救援物資

2011-04-08 | ノンジャンル
友人からの救援物資持ち込みについての情報を頂きました。

津波でひっくり返ったC58を取材できる(C58型式を模型化した時には会津若松時代の姿でC5816を模型として復活させたい)こともあり、その気になりました。

友人(鉄研三田会)は現在の拠点が新潟です。 (先週4/2時点の状況)


* 磐越道は福島県に入る頃から道路のバンプが目立つ(地震の影響で盛り土部分が凹んだ影響か)

* 郡山JCTからの東北道、高速上の各給油所は100台位が給油待ち、並べば1時間程度と想像。

* 東北道上は自衛隊の災害派遣、タンクローリー、トラック、自家用車等で混雑、渋滞はない。

* 東北道は全線80キロ規制。仙台以北は道路損壊によるバンプが激しくそれ以上は出せない。

* 築館ICから一般道(この辺りは震度7だった)は思ったほど悪くはない。
所々で建物が潰れたり傾いていたりしているが、人々の生活は平静。

* 南三陸町手前の登米市(762mm仙北鉄道の終点です)では少ないながらも飲食店、コンビニ等も開店している。開いている店に人々が集中している。

* 南三陸町への道路は片道1車線が確保され悪く無い、隣の登米市から20分少々の山越え。

* 南三陸町役場まで(ナビで)あと2.5キロ地点から景色が瓦礫の山に一変する。

* 南三陸町役場は崩壊、仮庁舎を探すも道標や看板無し、信号も無し、ランドマーク一切無し。

* 乾いた泥が強風で煽られ相当埃っぽい。 マスクは必需品。


* 車は通るが人通り無し、他の街では片付けが始まっている様だが、ここではその気配なし。

* 仮庁舎は気仙沼方向に上がった(アリーナと呼ばれる)高台の体育館と判明。 仮役場と大型避難所は併設、自衛隊、NPO(イスラエルの旗があった)がテントを張っていた。
外には炊き出しを待つ長い行列。

* 町の人々はここに集中、体育館に電気も水も来ていないので薄暗い。
床一面にブルーシート、仕切りにダンボール、沢山の人々、可哀相に生気なし。

* 物資搬入口を見つけ、物資を届けると大変感謝される。

* 南三陸町のホームページにあった救援要請物資を届ける、米50キロ等(ほか恐るべき多数・・個人でこれを負担するのは本当に大変だと思います「それでも大型避難所では焼け石に水ではあるが・・・」と言っています)

* 帰路は三陸道を南下、被災地の一つ石巻市を通るが、三陸道からは被災現場は見えず。

* 燃料タンクが大きい車で省エネ運転に徹すれば被災地近くで給油せずに済むと思われる。
(友人は途中無給油で往復750㎞10時間を走りきったようです。 本当に立派な行為だったと思います)

南三陸町のHP
http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/

この中に「現在不足している物資、もう足りている物資」について書いてあります。

友人が言うのは、南三陸町は何故なのか報道される他の被災地に比べても片付けも進まず、不思議なほど取り残されたかたちになっていると聞いています。




ところが、
東京は当初のような物資不足は続いていないのでは?と思っていたら、トンデモナイと言うことが判明しました。

米は1袋まで、
水は大きさに関わらず3本まで、
その他の物資もからっぽに近いので物資の実際の持ち込みに対しては無力であることが判明しました。

東京辺りの住人には個人としての救援をする資格が無いようです・・・

救援物資もろくに持たずにC58を撮りに行くわけには行きますまい。

残念ながら取止め、出来る範囲で募金を続ける程度に致します。


さて、↓これは2004年3月10日に文庫本が再販された吉村昭「三陸海岸大津波」です。



吉村昭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%9D%91%E6%98%AD


表紙は津波に被災した人々を描いた明治時代の絵です。

ドキュメンタリー作家吉村昭さんは三陸海岸で恐るべき大きさに聳え立つ津波対策の防潮堤を見た事から思い立ち、津波を経験した被災者からの聞き取りと明治時代の記録を集めて一冊に纏めました。

1970年に中公新書として世に出たときは「海の壁 三陸沿岸大津波」という題でしたが後に「三陸海岸大津波」と改めています。

吉村さんは2004年の「バンダアチェ」の津波は見ていますが、2006年に亡くなっていますので今回の大津波は見ていません。

田老町の万里の長城、二重の巨大防潮堤は再び敗れ去ったことを知りません。

我々日本人は過去を調べて知ることが出来ます。
そして今回の津波をテレビカメラで見る事が出来ました。
東大の津波研究チームは沖合に海面高サを測る装置を置いて計測することも出来ました。
津波というモノをきちんと記録し、正確に知り、こんなに酷い災害を受けないようにしていって欲しいモノだと思います。



此処にも↑書かれていますが、津波が来る時は「来ないかな」という時に来るようです。

テレビで専門家らしき人が、釜石の映像を見ながら解説していました。

アナウンサー「地震から津波が来るまで何分ぐらいあったのでしょうか?」

解説者「15分程度で到達しています」

アナウンサー(解説者が「津波は早いんだ」と言いたいがために数字をウソ言った事に気が付きながら)「15分から20分ぐらいで到達するんですね」


ウソはなんの役にも立ちません。

今回の地震では津波の襲来まで30分~40分ほどでした。

この本にも書かれているように一旦山に逃げて「来ないな」と安心して寝たときにそれまで予兆がなかった海がす~~っと引いていき、あっという間にやってくるのです。

今回は時間による変化が判るような姿で津波が捉えられています。

地形によって一様ではない事は確かですがNHKあたりできっちり分析した番組を作って日本人なら「津波とは何ぞや、どう対処するべきなのか」を知っている位に教えてくれるといいなあと思います。

今回の津波が過去の三陸大津波と違っていたのは、過去の津波は水が引いてからドカンとやってきたことです。
今回は僅かに引いたものの「上げ」がいきなりやってきました。

沖合の海面高サは地震直後から一方的に異常な上昇を示し、高サ3m(通常海面からは6m)のきっちり大きな波がやってきています。
→それなのに「映像」ではまず僅かに引いてからどんどんどんどんやってきています。

三陸では海が盛り上がって、海が陸に上がってから数分経過後に「海嘯」の勢いは桁外れに大きくなっていきます。

しかし、名取や南相馬は津波先端がいきなり凄い威力でなだれ込んでいるように見えます。




「三陸海岸大津波」だけでなく、津波には恐ろしい凄い話が沢山あります。

今回も坂道の途中、海抜50m以上の位置に「この下に住んではならない」という碑があり、それを守ってどんなに不便でも長い坂道を毎日歩いて漁に出ていた村落が見事に全員無事だった話などが紹介されていました。

37mだったかなといううろ覚え、少し本を開いてみると明治の津波は「到達50m」だったという文字にぶつかりました。

本当に恐るべき津波、これ以上ないほど汚い災害津波、憎むべき津波、その恐ろしさから目が離せません。




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