katsuまるはだかぁ 芸術家への道

モザイクアート一直線のkatsuの日記

さくらとリピータ―さん教室とハロウィンの作品

2020-09-15 07:32:10 | モザイク教室

今日はさくらとリピータ―さんの教室。まずはさくらから・・・来るなり今日は考える事は無理って言うのね。こうして自分の事を語れば、じゃこうすれば・・・ってアドバイスが出来るのね。ただ問題はそれが受け入れられるかどうか?

例えば考える事は無理・・・ってどんな感じか?って言うと、料理なら肉じゃがを作るって事で、創作料理を作る日じゃ無いって言っているようなものだったり、野球なら単なるノックの玉を必死で取るとか、素振りをするとかであって、連携

プレーって言って他の人とこんな時はこうする、こんな時はこう・・・みたいな打ち合わせをしつつ、確認する練習では考えないとならなくなる。こうして説明すると簡単に理解は出来るだろうが、ではこれを音楽だとすると、楽譜通り

に弾く事は考えなくて良いが、仮にソロなんて任されたとしたら、そこは自由な場所・・・バンドを友達と組んでいたら、その持ち時間に素敵なパフォーマンスを考えないとならない。こうしたモザイクに一切関係の無い説明をした時

に、例えばさくらの場合、そう言う責任を負うような事は遠慮する・・・みたいな事を言ったりするのね。そもそもここが失敗に繋がる第一歩なのね。実は・・・ね。そもそも例えば・・・の話は第三者としてそう思うか?思わないか?を

感じるか?どうか?のリトマス試験紙的なもので、感じれば次の話に・・・であって、人それぞれだし・・・みたいな曖昧な反応は責任逃れか、そんな事は無い・・・って否定したいが、先生との和を保つ為に一概には言えないと、やんわ

り否定みたいな使い方の表現だったりするのね。じゃそれを踏まえてどうなって行くか?まず考えたくない・・・それはさくら発信の話なんだから、そうしないで済めば良いだけ。でも折角来たのだから進みたい・・・それも前向きで良い

と思うのね。ここまでに崩れる言葉は何1つ無いのだけれど、・・・そう、けれどね。けれどは、ここからが本音。じゃ、言葉が増えたから、考えたくないけれど前向きに進めたい・・・になる。じゃそうすれば良い。そうなる為にどう

する?普通は何処からやれば良いですか?・・・この質問だろうね。でもさくらはそうじゃ無いのね。聞けば必ず不自由になるし、言われた所で出来ない・・・何しろ考えたく無いのだから・・・と、かたくなになるのね。つまり初めの1歩

を拒む事になる。数字で言うなら最初の1歩無しで、2歩目以降から始める事になる。何故2歩と言わないのか?って言うのは、そこは5歩目かも知れないし、7歩目かも知れない。ただ1歩目じゃ無いだけなのだから。

しかも2歩目以降から始めた事を気が付かずに。それでも最初に触れた話を理解していたのなら、素振り的な事をすれば良いだけ。つまりモザイクでは切るだけになる。これなら失敗しても張っていないし、失敗があっても切り直せば良い

から是正も出来る。これは口が酸っぱくなるほど言っている事・・・でも恐らく見なくてもそうはしない。何故なら、切るだけは本当に辛い時に取って置きたいから、今日は考えなくて良い事を進みたい・・・さくらの中で、進むイコー

ル張るだから、張らなきゃ・・・って、きっと思い込んでいるだろうから。理由も言葉通り。つまり自分で始めて、自分が困ったと思う所になるまで聞く事は無い・・とこんな所。でもね、最初の1歩を聞かないで、自分で1歩目では無く2

歩目以降から始めて、自分がつまづいたと思ったら聞く・・・この文章で成功する気がする?恐らく失敗するだろうな・・・って方向だと思うのね。本来そんな時こそ、絶対に最初の1歩を受け入れるべきなんだけれど・・・。これは深みにはまる典型的な例だと思うのね。では一体何が?そう感じさせるか?では俺のハロウィンを見て貰うと・・・

内容や好みかどうか?なんてどうでも良いのね。これは輪郭線が彫ってある下地。じゃこれをやってって言ったら、何処からやる?今のさくらのように、考えたく無いのなら、髪の毛なんて良いんじゃないのかな?じゃ逆に辞めとく場所は?

眼と口。何故ならスペースが広いから、切り方1つで雰囲気が変わるから、考えないとならないから。だってさくらは考えたく無いんだもんね。ここで感の良い人なら判るんだけれど、一体今のさくら作品とこの作品の大きな違いは何?

