね。ここ。大事なのはここ。この主張こそがワクチンにもウイルスにもなるのね。あくまでその人の意見なのね。ただそれを聞いた自分は・・・?

ここね。仮に自分と同意見で、だよね・・なら相槌だったり、流派、グループ、何でも良いけれど、馴染むとか、予定調和とか、気分が良いとか、そんな気持ちになって安心したりする。やっぱりこれで良かったんじゃん・・・ってね。ただこれが全く違う意見な場合、自分の考え方に無かったものになる。

つまりウイルス的なもの。免疫が無いんだから。こうなると拒否的な場合、受け付けないし、自分を否定されたようにも感じるし、気分は良く無いし、具合いが悪くなりそうだし・・・・ってな話で、自己防衛なんて場合、聞いて受け流すみたいな行為だったり、言葉だけ判りましたなんて場合もある。

つまりこんな場合は単なるウイルスになる。所が、ワクチンって言うのは何か?そしていつ打つか?になると、そうならないように、元気な時に打つものなのね。みんな知っているはずなのね。つまりいかに普段の会話でウイルス的な発想を取り入れて聞いて置くか?がその日が来た時のワクチンになる・・・

全く単純な話なのね。所がじゃあこの中の誰が調子を崩していて、誰が調子が良いか?挙手でもして貰う?って事になると、そうは行かないのね。つまりそれは、ここでは棟梁であり、キウイであり、みどりだったりすると、そこから話題を振るとそこからみんなの調子を伺えたりするものなのね。

ただ良い事と悪い事は背中合わせで、必ずしも上手い人がいつも同じで安定しているか?となると、人なんだからそうそう安定ばかりでは無いもので、良くも悪くもその人内容次第で変わって来るし、それを聞かされる事にもなる訳で・・・でも、でもなのね。良くも悪くもなのね。

つまり良い事も悪い事も得られるって意味なのだから、ほらワクチンとウイルスの関係の話になる。そして教えている人は俺であってみんな同じ先生に習っている事であって、技術はある程度反復すれば会得は出来ても、人と接するって言うのは、このワクチンとウイルスの話に似ているって話。

では、この考え方をいよいよモザイクに当てはめると、人のを見るって言うのは、見てしまうと真似をしたくなったり、意固地になれば、そうしない・・・って気持ちにもなったりする。それを何も見ないって出来るのなら、1人で材料のみを揃えてやるスタイルを続けると良い訳で。

でも習うって事は色んな人の作品に触れるし、必ず影響は受けるのね。良くも悪くも。それを悪意と感じられればコピーとなり、善意と感じられれば、インスパイアだっけ?そんな感じになる。大抵の事は人のやる事なんで、ワクチンとウイルスなんて話でも別に病気だけに限らずに、何でも当てはめられるものだと思うのね。ただ、考え方って話なんで、ワクチンかウイルスか?はご自分の判断にして貰って・・・。

そんな中、発信元の棟梁がいなかったけれど、流石にそのやり取りの繰り返しをしている分、2人も上手に会話もしていたし、手を止めても相手の作品を見る余裕もあったし、そんな事1つでも、上手くなっているなぁ・・・と思ったりするのね。ただ、そうなると目と感じるって事だと思うのね。

目とは、見る眼だったり、見抜くとか、見るって言うのは、色んな使い方があって、本物そっくりにする為に細部に渡って見る・・まるで動き出すか?のように・・・みたいにする為の目だったりに使うと、重箱の隅をつつくようにとか、小姑の掃除の確認みたいに取り締まりを厳しくする事なのね。

それを甘くすればルーズになるし、辛くし過ぎれば、果てしなく終わらないし、失敗の繰り返しになる。つまり良い塩梅って落しどころがあるのね。そこの見極めの眼って意味なのね。それは楽せず苦しまず適度に・・・って眼。まっ、それが一番難しいんだけれどね。でも、出来るようになるのね。

それがユーミンさんのように・・・そもそもが何十年も恋愛の歌を作れるって、そんなに恋愛してんのか?って話になると、そうでは無くて、いかに人の恋愛にアンテナを張って、まるで自分の恋愛の体験のように、自分だったら?に置き換える事で、素敵な歌詞にしている訳で。

つまり人の体験を自分のものにする・・・って言うのは、視覚としての目では無く、今度は感じるって言う、眼に見えない事が大事になるのね。感受性・・・いかに視覚過敏のように感じるか?であって、別に何も感じないぃぃ・・・では、きっと太さも細かさも、似ていなくても・・・感じない。

そんな事寄りになる。けれど、感じるって言うのは眼に見えないから、思い込む事も多々ある。けれどそれを口にする事で、人に聞かせるとワクチンになるかも知れない意見、つまりウイルスを聞く事にもなる。ただそれは自分の考え方に無かった意見な訳で・・・。

しかし大事なのは、最後に決めるのは自分なんだけれど、ウイルスと判断して受け入れないのも自分であって、その段階でワクチンになり得る事を捨てたのも自分。そこも見極める眼と感じる・・・察知する事が重要になる。何事もオリジナルって言うのはそうして出来ているって話なのね。

そんなお教室の後は、こんな感じ。


アクアリウムバスの下地準備は終了して、きやっせの物産展のチラシがやって来たのね・・・・後はデイ・サービスの来月分のサンプルを作れば、作らないとならないものの制作に取り掛かれる・・・・





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