『花燃ゆ』でも大きなテーマになっています。
公と私。
当然、いまは幕末維新の時代ではないのですが、
現代でも重要な基準であることに間違いはありません。
もちろん、旧来から「公」を振りかざして人間を
省みない傾向も強かったので、その反省から
戦後は「私」も重要視されてきました。
それもあって、「公」を言うのはいささか迫力が・・
けれど、私が思うに、個人の生き方を決める場合
今でも非常に役立つポイントなのです。
「それは自分中心でそうするのか、
人さまのことを優先させているのか」
○
生物は本能的に自己保存の本能がありますから
人間も、放っておけばジコチューで行動します。
「私」中心。
その場合に間違いが無いようにチェックをしてくれるのが
「公」という視点ですね。
○
いささか口はばったいことにもなるかと思いますが
話題を私の卑近なことに限定します。
塾での仕事。
私が常に考えてきたのは、それは自分のための行動か
相手のためを優先させているか、ということでした。
学校の仕事も塾も、場合によっては生徒の人生を
左右しかねない仕事です。
もちろん人間というものは自己で伸びる力が強いですから
たとえ下手な塾で酷い目に遭っても立派な成人になるのが
通常です。
けれど、あの先生のおかげで数学が苦手になったとか
英語が嫌いになったとか、・・そのまま社会人になれば
本来持っていたポテンシャルを潰されたことになります。
苦手意識というものはじつは回りが植え付けてくるもので
多くの場合勉強途中の躓きでそう思わされるものなのです。
○
全てではないにせよ、人の人生を左右するかもしれない仕事で
教員が、生徒より自分を優先させることは不可!
「公」と「私」の視点が必要となる訳です。
その子のためになるのか、塾の経営を優先させてるのか。
数値化は難しいけれど、「まず子供のため」であるかどうか
これは判断可能でしょう。
辞められるかもしれないけれど叱れますか?
塾経営を優先させて、腕が縮こまってやしませんか。
逆に自分の感情に任せてキレていませんか?
必要なつっこみを手控えていませんか。
「ま、ええか、このくらいで」は危険です。
○
ご家庭でも全く同じですが物を教える時でも「公私」は
存在します。
(教えない、教えすぎない)の立場で以下書きますね)
「先生、分かりません」
「どこですかね」
「○○です」
「どう考えてみました」
以上のやりとりでも場合に寄れば「私」が出ています。
「ははあ、そう考えた。良いですね。
で、どこで止まってる?」
ご家庭でも同じですが、このリードには明らかに
若干ではあれ、危険が潜んでいます。
もしも良い塾と思われたいために少しずつリードしようと
いうのなら、もう危険ですね。
「私」優先になっています。
もちろん相手の状況に寄ります。
それによって良し悪しもコロっと変わる。
けれども大概は子供にむけての親切のつもりで
実際はミスリードが多いようです。
あるいは教育の形をとった説教。
説教されて子供が何かを得ますか?
ほとんどが子供のためにはなっていません。
つまり「私」優先。
平凡なことでもありますが生徒中心主義が
「公」
細やかな洞察力、共感の心が必要。
案外、肉親の方が難しかったりして。
◎
急いで付け加えますが、上記はリクツの話。
私が良い仕事をした、なんて話じゃありません。
公と私。
当然、いまは幕末維新の時代ではないのですが、
現代でも重要な基準であることに間違いはありません。
もちろん、旧来から「公」を振りかざして人間を
省みない傾向も強かったので、その反省から
戦後は「私」も重要視されてきました。
それもあって、「公」を言うのはいささか迫力が・・
けれど、私が思うに、個人の生き方を決める場合
今でも非常に役立つポイントなのです。
「それは自分中心でそうするのか、
人さまのことを優先させているのか」
○
生物は本能的に自己保存の本能がありますから
人間も、放っておけばジコチューで行動します。
「私」中心。
その場合に間違いが無いようにチェックをしてくれるのが
「公」という視点ですね。
○
いささか口はばったいことにもなるかと思いますが
話題を私の卑近なことに限定します。
塾での仕事。
私が常に考えてきたのは、それは自分のための行動か
相手のためを優先させているか、ということでした。
学校の仕事も塾も、場合によっては生徒の人生を
左右しかねない仕事です。
もちろん人間というものは自己で伸びる力が強いですから
たとえ下手な塾で酷い目に遭っても立派な成人になるのが
通常です。
けれど、あの先生のおかげで数学が苦手になったとか
英語が嫌いになったとか、・・そのまま社会人になれば
本来持っていたポテンシャルを潰されたことになります。
苦手意識というものはじつは回りが植え付けてくるもので
多くの場合勉強途中の躓きでそう思わされるものなのです。
○
全てではないにせよ、人の人生を左右するかもしれない仕事で
教員が、生徒より自分を優先させることは不可!
「公」と「私」の視点が必要となる訳です。
その子のためになるのか、塾の経営を優先させてるのか。
数値化は難しいけれど、「まず子供のため」であるかどうか
これは判断可能でしょう。
辞められるかもしれないけれど叱れますか?
塾経営を優先させて、腕が縮こまってやしませんか。
逆に自分の感情に任せてキレていませんか?
必要なつっこみを手控えていませんか。
「ま、ええか、このくらいで」は危険です。
○
ご家庭でも全く同じですが物を教える時でも「公私」は
存在します。
(教えない、教えすぎない)の立場で以下書きますね)
「先生、分かりません」
「どこですかね」
「○○です」
「どう考えてみました」
以上のやりとりでも場合に寄れば「私」が出ています。
「ははあ、そう考えた。良いですね。
で、どこで止まってる?」
ご家庭でも同じですが、このリードには明らかに
若干ではあれ、危険が潜んでいます。
もしも良い塾と思われたいために少しずつリードしようと
いうのなら、もう危険ですね。
「私」優先になっています。
もちろん相手の状況に寄ります。
それによって良し悪しもコロっと変わる。
けれども大概は子供にむけての親切のつもりで
実際はミスリードが多いようです。
あるいは教育の形をとった説教。
説教されて子供が何かを得ますか?
ほとんどが子供のためにはなっていません。
つまり「私」優先。
平凡なことでもありますが生徒中心主義が
「公」
細やかな洞察力、共感の心が必要。
案外、肉親の方が難しかったりして。
◎
急いで付け加えますが、上記はリクツの話。
私が良い仕事をした、なんて話じゃありません。