もしも天然と謳うウナギ屋で養殖を使っていたら
客足は遠のくでしょう。
それと似たことがドキュメンタリーにはあります。
ドキュメと謳いながらヤラセが混入していれば
観客はその類の作品を信じられなくなります。
『アヒルの子』にいわゆるヤラセはないでしょう。
けれどもある種の危うさが残るように思うのです。
監督やスタッフの言いたいことに文句をつけるのでは
ありません。
たしかにこの方法しかなさそうとは思えますし
ここまで踏み込んだことは画期的とも言えるでしょう。
しかし。
ドキュメンタリーには禁物の「養殖鰻」=ヤラセへの
道ができてしまう恐れを感じるのですね。
○
繰り返しますが、小野さんの「異議申し立て」に
ケチをつけるのではありませんから。
○
自分のことは結局のところ自分しか分かりませんから、
そのことを表現するには、文学ならば「自伝」の類
になるでしょう。
ただし、片側の目だけで描く世界には危うさが潜みます。
まったく違う側面が存在するかもしれないのです。
今回の映画では、家族の側も主張をするわけですから
一方的な主張に終始することはありません。
自伝小説よりも可能性は大きいかもしれません。
(片側からの視線に変わりはありませんが)
○
ただ、ドキュメンタリーに監督自身が登場すると云うことは
たとえ十分に必要性があっても、自作自演につきまとう
一種のアヤシサは消せないと思うのです。
(本人が泣くシーンが欲しい)→本人がカメラの前にきて泣く
見る側からは、泣いている姿は本当か、演技が入っているのか
分かりません。(意地が悪いようですが)
また監督自身が決めて登場しているのか、誰か演出がいて
主人公が登場しているのか、判断がつきません。
この映画でも、若い小野さんが誰かに強くサジェストされ
時折は嫌々やらされている、そう思う観客がいても不思議では
ないでしょう。
○
監督・主演のドキュメンタリーって難しいですよね。
劇映画なら可能でしょうが。
そこをやったのですから新しいと言えば新しい。
普通ならば監督自身がカメラを持って相手に話をきく
というのがドキュメンタリーらしいですよね。
ただこの映画の主題ではそれが難しい。
少なくとも誰かにカメラを頼まねばならない。
すると、第三者がいるところで自分の深い内面を話す
という難しいことをしなければなりません。
監督はまだしも相手は急に話をぶつけられるのです。
私など中々正直を話せないでしょう。
それが普通なのに深いところまで引き出せた、という
評価もあるでしょうね。
予め固定カメラをセットしておくやりかたもあるでしょう。
(この映画でも最初のほうにありました)
それでもワザトラシサは完全には払しょくできませんよね。
かえって、一回きりの時の流れを疑わせることにも
なりかねません。
監督を別にして小野さんが撮ってもらう側に徹するという
作り方もありえたと思います。
その時は自分の映画にならないから、この映画のような
インパクトが生まれにくかったかもしれません。
また、例えば小学生の作文に大人が手を入れるような
そんなことはこの映画ではなかったか?
小野さんに叱られそうですけれど画面から何かそのような
感じがしてきたところがあったのです。
ほかに、明け方のはずなのに男のひげがきれいに剃って
あるように見えたり・・
荒削りの仕上がりで残念ですが、それゆえにこそ出来た
若さの勝利した映画かもしれません。
○
監督から見ればイチャモンのようなブログになってしまい
ましたが、公開しちゃうということはこんなヤブニラミの
感想を書かれることもあるのです。
申し訳ありません。
○
今気付いたことですが若者のヒゲが伸びていなかったのは
最近はやりの脱毛手術だったのかもしれませんね。
客足は遠のくでしょう。
それと似たことがドキュメンタリーにはあります。
ドキュメと謳いながらヤラセが混入していれば
観客はその類の作品を信じられなくなります。
『アヒルの子』にいわゆるヤラセはないでしょう。
けれどもある種の危うさが残るように思うのです。
監督やスタッフの言いたいことに文句をつけるのでは
ありません。
たしかにこの方法しかなさそうとは思えますし
ここまで踏み込んだことは画期的とも言えるでしょう。
しかし。
ドキュメンタリーには禁物の「養殖鰻」=ヤラセへの
道ができてしまう恐れを感じるのですね。
○
繰り返しますが、小野さんの「異議申し立て」に
ケチをつけるのではありませんから。
○
自分のことは結局のところ自分しか分かりませんから、
そのことを表現するには、文学ならば「自伝」の類
になるでしょう。
ただし、片側の目だけで描く世界には危うさが潜みます。
まったく違う側面が存在するかもしれないのです。
今回の映画では、家族の側も主張をするわけですから
一方的な主張に終始することはありません。
自伝小説よりも可能性は大きいかもしれません。
(片側からの視線に変わりはありませんが)
○
ただ、ドキュメンタリーに監督自身が登場すると云うことは
たとえ十分に必要性があっても、自作自演につきまとう
一種のアヤシサは消せないと思うのです。
(本人が泣くシーンが欲しい)→本人がカメラの前にきて泣く
見る側からは、泣いている姿は本当か、演技が入っているのか
分かりません。(意地が悪いようですが)
また監督自身が決めて登場しているのか、誰か演出がいて
主人公が登場しているのか、判断がつきません。
この映画でも、若い小野さんが誰かに強くサジェストされ
時折は嫌々やらされている、そう思う観客がいても不思議では
ないでしょう。
○
監督・主演のドキュメンタリーって難しいですよね。
劇映画なら可能でしょうが。
そこをやったのですから新しいと言えば新しい。
普通ならば監督自身がカメラを持って相手に話をきく
というのがドキュメンタリーらしいですよね。
ただこの映画の主題ではそれが難しい。
少なくとも誰かにカメラを頼まねばならない。
すると、第三者がいるところで自分の深い内面を話す
という難しいことをしなければなりません。
監督はまだしも相手は急に話をぶつけられるのです。
私など中々正直を話せないでしょう。
それが普通なのに深いところまで引き出せた、という
評価もあるでしょうね。
予め固定カメラをセットしておくやりかたもあるでしょう。
(この映画でも最初のほうにありました)
それでもワザトラシサは完全には払しょくできませんよね。
かえって、一回きりの時の流れを疑わせることにも
なりかねません。
監督を別にして小野さんが撮ってもらう側に徹するという
作り方もありえたと思います。
その時は自分の映画にならないから、この映画のような
インパクトが生まれにくかったかもしれません。
また、例えば小学生の作文に大人が手を入れるような
そんなことはこの映画ではなかったか?
小野さんに叱られそうですけれど画面から何かそのような
感じがしてきたところがあったのです。
ほかに、明け方のはずなのに男のひげがきれいに剃って
あるように見えたり・・
荒削りの仕上がりで残念ですが、それゆえにこそ出来た
若さの勝利した映画かもしれません。
○
監督から見ればイチャモンのようなブログになってしまい
ましたが、公開しちゃうということはこんなヤブニラミの
感想を書かれることもあるのです。
申し訳ありません。
○
今気付いたことですが若者のヒゲが伸びていなかったのは
最近はやりの脱毛手術だったのかもしれませんね。