清水食堂の向かい

2015-01-27 16:10:23 | 塾あれこれ
尾道、海岸通りの清水食堂。
今ではすっかり有名になりました。
ミッチャンの人柄も良いからねえ。

ミッチャンと私は幼馴染です。
今でも覚えていてくれてるでしょう。
何年空いても「元気?」と名前で呼んでくれ
嬉しく思わせていただけます。

清水食堂がお母さんの時代、形態は小さな鉄板焼き
であったのを覚えています。
ミッチャンのお母さんがキンツバを焼いてた。

たぶん昔のお好み焼きも焼いたりしてたのでしょうが
小1、2の子供には感心がありませんでした。
「ふ~ん、キンツバってああやるんだ」ばかりが
印象に残っています。

いつの間にか小料理屋さんになっていましたね。

場所も現在とは少々東よりにありました。
林芙美子の「うずしお通」をまっすぐ海に抜け
少しだけ駅前桟橋よりの、海から上がったばかりの
店で、お母さんの背中には瀬戸内海が見えていました。

ガンギと呼ばれる階段をとろとろっと降りると波打際。

狭い土地にひしめくように並んだ戦後不法建築。
あれが、尾道だったのにね。
残ってたら印象深い観光名所になっていたでしょうが
今は綺麗に片づけられちゃった。


その清水食堂の斜め向かいに店舗を借りたのが
私の父母です。

会社勤めが上手く行かず店を始めちゃった、危ないパタン。

漁船のスクリュー専門店から始まって、
観光客目当てのイリコや干物の小売りなど
終いには駄菓子まで売っていたかなぁ。

こんな一貫性のない仕事で成功しますか?
我が父ながら阿呆ですねえ。

その上、毎晩呑み歩く。
家庭内は壮烈な夫婦喧嘩の毎日でした。


そんな我家の数軒先に同い年の男の子がいて
これが私の遊び相手になってくれました。

両家の経済格差が大きかったので、もっぱら
私が遊びにお邪魔していた次第。
昔はあまり邪険に扱われませんでしたね。

彼は私と違い闊達な少年でした。
一見、女の子みたいな風貌でね。

いろいろなことを教わりました。
私は仔分。
ずっとくっついていました。


近所に大きなスーパーができたころです。
もちろん田舎町にしてはの規模ですが
子供心には大きな店。

あれは
♪夕焼け空が真っ赤っ赤
を歌ってましたから小3くらいかなあ。

「おい、万引きって知ってるか」

見せてやるからスーパーについて来いと言うのです。

いえね、見張り役をさせられただけです。
さすがに「そりゃ、いけまー」

一回きりの犯罪加担。

後日、とっ捕まって大変だったようです。
リッチで教養高い家でしたから。


で、彼はいま普通の大人。