「学ぶということ」について

2014-09-22 13:31:05 | 近時雑感

例年より早く、十日ほど前から路傍でヒガンバナが咲いています。これは庭の一隅の一叢。
朝は室内でも20度を割るようになってきました。数日前からファンヒーターの出番です。
これも、一ヶ月は早いように思います。ネコたちは喜んでます。



「普通に体を動かせない」という「貴重な体験」をして以来、日ごろの自分の「動作」を具に観察するクセががつきました。そうするといろいろな「発見」があります。

たとえば「バリアフリー」。段差をなくせば躓かなくなる、と言われます。脚の動きの前方に障害物・バリアたとえば段差がある、それがなければ、つま先がぶつからずに歩を進められる、これが常識的なバリアフリーの考え方だと思われます。
しかし、それでは十分ではない、ということを実感しました。平坦な場所でも躓きかけることが結構あるからです。具体的には、靴底が地面を擦るのです。摺り方が強ければ転倒する:つまり躓くのです。幸い、退院以来、一度も転んだことはありませんが、靴底を擦る経験は、今でもあります。

これはいったい、どういうことなのか、観察を続けてきました。
結論は至って簡単なものでした。
地面・床面に対する脚:靴の動作の「タイミング」が適切でないからなのです。つまり、動作の「調整制御・コントロール」が上手くできていない、それが躓いたり靴底を擦る原因のようです。この動作は、健常な場合には、至って簡単な動作です。地面・床面の状況に応じてそれに見合うべく脚の動作を微妙に調整しているのです。躓くのは、本人は脚を地面・床面に対し適切に動かしているつもりなのですが、実際は適切でないからなのです。
これを避けるためには、面倒でも、一歩ごとに「意識して動作をする」ように努めるしかありません。こんな面倒なことは、健常なときはやっていません。意識しなくても、自ずと脚の動かし方を場面に応じ調整しているからです。

それゆえ、単に障害物を取り除くだけではなく、躓きそうになる人には、「動作の要領」を「自覚してもらう策」がどうしても必要になります。私の場合、療法士さんは、その「援け」をしてくださいました。本人がこのことに「気付く」ように心してくれたのです。
それ以来、本人に「気付かせる」「自覚させる」こと、これが「介護の本質」なのではないか、と考えるようになりました。
   物的バリアフリーだけを「完備」すると、かえって、リハビリの援けにならないようにも感じています。
   人は楽な方がそれこそ「楽」ですから、「自ら何とかしよう」という「やる気を持たなくなる」ように思えるのです。
   そして一方、健常な人は、バリアフリー状態を完備したのだから、誰でも楽に動けるはずだ、と思い込むようになるのではないでしょうか。
   不自由な人の「不自由さ」の実態が、理解されなくなるのです。

ところで、先の「健常なときの状態」は、生れた時から備わっている「能力」ではなく、おそらく、赤子の頃からの幾多の「経験」を通して体全体が覚えこんだ「能力」なのだと思われます。
この「健常な場合のごく当たり前な歩行」ができるロボットをつくろうとしたら、多種多様なセンサーが多数必要になるでしょう。通常の歩行に際して当面するありとあらゆる場面に対応しなければならないからです。
そう考えると、人の「能力」とそれを維持している「人体」というのは、実に「凄い」機構である、と思わざるを得ません。


昔から、「学ぶ」とは「真似ぶ:真似をする」ことに始まる、と言われています。
リハビリを体験して、たとえば、躓かないで歩くというような「能力を身に付ける」「自分のものとする」までの「過程」が、実は「学ぶということの本質」を示唆しているのではないか、との「思い」が強くなりました。

真似をするには、先ず「真似すべき対象」を「見る」ことが肝要です。まさに「見よう見まね」です。
   見よう見まね:人のすることを見て、まねをしているうちに、自然に出来るようになる。(「新明解国語辞典」による)

左脚を「普通の様態」にすべく、私は、歩行時の右脚の動きの様態を歩きながら「観察」しました。そして、左脚でその真似をしてみるのです。つまるところは「歩行という動作」の観察です。この「動作」は、単純なようでいて、実は結構「奥が深い」ものでした。そういう「深遠・巧妙・神妙な」動作を、健常な場合には、何ごともないようにやってのけている!そう気が付いて感動したものです。

