「私」と「公」

2015-01-25 15:49:21 | 辞め塾通信
『花燃ゆ』でも大きなテーマになっています。
公と私。

当然、いまは幕末維新の時代ではないのですが、
現代でも重要な基準であることに間違いはありません。

もちろん、旧来から「公」を振りかざして人間を
省みない傾向も強かったので、その反省から
戦後は「私」も重要視されてきました。

それもあって、「公」を言うのはいささか迫力が・・

けれど、私が思うに、個人の生き方を決める場合
今でも非常に役立つポイントなのです。

「それは自分中心でそうするのか、
 人さまのことを優先させているのか」


生物は本能的に自己保存の本能がありますから
人間も、放っておけばジコチューで行動します。
「私」中心。

その場合に間違いが無いようにチェックをしてくれるのが
「公」という視点ですね。


いささか口はばったいことにもなるかと思いますが
話題を私の卑近なことに限定します。

塾での仕事。

私が常に考えてきたのは、それは自分のための行動か
相手のためを優先させているか、ということでした。

学校の仕事も塾も、場合によっては生徒の人生を
左右しかねない仕事です。

もちろん人間というものは自己で伸びる力が強いですから
たとえ下手な塾で酷い目に遭っても立派な成人になるのが
通常です。

けれど、あの先生のおかげで数学が苦手になったとか
英語が嫌いになったとか、・・そのまま社会人になれば
本来持っていたポテンシャルを潰されたことになります。

苦手意識というものはじつは回りが植え付けてくるもので
多くの場合勉強途中の躓きでそう思わされるものなのです。


全てではないにせよ、人の人生を左右するかもしれない仕事で
教員が、生徒より自分を優先させることは不可!
「公」と「私」の視点が必要となる訳です。

その子のためになるのか、塾の経営を優先させてるのか。

数値化は難しいけれど、「まず子供のため」であるかどうか
これは判断可能でしょう。

辞められるかもしれないけれど叱れますか?
塾経営を優先させて、腕が縮こまってやしませんか。
逆に自分の感情に任せてキレていませんか?
必要なつっこみを手控えていませんか。

「ま、ええか、このくらいで」は危険です。


ご家庭でも全く同じですが物を教える時でも「公私」は
存在します。

(教えない、教えすぎない)の立場で以下書きますね)

「先生、分かりません」
「どこですかね」
「○○です」
「どう考えてみました」

以上のやりとりでも場合に寄れば「私」が出ています。

「ははあ、そう考えた。良いですね。
 で、どこで止まってる?」

ご家庭でも同じですが、このリードには明らかに
若干ではあれ、危険が潜んでいます。

もしも良い塾と思われたいために少しずつリードしようと
いうのなら、もう危険ですね。
「私」優先になっています。

もちろん相手の状況に寄ります。
それによって良し悪しもコロっと変わる。

けれども大概は子供にむけての親切のつもりで
実際はミスリードが多いようです。

あるいは教育の形をとった説教。

説教されて子供が何かを得ますか?
ほとんどが子供のためにはなっていません。

つまり「私」優先。

平凡なことでもありますが生徒中心主義が
「公」

細やかな洞察力、共感の心が必要。

案外、肉親の方が難しかったりして。


急いで付け加えますが、上記はリクツの話。
私が良い仕事をした、なんて話じゃありません。