(14)論理を大切にしていない者がどうして教えられるのか?

2006-10-10 22:20:46 | 考える

②論理展開

生意気なタイトルを書いてしまいましたが、日本社会
全体をイメージした発言です。

塾などでは論理は国語の担当というのが常識ですね。

国語教育とは、言葉の感性や文法構造だけを教える
ものではなく、論理の展開を導くことも重要だと考
えます。

ただ、国語だけで教えているわけではなく、他の全て
の教科で教えていることではあります。
もちろん、国語にかかる比重は大きいですけれど。


学校や塾などに限らず、日常生活においても論理の
展開は行われています。意識されないだけ。

たぶんそれで余計に、論理の展開は当たり前のこと
過ぎるよう思えるのでしょう。

また、論理学は難しく、私の手にはおえません。

で、当たり前ゆえに書き難くなっています。
まあ「当たり前」で済ませてしまった自分が怠慢
なのです。

論の展開をどのようにするかということは勉強の
基本、日ごろから力をつけなければなりません。
でも実際にはこれが弱い生徒も多いようです。

日常、会話レベルから始めるのがよいのですが、
だからといって普段の会話での論理を緻密にし過
ぎては滑らかな意思疎通が出来ません。
しばしばエライ先生の話がよくわからないのは
論をあまりにもチミツにされるから、と推察します。

通常は、多少荒っぽい進め方でも構わないけれど
正しい方向に進んでいるか、を留意すればよいのでは
ないでしょうか。

違う論点に話をずらす、とか捻じ曲げることだけに
注意して、そうならないようにするだけでも、かなり
力がつきます。

「その話、今話題にしていることとズレている」
これは私がよく言うセリフですが、
カミサンには嫌われますね。

例えば
「カープは勝てないね」
「サンフレッチェは外国人の監督で良くなったけど」

これは話しがズレています。
少なくとも、何を受けて自分の話をしようとしている
のか、不明です。

ちょっと弱い例文ですが普段の会話でも気をつけたい
という意味でした。

日本人は論理的な対話が苦手、と言われています。
やはり、毎日の実践が必要なのですね。
ただ、これをやるとカミサンですら嫌がるので困り
ます。
別にあなたの人トナリを攻撃しているワケではなくて
ただ、その部分の理屈についてのコメントなんだけど
・・・分かってよ・・・

(明日へ続きます) 9.27

(15)タヌキ爺婆にご注意

2006-10-09 21:55:53 | 考える

②論理展開の続きです

論理展開の勉強について、ヒントを小出しにして
生徒の考えを導くということは出来ると思います。

新しい単元に入るときなど、こちらから一気に説明
しないで、少しずつ生徒の考えをリードすることが
できます。論理展開をナゾルことになりますね。

また、やさしい内容の問いを、更にもう一歩踏み込む
ことで、考えの深め方や展開の仕方を学ぶということ
も可能でしょう。

なお、教員の側がリードしてゆくこれらの場合に気を
つけるべきは、他の道筋も可能であるのに、自分の考
えだけを一方的に進めてしまうことです。
生徒の論理展開の芽を摘んでしまいかねません。


論の展開をするとき、難しいのが先に触れた、論の
スリカエがあるかどうかです。

微妙な話も多いでしょう。

少し話がずれたように見えるが、それは・・
論の小さな飛躍なのか、
道筋を遡って根拠などから話そうとしているのか、
比喩を述べ、後で説明に結び付けようとしているのか
など、様々なケースが考えられます。

また、論点が違うところへ跳んでしまおうとしている
ことも多いでしょう。


以下、大人の話にスリカエますが、結局子供達の環境
である大人が論理の教育に影響するという趣旨です。

TVなどの討論番組で、強引に話を捻じ曲げる人が
います。大概、声が大きいですね。要注意。

抽象的な話にもって行き揚句に誤魔化す人もいます。

「あなたは現在の法律で天皇が男に限られていること
をどう思いますか」などと聞かれたときに
「そもそも天皇制は古来から続き、わが国の歴史文化
を抜きにしては語れないものであり・・」とトウトウと
語り始め「・・これらを踏まえて考えるべきもの」
とか。実は何も答えていませんね。
エライ方が誤魔化そうとしているわけです。
みんな誤魔化しと気付いていて、しかし遠慮して
突っ込まない。
さらに、し返しでもあると怖いから。
このように堂々と非論理がまかり通る日本です。