「真似」は、はじめは本当に「形の真似」をすることから始まります。しかし、「形の真似」だけで、右脚と同じに左が動けるようになるわけではありません。「真似ごと」を通じて、そのコツを読み取らないと、いつまでたっても「形」だけのままのようです。もっとも、多少でもマヒが遺っていると、コツを会得しても完治したことにはなりません。ただ、コツを覚えるか、覚えないかでは、様子が違います。コツを覚えれば、多少はぎこちなくても、無難に歩ける、躓かなくて済むようになるのです。

では、この「コツ」というのは何なのか?
それは、先に触れた「『歩くという動作』が『どのように為されているか』」を「身をもって知ること」と言えばよいでしょう、というより、そうとしか言いようがありません。「真似」をすることを通じて、「コツ」の習得に至るのです。

『歩くという動作』の要点は、先ず、「歩くとは、体を(前方に)移動させる」ことだ、ということを知ることにありました。
たとえば右脚の足先:つま先で地面を蹴ると、その反動で脚の付け根である腰が前へ押し出されます。
しかし、そのままでは、押し出された体は、いわば宙に浮いていることになり、それを避けるために、もう一方の足:左脚で体を支えることになります。
左脚が、体を支えると同時にそのつま先で地面を蹴ると、更に体は前に移動します。
その時、左脚は先ず踵で体重を受け、即座につま先の地面を蹴る動作へと動作を変えています。蹴ったつま先は素早く元に戻し、着地の用意へ切り替えることが必要になります。
この「踵~つま先の動きの合理的:スムーズな維持」のためには、きわめて微妙な「調整」が要ります。この「調整」がうまくゆかないと、靴底が地面を擦ってしまうのです。
この右脚と左脚のダイナミックにして微妙な動作を繰り返すのが、すなわち「歩く」という「動作」と言えばよいでしょう。

これはきわめて簡単な「動作」「仕組み」ではありますが、つま先で蹴るとき、宙に浮いた体をもう一方の足が支えるとき、その足には全体重がかかっています。しかも「速度」がついていますから、体重よりも重い荷がかかっています。
したがって、よろけずに体重を受け、効率よく全体重を後ろに蹴るには、脚の位置取りや体重の載せる方向:ベクトルの選択・・・など相当な「配慮」が必要になります。スムーズに足を出す「手順」「仕組み」を知り、実行に移す配慮・心づもり、と言えばよいかもしれません。
端的に言えば、この「体の仕組み」「動きの手順」の内で、最も「合理的な(と思われる)」「仕組み・手順」を、自ら探し出し、「身に付けること」、それが「コツ」の会得なのだと言えるでしょう。

   この「コツ」の修得状況を一人で確認するには、歩いているときの「影」の様子と靴音の確認が有効でした。
   スムーズに動いているな、と思えるときは「影」の動きもスムーズで、靴音もリズミカルなのです。
     このことが分っても、一旦マヒの生じた体で「歩く」のは簡単ではありませんでした。
     私の場合、当初は、左脚で地面を蹴る力が足りず、また、左脚に体重がかかるとき、うまく支えきれずによろけました。
     それを避けるために右脚が「奮闘しよう」としますから、右脚も疲れました。
     その原因は、マヒが生じてしばらくの間動かさなかったゆえに、脚を動かす筋力・体力が衰えたことにあったようです。
     そこで理学療法では、スクワットが奨められ、その結果でしょう、一定程度は回復しました。今でもやってます。
     傍からは、普通に歩いているように見えるようですが、本人にとっては相変らず左脚が重く十全とは言い難いのが現状です。

ここまで、「合理的」だとか「スムーズな」動きなどという表現をしてきました。
いったい、何が「合理的」で「スムーズ」なのか、その見究めは何に拠るのか。
それは、最終的には、あるいは基本的には、その見究めは、本人の「感覚」に拠るのです

動きに「違和感」がない、と感じられる、ということが、すなわち、スムーズに歩けていることの証左なのです。
そして、その「感覚」を、鋭敏にするには、自らの動作を観察し続けるしかないのです。
「感覚」で決めるなどというと、そんな非科学的な!と思われる方が、今の世では多いかもしれません。
しかしそれは、私に言わせれば、既にいろいろなところで書いてきましたが、甚だしい「誤解」なのです。



ここまでくどくどと書いてきて、この「真似ごとをすること」から「学ぶ」、ということについて、どこかで読んだような気がする、何だったろうかと、数日探しました。
ありました!
世阿弥の「至花道」の「體・用の事」の項に次のように述べられていました。
   この書は、「能の芸を継承してゆくにあたっての心得」すなわち「芸を学ぶ、会得するにあたっての心構え」を伝えるべく著されたようです。

