何のためのデータ?

2015-10-17 15:33:16 | 近時雑感

草刈り前の空き地、オギの穂が揺らいでいます。
ここしばらく、産業界でのデータの《偽装》《ねつ造》の話題が騒がしい。最新は、建物の基礎杭にかかわるデータ偽装の話。
私の関わった設計でも杭工事を必要とする事例がいくつかありました。当然ながら、杭を必要とするのは、建設地の地盤が軟弱な場合。
地盤の状態は、外見では分らない場合があります。
「筑波研究学園都市」の最初の小学校「旧桜村立(現つくば市立)竹園東小学校」もその一つです。
筑波研究学園都市」の開発地域は、一見すると良好な地盤のように見えますが、実際は東京下町の江東地区とほとんど変わらない軟弱地盤(硬い地盤は地表から40m以上のところにある)の一帯です。それもそのはず、地形図を見れば分りますが、一帯は霞ヶ浦にそそぐ河川が長い年月の間につくりだした土砂の堆積地なのです。だからと言って、生活のための水:井戸水:が得やすいかというとそうではない。よい飲み水は、よほど深く掘らないと得られない。そのため、一帯は集落が生まれず、外地からの帰国者の開いた戦後の開拓地も、場所がきわめて限られ、一帯はほとんどが雑木林・赤松林だった。そのいわば「無住地帯」が「研究学園都市」の「開発地区」となったのです。

この小学校の杭工事は、たしか、「摩擦杭」だったと思います。建物が軽いため、硬い地盤まで杭を打たず、杭とまわりの土との摩擦で重さを承けようという方法。不足する耐力を本数で支持力を補うわけです。当然、事前に地質調査を行います。
硬い地盤まで杭を打つのは、東京都職員組合青山病院と都立江東図書館の工事で体験しました。
前者では、既製のコンクリート製杭を、杭打機で打ち込む方法、後者では、現場で必要箇所に太い孔を穿ち、その孔に組んだ鉄筋を差し込みコンクリートを打設するいわゆる現場打ち杭。
前者の場合の打ち込みの適不適は、杭打機:ハンマーが杭頭をたたいた時の杭の沈下量で確認したと記憶しています。
報道によると、現在は沈下量はセンサーで測るようですが、当時は(今からほぼ半世紀前のことです)、杭に記録紙を添え、その脇に固定した鉛筆を紙にあてがって、沈下の様子を紙に記録する、という方法で確認していました。地盤が硬いところに到達すると、一回の叩きに拠る量が小さくなってくるのです。きわめて原始的な方法ですが、硬いところに到達したことを、実感で受けとめられるのです(杭を打つ音も変ってきます)。設計監理者は、全部の杭打ちに立ち会っていたと思います。要するに全数検査です。杭打機が杭を叩くとき落とす油を雨のように受けながら、鉛筆をあてていたことを覚えています。
後者の現場打ちの場合、孔の深さの適否は、ドリルが掘り出す土の質、様態を事前の地盤調査の試料と比較して確認していたと思います。

今話題の杭打ちは先端にドリル状の刃が付いている鉄製の杭を土中にいわばねじ込む方式らしい。その土中への沈下量はドリルの回転の際の負荷の大小をドリルの回転の様子で測定するようです。硬くなると回転が鈍くなり、それが数値化されて記録される。おそらく、杭打ちのハンマーの打音を避けるために開発された工法でしょう。

かつて私が立ち会った杭打ちの適否の確認はアナログだったのですが、今はそれもデジタル化されているのです。そして多分、機械のプリントアウトするデータは、現場の汚れが着いている鉛筆手書きのデータに比べ一見「精確」あるいは「科学的」に見えるかもしれません。
しかし、そうではない、と私には思えるのです。何故なら鉛筆手書きのそれには、必ず「立会者の現場での実感」が伴っているからです。
杭打ちの様子は、一本ごと、場所ごとに微妙に違って当り前で、手書きにはその状況がそのまま素直に現れます。
それゆえ、手書きの場合には、今回の事件で言われているような「実測データの《創作》」や、「《他の杭のデータの転用》使用」などはできません。つまり、その意味では、数等「正確」「現場に忠実」「科学的」なのです。

逆に言えば、《作業の合理化=経費の削減=データの機械測定・デジタル化》が今回の「事件を生んだ温床」だったと言えるのかもしれません。「現場離れ」の作業現場が当り前になってしまったのです。
もちろん、機械によるデータの測定を否定するつもりはありません。常に、測定が現場に即しているか否か、の確認が必要である、ということです。
すなわち、「『何のためのデータ』測定か?」ということについての「認識」です。
報道を見ていると、今回の「事件」では、「データを採ること」が単なる工事進行上の一《儀式・セレモニー》になっているような印象を受けました。建物が自立できるか、ということを確認するための作業である、という「認識」が視野になかったように思えます。[文言補訂18日9.45am]
第一、あの敷地にあのような高密度の計画がはたして妥当か?という疑問も私は抱きました。
硬い地盤は地下で平坦ではなく谷があり、その谷へ橋を架けるように建物を建てる計画のようです。計画検討段階で、昔の地形図も参考にすれば、計画も変ったと私には思えるのです。《経済的合理性》:《どれだけ儲けられるか》、という「計算」が先行したのではないか、とも思えました。

このような[工学系の分野」に見られる「現象」が、明らかに、「原発事故」に連なっているのです。

数値信仰:データ至上主義に陥らないように気をつけたいと思います。「数字で示すこと=科学的」ではないのです。

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