それは彫ってあるか?無いか?になるのね。じゃ彫ってあるのと無いのの違いは?何?・・・最初の話を受け入れた人なら、俺のは規定演技だから、彫られた通りの幅で、自由な部分のソロは眼と口。って事になる。あっ、クモの体もね。

でもさくらの作品は?って言うと、線は描き込んであるけれど、彫ったものとは違うから、はみ出しても、痩せてても、自分の眼で判断しないとならないのね。つまり眼が肥えないとならない・・・取り締まる眼をね。

しかも眼は考えるのでは無く、感じる・・・って何度も言っている。感じない人では無理なのね。ただね、さくらが感じ無い人か?って言うと、逆でかなり過敏に反応すると思うし、ただ過敏であるが故の曖昧さは防御なんだろうが・・・

話を戻して、では仮にさくらの作品も彫る下地にしたとする。それなら条件は一緒になる。じゃ何故一緒になった?ここね・・・今、俺が条件は一緒になる・・・って言ったから、つられちゃった場合なら、えっ?って事になるし、当たり前

じゃん・・・だって彫った同士の下地だからって答えられる人もいると思うのね。でもきっとさくらは、えっ?の人。ただ答えを聞きたい訳じゃ無いのね。どんな反応をするか?なのね。そこで本気な人は、向き合い上手だから、後は受け入れられるかどうか?になる。でも、こんな話モザイクに関係無いって人は、何も入って来ないだろうね・・・。

でもね、これならどうだろうか?彫ってあるかどうか?では無くて、彫っていても彫っていなくても一緒なのね。自分の眼がきちんと取り締まる事が出来るのなら。これが答えっぽい事なんだけれど、彫ってあるからアテにする。となる

と、彫って無いからアテにするものが無い・・・になる。理屈とは常にこんな事なのね。つまり彫っていないのなら、彫ってあるようにすれば良いだけ。そしてそれは何故?どうして?って事になる。考えるって言うのはその繰り返しなの

ね。では何故、彫ってあると考えずに済んで、彫ってないと考えないとならない・・・みたいな事になるか?って言うのは、彫ってあると自由にならないし、細過ぎれば簡単に入るし、太ければ入らない。当たり前の事。でも彫っていない

線は自分の眼の判断1つで、太くても、細くても大体OKって人は、大体OKの作品になるし、必要以上に自分の切る技量以上に眼が肥えると、自分否定のパーツだらけになり、失敗の連続で進めなくなる。こんな違いがある。

そこで、彫っていないから、俺の作品のようにここから・・・って目安の場所が無いって言うのなら、まるで彫ってあるかのごとく・・・となれば良いのだから、線の描いてある主要な線だけ、しかも同じ色の箇所だけやれば、まるで

彫ってある俺の作品のようになるんじゃないのかな?それなのに、考えたく無いと言いつつ、几帳面で真っすぐな人って言うのは、すぐに1.2.3.・・・って順番にとらわれちゃうのね。だからここからやって、ここを片付けて・・そして、

丁度良いとか、区切りがとか・・・こんな言葉が大好き。でもね、こんな人が覚えている悪魔のつぶやきの指導があるのね・・・それは初心者の人に、隣り合わせのパーツを順番に張ると良いよ・・・これね。こんな事を忘れないのね。

何故ならさくらは、自分の事を下に置く癖が抜けないから・・・では新しい言葉が出て来たから、今のさくらをまとめると、調子が悪いから考えたく無いし、でも折角来たから進みたい、でも進みたいけど、パーツ切りは自宅でも出来るし、進む事イコール張る事だから、張りたい。でも、側に居られて見られると緊張するし、何か言われても出来ないし

・・・だから困ったら呼ぶから離れてて・・・そして困った。だから、説明をすると、でも隣り合わせにって言ってたじゃん・・・確かにね。初心者にね・・・でも、左程変わらない・・・って自分を下にして、受け入れない。

もはや堂々巡りになるのね。だからこうしていちいち文字に残す。読もうが読むまいが、残せば俺が忘れても戻って読む事が出来るはず。だから残す。そもそも悩みが起こる原因は何?そしてどうして彫ってあると有利なの?ここ。

ここさえ判れば、意識が変わる。意識さえ変われば、勝手に行動は変わるから、行動が変われば結果も変わるものなのね・・・ではその意識を変える。そもそも繊細にしようとしたから、線はあれこれ増えた。増えた事で複雑で、描いた

本人も判りづらくなっている。所が彫ってある下地はそこに入れるだけ。しかも複雑な線はほぼ無い。ここが大きな違いなのね。つまり主要な線を、まるで彫ってあるかのごとく、張って行けば張ってある下地のようになる。

所が自分を下にすると、初心者の指導が頭に残る・・・隣り合わせに張ると良いよ・・・だから順番に張りたくなる。じゃどれが1なの?順番って・・・だから悩む。だって考えたく無いんでしょ?・・・自分で自分の首を絞める事になる。

