ヤラセは厳禁

2010-11-16 17:57:34 | 塾あれこれ
もしも天然と謳うウナギ屋で養殖を使っていたら
客足は遠のくでしょう。

それと似たことがドキュメンタリーにはあります。
ドキュメと謳いながらヤラセが混入していれば
観客はその類の作品を信じられなくなります。

『アヒルの子』にいわゆるヤラセはないでしょう。
けれどもある種の危うさが残るように思うのです。

監督やスタッフの言いたいことに文句をつけるのでは
ありません。
たしかにこの方法しかなさそうとは思えますし
ここまで踏み込んだことは画期的とも言えるでしょう。

しかし。

ドキュメンタリーには禁物の「養殖鰻」=ヤラセへの
道ができてしまう恐れを感じるのですね。


繰り返しますが、小野さんの「異議申し立て」に
ケチをつけるのではありませんから。


自分のことは結局のところ自分しか分かりませんから、
そのことを表現するには、文学ならば「自伝」の類
になるでしょう。

ただし、片側の目だけで描く世界には危うさが潜みます。
まったく違う側面が存在するかもしれないのです。

今回の映画では、家族の側も主張をするわけですから
一方的な主張に終始することはありません。
自伝小説よりも可能性は大きいかもしれません。
(片側からの視線に変わりはありませんが)


ただ、ドキュメンタリーに監督自身が登場すると云うことは
たとえ十分に必要性があっても、自作自演につきまとう
一種のアヤシサは消せないと思うのです。

(本人が泣くシーンが欲しい)→本人がカメラの前にきて泣く

見る側からは、泣いている姿は本当か、演技が入っているのか
分かりません。(意地が悪いようですが)

また監督自身が決めて登場しているのか、誰か演出がいて
主人公が登場しているのか、判断がつきません。

この映画でも、若い小野さんが誰かに強くサジェストされ
時折は嫌々やらされている、そう思う観客がいても不思議では
ないでしょう。


監督・主演のドキュメンタリーって難しいですよね。
劇映画なら可能でしょうが。

そこをやったのですから新しいと言えば新しい。

普通ならば監督自身がカメラを持って相手に話をきく
というのがドキュメンタリーらしいですよね。

ただこの映画の主題ではそれが難しい。

少なくとも誰かにカメラを頼まねばならない。

すると、第三者がいるところで自分の深い内面を話す
という難しいことをしなければなりません。
監督はまだしも相手は急に話をぶつけられるのです。

私など中々正直を話せないでしょう。

それが普通なのに深いところまで引き出せた、という
評価もあるでしょうね。

予め固定カメラをセットしておくやりかたもあるでしょう。
(この映画でも最初のほうにありました)
それでもワザトラシサは完全には払しょくできませんよね。
かえって、一回きりの時の流れを疑わせることにも
なりかねません。

監督を別にして小野さんが撮ってもらう側に徹するという
作り方もありえたと思います。
その時は自分の映画にならないから、この映画のような
インパクトが生まれにくかったかもしれません。

また、例えば小学生の作文に大人が手を入れるような
そんなことはこの映画ではなかったか?
小野さんに叱られそうですけれど画面から何かそのような
感じがしてきたところがあったのです。

ほかに、明け方のはずなのに男のひげがきれいに剃って
あるように見えたり・・

荒削りの仕上がりで残念ですが、それゆえにこそ出来た
若さの勝利した映画かもしれません。


監督から見ればイチャモンのようなブログになってしまい
ましたが、公開しちゃうということはこんなヤブニラミの
感想を書かれることもあるのです。
申し訳ありません。


今気付いたことですが若者のヒゲが伸びていなかったのは
最近はやりの脱毛手術だったのかもしれませんね。