しばしば日本語は非論理的といわれます。
でもそれだけではなかったのですね。
一人一人の生き方が社会に反映されているのです。

もし万一、塾長が非論理的なことを口走った場合に
周りがチェックしなければ、塾生の論理は未成熟な
ままになるでしょう。

でもチェックは入れづらいですねえ、我々日本人。
9.28

(16) ワの世界、論理で人は動かせず

2006-10-06 22:24:36 | 考える

人間とは論理を超えたところで動くのが現実ですが
だからこそ論理を学ぶべきなのですがねえ。

グチはさておき論理の続きで③他との比較、です。

他の論理と比較すると言っても、論理を充分に理解
できない段階では所詮、無理な話かもしれません。
ただ、比較しての感想ならば言えるでしょう。
「AとBと、あなたならどちらに賛成?」と
論理を並べて質問します。
これなら「比較」の導入になりますね。

力がついてくれば、感想に対して根拠を求めます。
そうして徐々に比較することを学んでもらいます。

また自己の論理に関して、正反対の考えを思い浮か
べる、とか視点を変えて考える、など相対化してみ
ると比較の力が伸ばし易いのではないでしょうか。

いずれにせよ「比較」は高度なことと思います。

更に高度な技術として小泉流「比較断絶の術」など
もありますが、子供に教えると、モノを考えなくな
る恐れが強いので危険です。

④分析する

論理を展開することができないと、分析は不可能
です。
論理を勉強して間もない人に、いきなりやってみろ
とはいえません。
理科にしろ社会にしろ、まず教師が分析してみせ、
つぎに生徒と共にやってみる。次第に独り立ちでき
てゆくことになれば成功ですが時間はかかります。

やはり国語で教えるのが、早い時期から始められ
かつまた、じっくりと進められそうです。

作中人物の心理、行動を追い、簡単な心理分析を
してみる、というのも一つですね。
テーマを示して、作品分析させるという手もありま
す。当然、学年に応じて難易度は調整すべきです。
小4くらいなら、作品にでてくる色彩を追う、
そしてこちらから色彩と心理を説明する、程度は
可能でしょう。

次第に様々な分析をしてゆきます。
また、分析をしている論文やエッセイを読む。

最近の傾向に反するかもしれませんが、韻文の作品
分析なども、ぜひとも読んで勉強して欲しいもの
です。
分析をしないで、ナントナク感じるというのは
弱いものです。
自由に感じればよいというものではないからです。
キチンと内容を捉えて、後、自由に鑑賞の幅を
広げるのでないとね。

韻文の方が案外分析の力がつくかもしれない、
と勝手にモウソウしています。
9.29

(17)An old pond

2006-10-05 14:29:36 | 考える

その事件は昨夜起きてしまいました。
それも今回で2度目という忌まわしさ。

1度目は何日か前、投稿せずにPCを終了
次の日に事態を把握する迄暫く時間がかかりました。
昨夜は途中まででしたがいったん下書きで投稿
と思ったらタイトル50文字までとかで
なんだかもたもたしている間に消去されており・・・

こういうときは何を書いていたか思い出せないもので
すね。今やっと気を取りなおして書き始めています。
昔のワープロを思い出します。
電源が切れたりしてよく文章をパーにしていました。
あのころは随分な量を消してしまったことがあります。

さて、まず英訳風を思い出してと。

An old pond
have you ever heard
a frog jumped into

これをタイトルにして50文字を越えていたのです。
英訳にはなってないと思います。「風」としました。

D⑤構成する

分析と対になります。
分けたものを組上げるということで、論理的思考を
必要とします。
構成するのは分析よりもさらに価値観が重要です。

美学的なことにも言及すべきでしょうけれど、力が
ないので、国語で「構成」の例をあげてみます。

まず思い浮かぶのは作文。
上手・下手は添削をして教えます。
模範的な文を真似させるのは個人的には嫌いです。

あくまで中心的なこと、基本中の基本の起承転結
とか序破急とか、かなり古めかしいですが、
それらから始めるべきですよね。
細かなテクニックはいずれ身につけてくれるので
初めは避けているツモリです。

作文に限りません。
作品を作って構成を学びます。
教える側の得意分野で指導し構成の面白さを伝え
られればよいですね。

既存の作品を再構成するのも面白いですね。
改作や続編作り、なども。
元の作品の構成がどれほどよいか、勉強になります。

水音は蛙とびこむ古き池
          ・・・音に比重がかかりすぎ
蛙あり古き池にぞとび入りぬ
          ・・とび入る、を言いたい?
古池に水音たてし蛙かな
          ・・感動の中心は蛙か

古池へ蛙とびこむ水の音
古池に蛙とびこむ水の音
古池の蛙とびこむ水の音
古池も蛙とびこむ水の音
古池ぞ蛙とびこむ水の音
古池は蛙とびこむ水の音

音の続きから上の句は「あ」の母音で終わるのがよく
「か」では強すぎるので「は」か「や」になり、
これを比べれば「や」しかありえない。

そこでかの有名な
『古池や蛙とびこむ水の音』

これは子供には難しすぎますか?

