米の価格の決め方として生産者価格と消費者価格が問題だった。生産者を保護するために生産に必要な労賃、生産資材、機械、施設などこれに対してお米を食べる消費者の生活を守るために両方を守るためにコメの二重価額制度を取った時代があった。農家はそれなりに安定した時代があった。1960年代から池田勇人あたりから高度経済改革で農業も構造改善で水田の基盤整備が全国的に行われ大型機械が活用できるように水田の規模を50aとか100aとかに平坦な地域は拡大させた。化学肥料や農薬、除草剤などの活用でコメの生産量は格段に伸びていった。1971年にはコメの生産調整といっていわゆる減反政策が必要となった。日本人はとにかく几帳面であるから村八分にされるほど厳密に生産調整がおこなわれた。いわゆる生かさず殺さずの論理である。2018年までこの減反は続いた。その間有機JAS農法で農薬を使わないで10a当たり5,6俵程度取れる小規模農家は存在し学校給食に農産物を収めている。古くは江戸時代には収量が5,6票が普通であり、日本人の強靭な肉体はこのコメと野菜が原動力となっている。1970年代以降次第にコメ食からパンと肉食に食習慣を変えられてしまった。