今朝は霧。
水蒸気が冷たい空気に触れて凝結し、微少な水滴が大気中を浮遊しているのだ。
昔はこの現象を霧とも霞とも言ったようだ。後世になって、秋の現象を霧とし、春の現象を霞としている。
俳句では霞を春の季語とし、霧は秋の季語としている。
11月8日が立冬。したがって暦の上ではすでに冬に入っている。したがって今朝の霧は「冬の霧」として詠むことが多いらしい。
冬霧ややはり気になる里の父 鵯 一平
今朝、ふとこんな句ができた。実のところ父母はすでに亡いので、つまり嘘。
俳句の上で、私はときどき嘘を詠む。ありもしない「女性との密会」を、臆面もなく俳句にしたりしている。つまり「強い願望」を句にするのだから、呆れたものだ。
しかしここからは本当の話。
先夜、後輩の通夜に参列した。
その模様を、「行く河の流れ」という記事にして、このブログにアップした。
その記事の中で、「いつものようなM君の毒舌」と書いた。
ところが、記事を読んだM君から、メールで反論された。「私な毒舌を吐いていない!」という内容だった。
なるほど言われてみればそうかもしれない。「M君らしい心遣いのジョーク」を、「ひよどり流のジョーク」で記事にしたのだが、他の人が読めば「毒舌」だけが一人歩きしてしまう。
今朝、記事を書きかえた。
別館として、写真俳句ブログの「ひよどり草紙」を開いてます。
ご覧いただけると嬉しいです。
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創作は大いに楽しいことですから、これからも読ませてくださいね。
私は、モドキから抜けられないでいます。
言葉も気持ちも、自分と同じではないというところが、ややこしくて、面白いところなのでしょうね。
でも、季語っていいですね。いかにも日本的な情緒があって惹かれます。歳時記を読むのも楽しいですが、上手く詠めません。
毒舌も悪意でなければ気にすることはないと思います。ジョークと受け止めればOKですよね。
実際に肌身で感じている季節感と俳句の上では、少し俳句が先を行っているようです。
しかし、それは単なる仲間内の約束事なのだと思っております。
「立冬」の頃が一番悩ましいですね。
秋を惜しむ気持ちがあるからでしょうか。
私も季語が大好きです。
俳句の実作より、歳時記を読むほうが好きです。
そんなことから、俳句作りに入ってしまいました。
それはそれで、おおいに楽しんでおります。