でもこんな乱暴な話も塾だからできる「幸せ」かも。
10.1

(18)譲られた席に座らぬアホ爺

2006-10-04 15:08:59 | 考える
昨日の話です。
電車に乗っていると後ろで声がしています。
振り向くと、どうやら若い娘さんがお年寄りの男性に
席を譲ろうとしているらしい。
「もう次で降りるン?」
「いえ、まだ」
「ジャあ、エエです」

見かけ70~80の方ですから席を譲ろうというのは
納得できるところです。少々お疲れ気味だし。
それを座らないものだから、譲った側も中ブラリン。
二つ三つ先の駅から乗った人が座るまで空席になって
いました。
よくありそうな光景です。
男性の側にもお考えお気持はおありでしょう。

ただ、どうして少しモノを考えないのか、とても残念
な気になりました。
気持の話でもモノは考えねばなりません。
そうオオゲサなことではなく、ほんの少しだけ。

相手の気持や、公の場でとるべき行動ということを
ちょっとでも考えれば上記のような気まずさは起きな
くて済んだのです。
「お宅何年生きてらしたの?」面と向かって言いたい
くらいでしたねえ。

座りたくなくても「ありがとう」と言って座ればよい
じゃないですか。
そうではなく、自分のお考えがあるのなら、それを話
してあげればよいのです。
それもご面倒なら適当にウソついてもいいでしょう。
「ありがとう。実は腰が痛いので立っている方がラク
なので、折角だけれど、ごめんなさい」

思いきって声をかけたであろう相手の気持を考えない
いや、もうこれは公の場でのエチケット違反。
次に彼女が同様の場面に出会ったとき、気持が重く
なるかもしれません。
オジサン!ご自宅でならお好きに行動されればよいの
ですがね。場面を考えて欲しいなあ。

まあ、こういうモノを考えていないとしか思えない
お年寄りの何と多いことでしょう。
エチケットどころか、ワガママとも見える行動。
不躾な若者と違いは見つけられません。
ジベタには座ってないくらいで。

TVでは文化人がたまたま目にしたであろう若者を
例に挙げて「戦後教育はナットラン」とノタマウ。
では先の物を考えない老人を作り出した教育は何
だったんだろう?

ここで言いたいのは~教育に直ぐ結びつける短絡的
な言説、ステレオタイプの発想のお粗末さです。

戦後教育を手放しで褒めるものではありませんが
美しい国を壊した責任を戦後教育に求めるのは相当
無理があります。冤罪でしょう。

老人達が美しい国を壊したからこそ若い人たちの
居場所がなくなっているのです。

ええ・・
感情にも理性の裏打ちがいるというつもりで書き
始めたのですがオオゲサな話になりました。
ただ少なくとも、例をあげて短絡的な話につなげる
のは危険だという「例」にはなったでしょうか。

D⑥例を示す

論理の展開では例を示す事を忘れてはいけません。
例を探すことで考えが深まることもあります。

ただし、例が適当かどうかは検証すべきです。
でも少し難しいですね。
できれば短絡思考にはなりたくないものです。
10.2

(19)山裾は寺の甍と幼稚園

2006-10-03 22:18:43 | 考える

⑦シミュレート

私は中国地方の小都市Oに生まれ小学校高学年まで
そこに育ちました。
細長い町の真ん中辺りにO幼稚園が今もある筈です。
坂道を上ると小さな幼稚園はいつも海からの日差しが
溢れてキラキラとしています。

何しろ半世紀も前の事で細かくは覚えていませんが
そこで園児が模擬店を出し皆でお買い物ゴッコを
するイベントがありました。

商品もお金も紙などで手作り。店構え自体は大人が
手伝い、運動会に匹敵する華やかな空間が出来て
ちょっとしたお祭り気分でしたね。
運動場ではなかったのは、何日もかけて準備したから
でしょう。

買い物をした「商品」は長い間大切にしていましたが
引越しを重ねるうちに失くしてしまいました。

思えば、生まれて初めての「社会参加」でした。

福福しくて、かつ怖かったA先生、お元気ですか?