でもその意識は無く、場合に寄っては、たださくらの言っている事をまとめただけで、何1つ指導をしていないのに、あたかも俺に絞められているように思ったりする・・・それは自分と向き合っているのに。気付かずに・・・。

何事も意識なのね。考えたく無いのなら、感じる事だね・・・ただ感じるって言うのは、五感を磨かないと、って言うのは眼が見えないのに歩くようなものなのね・・・。しかも感。余程磨かないと偶然みたいなものになる。

それを必然にする為に意識する。おっと話を戻して、彫ってあるからとか、彫って無いからとかって、眼に見える事の判断で決めないで、眼に見えない事の違いが判れば良いのね。それと本当の自分の技量や自分の体調や気持ち・・・

こんな事が作り手って左右しちゃうのね。何せ人だから・・・感情の生き物だし。それを上手く使って感性なんて表現に繋げたい訳で。これでさくらには伝わるのかな?それと一般的に説明すれば、要するに自由は不自由なのねって話。

自由は自由じゃん・・・って人は、そのままお進み下さいなのね。でも自由は不自由って何で?って興味が沸いた人は、俺の作品に自由なんて色だけだよ・・・形はそんなに変わらないでしょ?じゃ不自由だよね。でもさくらのようにバック

がある作品は?ほら白い余白の部分がいっぱいあるよね?そこは自由だよ・・・好きにやれば・・・えっ?自由にって・・・ほら不自由になった。つまり決まりって言うのは考えなくて良くて遂行。まっ、マニュアルって話。

でも自由はそんなものは無いのね。だから考えなきゃ・・・だから難しいし不自由。それを踏まえてもし俺の作品がさくらのような彫っていない作品だったら?こうした輪郭線を終えてから、顔のラインや髪の毛を付け足して行けば良いと

思うのね。それをやっているのは、高洲のタピオカね。あぁなるのね。きちんと見ていれば、いくらでも盗めるのね。つまり余白の自由に困るのなら、いかに主要な線をどんどん埋めて、窮屈な余白を作るか?だろうね。その不自由の先に

自由が待っているから・・・こんな事が似合っているのは、俺とかタピオカとかさくらとか・・・自由が苦手な人達の場合だろうが、こうして例をあげると、私なんか・・・とさくらは下がるだろうが、腕なんて話はしていないのね。

ただ自由が不自由に感じる奴ってくくりだから。もしさくらが、だね・・・って言えるようになるのなら、もっと言えば、タピオカの前で言えるのなら、何か変われる気もするんだけれど・・・。鎧のようにとか、頑固な汚れやシミとか

表現はどれでも一緒なんだけれど、今まで積み上げて来た考え方を大きく崩すのは難しいけれど、何かを変えないと何も変えられないし、変わったでしょ?って自分で変わった事を主張しても、一生懸命やったとか、頑張ったとかと同じで

、それは一生懸命やってるね・・・とか、頑張ったね・・・のように、人の判断の方が良いのかも知れないし、逆に自分で判断出来る正しい眼を持たないと、果たしてそれは合っているの?って事になる。目利きとしての眼は欲しいし、で

も眼が肥えると、その眼に応えたい自分の技術が欲しくなる・・・作り手とは強欲なモノなのね。いずれにせよ、今日はドツボな感じなんで、割とそっとした分、こんな事が言いたかったんだけれど・・・。

さてそれではリピータ―さん。

ここも思い込みって点では、輪郭のパーツの難しさね。輪郭って真っすぐじゃ無い・・・って思うのね。だからつい1枚のパーツで丸く切ろうとしてしまうのね。そうなると3段腹みたいになっちゃうのね。違う違う、目指すのはリンゴっ腹

だから、なだらかな丘みたいにならないと・・・それには全体で丸くなんで、1枚1枚は直線にかなり近いものになるのね。それとほぼ1色に近い顔の色。それでは意識が薄いと何でも良いから埋めるになりがち。違うのね。

だから文字にするのね。額は?鼻は?ホッペは?なんて表現するって?その時に、額はツルッとか、鼻はシュッとか、ほっぺは出っ張っているとか、何か感じた事を口にするのね・・・そしたらそう見える為にはどう切れば良いのか?

って考えるのね。その時に、鼻が判りやすいから説明すると、シュッって何?鼻筋が通っていて・・・とかって感じでしょ?それを横に太ったお団子のパーツで切って見える?でしょ?色が同じなら形を部位ごと変化させなきゃ・・・なのね。

そうやって見ると、苦労しつつ頑張っているのね。しかも雰囲気出て来たしね。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ちょっと休憩してハロウィン作品 | トップ | 大人向けのハロウィン作品 »
最新の画像もっと見る