♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■信仰によって生きる人々 / 福井 誠

2021年12月08日 | Weblog

2021/6/23放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はガラテヤ人への手紙3章9節より、「信仰によって生きる人々」と題して、メッセージをお伝えいたします。

 「信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。」

 昨日は、キリスト教信仰は実に単純なもの、人が罪の滅びから救われるためにはただキリストの十字架による罪の赦しを信じるだけでよいのだ、というお話しをしました。

 この3章でパウロは更にその内容を深めています。つまりなぜイエスの十字架を信じるだけでよいのかといえば、それは13節、十字架が私たちのためにキリストが神にのろわれたことを意味するからだ、と言います。

 本来なら罪深い私たちが受けるべき神の呪いと罰を、イエスが身代わりとなって受けてくださった。となれば、それ以外のもの、つまり、割礼や律法を守ることが必要なのだと主張することは、イエスの苦しみが十分ではなかったと言っているようなものです。イエスの肉が裂かれ、血が流されたあの犠牲では全く足りない、ということでしょう。実にそれは愚かな考えと言うべきです。

 そこでパウロはそもそも論を展開しています。ユダヤ人に馴染み深いユダヤ人の父祖アブラハムの例をあげて、ユダヤ人が神の祝福を受けたのはどのようにしてかを思い起こさせています。つまりかつて神はアブラハムという人物を祝福されましたが、それはアブラハムが神の約束を信じる忠実な僕(しもべ)だったからです。

 アブラハムが割礼を受けたからでも後の時代に与えられた律法を守ったからでもない、と。アブラハムは約束を信じる信仰によって祝福されました。それは今も全く変わらない原則なのだ、と語ります。

 そして、後からユダヤ人に与えられた律法は人に救いを与えるためのものではなくて、人に違反を示し、キリストの十字架による罪の赦しを求めさせるためのものである、といいます。自分が不完全で罪深い者だと思わされる時には、そのような自分のためにイエスが呪われてくださったことを、しっかり覚えたいものですね。

 では今日も、良き一日となるように祈ります。

    ( PBA制作「世の光」 2021.6.23放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。でも、新型コロナ禍で集まるのを制限したりオンラインの集まりに切り替えたりしているかもしれません。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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 このサイトは URL名として   http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

 


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