昔から『~ゴッコ』で子供が遊びますがシミュレート
で楽しく学ぶのは人間に備わったことのようです。

もしかするとそれに限らず、学ぶこと自体は人間に
とっては楽しいことであって、今のように、嫌なもの
に変わったのは、大人の責任かもしれないですね。


シミュレートは塾ではしづらいことです。
学校ならば思い切って時間を割かれることもあるで
しょう。
また近年では校外活動などで体験学習も多いよう
です。これらの一部にはシミュレートもあると思い
ます。生徒にとっては貴重であり、楽しい経験です
けれど企画・実行のご苦労は大変なものでしょう。

国語では、状況や役割を設定して劇や討論をする
ことが可能ですね。
自分のこととして試行してみるのです。
語学などでもありえますね。

まず何はともあれやって、あとで調べる、考える。
他には理科では模擬実験をしますが、社会は少し
難しいのでしょうか。

吾が幼稚園はナカナカのものだったのですねえ。

(明日に続きます) 10.3

(20)つづきです

2006-10-02 19:58:26 | 考える

シミュレーションの続きです。

理科の実験の中にシミュレーションをするものがあり
ますが、それに限らず理科の実験についての一般的な
話をまず申し上げます。

塾でも理科の実験にトライした所は多いと思います。
けれども結局、ただの人寄せで終わってしまったり
生徒にとってはただの息抜きであったり、という
ことも多かったのではないでしょうか。
今一つ盛り上がりませんね。

実験はなぜ行われるのか、その考え方がはっきりと
していない場合、ただの見世物で終わるのです。
次に生徒も面白がらなくなる。別に理科の点も上が
らない・・・

学校においても実験への関心が薄くなっていると
聞きます。
結果がわかっていることを、改めてやってみるのに
何の面白さがあるか、ということでしょう。

初めは、眠い授業よりよいか、くらいであっても
次第に面倒くさくなってしまうのでしょう。

実験は遊びに近いし嫌いだというわけではない子
も、それで理科が好きになるということではない
ようです。
理科が好きな子が実験も好きだ、というだけに
なりそうです。


筋道をたてた考えを実際に確認するために実験する
とか、シミュレートして認識を発展させるとか、
能動的になりうる部分がないと、いくら色鮮やかに
してみようと煙がボンと出ようと、ちょっとした
遊びにしか過ぎず本当の面白さには結びつき難い
と思います。

どう実験すれば良いのか、これが考えられる実験
であれば、と思います。
難しいのでしょうね。文系だから気楽に言い放って
いるのでしょうか。


「模型」を使って実験ならば問題は少ないので
しょうがシミュレートも、そのやり方自体が果たして
正しいかどうかの検証が必要です。

もし正しくないとすれば、いくらパラメータを動かし
てデータをとっても意味がありませんよね。

ただそこまで考えると難しいので、PCで出来る
何かを適当に戴くのがせいぜいでしょうか。

大掛かりなことではない机の上でできる小さなシミュ
レートもあります。
特に小さな塾ではこれくらいしかできませんかね?
10.4

(21)理屈は後から貨車でくる

2006-10-01 22:31:00 | 考える
どなたか政治家の方の名?言です。
乱暴ですが、当っている部分があるのがシャク

D⑧結論を出す

政治家の仰るように、理屈を検討して結論がでる、
のではなく、現実には結論が予め決まっていることが
多いのではないでしょうか。

何かを検討比較し論理を進めて、より正しい結論を求
める、などということは少ないかもしれません。

もっともこれは、小さな塾のオッサンが「ニランデ」
いるだけの話で、正しいかどうかなど勉強不足で
自信はありません。

ただ、大人の世界だけでなく、どうも子供でもそう
振舞うことが多いのではないか、と思えます。

塾での小さな例。
国語などのペーパーテストで選択問題の場合です。
選択肢の中でもっとも選んではいけないものを選ぶ子
がおり、その理由を訊くと上記の「まず結論ありき」
なのですね。
「きっとこれだと思った!」
もちろん根拠はアイマイです。

一般に選択肢の解答については、たまたま合っている
ということもあるので○×に係らず根拠を問います。

「その答、あっているかもしれないし、違うかもしれ
ないけれどトニカク、これが答ということがどこで分
かった?何処らにそんなことが書いてあった?」と。
(私の場合は、もっと濃オ~い広島弁ぢゃけーどの)

算数であれば検算したり題意に適うかどうか確かめを
したりします。それと同様のことですね。

理論というものにおける結論ということは、多分単純
なものとされていると思います。
けれども現実には難しいことなのですね。

出た結論は検証しなければなりません。

ところが「先ず結論ありき」では根拠が薄弱である
にもかかわらず「これが答えである」と信じている
わけですから、間違いがあってもナカナカ気づきま
せん。

子供の場合は大人が外からチェックしないといけま
せん。
いつも大人がしていると進歩しませんから、次第に
チェックする力をもたせなければなりませんが、
時間がかかることですよね。
10.5