♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■なぜか疲れない

2005年04月25日 | Weblog

 世の光の時間です。お元気でしょうか。村上宣道です。

 えー、私たちは同じ事をするのでも、そこに意味があって、またはこれは誰かのために役に立つと分かっていてやるのと、そうでない場合とでは違ってくるなと、疲れ方が違うんじゃないかなあというふうに思ったりしますですね。で、前に聞いた話しですけど、ま、似たような話しはありますが、一人の被疑者に自白させるための一つの心理作戦として、ある所にレンガをたくさん山になっているのをこちらの方に運んで積み上げなさいって言って、で、言われて積み上げ終わると、それを崩してさっきの所へ持って帰ってそこへ積み上げなさい。で、積み上げ終わると、また崩してさっき運んだ所に持っていってそこに積み上げなさいというふうなことを、同じことを繰り返し繰り返し一日させて、それを三日間続けているうちにその人は正しく考える能力を失ってしまってですね、で、あなたはこれをやったなと言われたら、ハイやりましたというふうにも自白してしまうというような、まああのそういうような人間の心理を利用したことのようなんですね。で、同じことをやるのでも、ともかく何のことをやっているのだろうこれは、という人生であってもですねえ、毎日同じことの繰り返しだなあ、これに何の意味があるんだろう、何の価値があるんだろう、どういう生産的な意味を持ってんだろう、それが分らずにやっていると、もう疲れて疲れてしょうがないというふうなことがあるんだろうなあというふうに思いますよね。それが、はっきり目的があって、その意味があって、ということですと、同じことでも違ってくるというふうに思いますよねえ。

 聖書の中の創世記の29章という所に書いてあるんですけれども、ヤコブという人がラケルという一人の女性を愛して、で、その人をどうしてもお嫁さんに欲しいというその時に、じゃあこの人のために七年間家(うち)で働きなさいと言われて、わかりましたと言って働いた。そこにこう書いてあるんですね。「ヤコブは彼女を愛していたので、 (その七年間が) ほんの数日のように思われた。」って書いてあるんですね。七年間が、愛する者のためだったらまるで一週間くらいしか感じなかったって、これ、逆だったら大変ですよね。いやな人のためだったら、その一週間がまことに七年のように感ずるに違いないんですね。パウロという人は、「私を愛して私のためにいのちを捨ててくださったこの方を信じて生きるんだ」と言っているんですね。私を本当に愛しておってくださる方がいる。私の生きる生き方は、この方のために生きるんだという目的があればいろんな苦しいことがあってもやっていける、そういう人生すばらしいですよねえ。

 ( PBA制作「世の光」2005.4.25放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会に行ってみるというのもいいんじゃないかなあ。近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。



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