以下に少し長いですが、転載します(岩波書店刊「日本古典文学大系、歌論集・能楽論集」より引用します)

  一、能に體・用の事を知るべし。體は花、用は匂のごとし。又は月と影(光)とのごとし。體をよくよく心得たらば、用もおのづからあるべし。      
  抑(そもそも)、能を見る事、知る者は心にて見、知らざるは目にて見る也。心にて見る所は體也。目にて見る所は用なり。
  さる程に、初心の人は、用を見て似する也。是、用の理(ことわり)を知らで似する也。用は似すべからざる理あり。
    
  能を知る者は、心にて見るゆえに、體を似する也。體をよく似する内に、用はあり。
  知らざる人は、用を為風と心得て似する程に、似すれば用が體になる事を知らず。

  是、まことの體にあらざれば、つゐには、體もなく、用もなく成りて、曲風断絶せり。かやうなるを、道もなく、筋もなき能といへり。
  ・・・・・
原書の註を参考に、拙くて恐縮ですが、現代語で読み下すと次のようになろうかと思います。

   は、「體」と「用」の二つの側面から語ることができる。
   「體」とは、能(を演じるということ)の本質、「用」とは「體」を演じようという作用により生まれる見えがかりの形を指す。
   「體」は花、「用」は、その発する匂いと譬えてもよいし、月と月の光の関係と譬えてもよい。「體」を十分に心得たならば、「用」はおのずと備わるはずである。
   を見る場合、をよく知る者は心で見るが、知らない者は、目で見るものだ。
   心で見ているのは「體」すなわち(能の本質)だが、目で見ているのは「用」すなわち見えがかりの姿・外形に過ぎない。
   能の演者として初心の人は、「用」を見て、それに似せようとしがちである。
   これは、「用」というものの性質、すなわち「用は體から生れるのだ」、という道理をわきまえていないからである。
   能をよく知る者は、本質すなわち「體」を似せようとするから、それが自ずと「用」:形となって発現される。
   ところが、能の初心者は、「用」すなわち、目の前に見ている形が真似るべき芸であると思ってしまう。
   しかし、そうすると、その本来「真似すべきでない形」が、「似非の體」になってしまい、結果として、支離滅裂の芸になってしまう。
   このような芸は、正道にはずれ、理の通らないと言うべきだろう。
   ・・・・

      
これは、たしかに、人が何かを自分のものにする、その過程についての「真実」を語っていると思います。

「心で見る」「心眼で見る」などという言い回しは、当今流行らない文言ではありますが、「現象」を発現させている「仕組み」「構造」「理」・・・を見究める、考える、と言い直せばよいのではないでしょうか

原文は、このあと、「體」と「用」を別個の二つのものと見なしてはならない、という「事実」を知ることが大事であること、そして、「用」を真似ることからスタートしても、身に付けなければならないのは「用」そのものではなく「體」である、ということを知らねばならないのだ、ということを懇々と説くのです(今回はその部分は省きますが、これは、道元の思想にも通じます。

能について世阿弥が熱心に説いている内容は、「技術」の継承を要する万般に通底する「真実」を語っている、と言うより、「学ぶ:真似ぶ」ことの真髄について語っている、と私には読めました。
   建物づくりで言えば、いわゆる「民家風の建物」をつくることをもって、「伝統工法」であると考えるなどは、まさにその「間違った理解」の例と言えるでしょう。
   そしてまた、先回引いたサン・テグジュペリの「おまえが私に示す人間が、なにを知っていようが、・・・それなら辞書と同様である」という文言にも、
   また、サリバンの‘Form follows function’という文言にも通じるところがあります。
   

私が世阿弥の書を読むようになったのは、学生時代に唐木順三氏の評論「中世の文学」を読んだのがきっかけでした。
まわりの方がたからは、お前は生まれた時代を間違えた、とよく言われたものでした。

私は黙って聞き流しましたが、内心では、今だからこそ、こういう考えかたが必要なのだ、と思っていました。
そのときの「思い」は、今になってもまったく変わっていません。むしろ、ますます強くなっているようです。


後記
あとで読み直したところ、「回帰の記」にかなり重複する内容になっていました。あしからずご了承のほど。[23日13.15追記]

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