私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

『闇の奥』は暗号文?

2006-08-23 04:30:45 | 日記・エッセイ・コラム
 コンラッド関係の文献を読み漁っていると、1960年代の始め頃からはっきりした形を取りはじめる『闇の奥』擁護論の現在までの歴史的軌跡は、私にとって、ますます興味深いものになりつつあります。
 1960年からの10年間、いわゆるシクスティーズ、は黒人の公民権運動の高まり、ベトナム戦争、ヒッピー世代の出現など、アメリカ史にとっては魔の10年ですが、国連は1960年を「アフリカ年」と宣言し、アフリカ大陸が脱植民地と独立の明るい未来に向かう希望にあふれた10年でもありました。レオポルドの私有植民地だったコンゴの地も「コンゴ共和国」として1960年独立します。1963年、黒人牧師マーチン・ルーサー・キングはアメリカの首都ワシントンで黒人公民権運動の歴史的大デモ行進の先頭に立って「I have a dream」という不朽の言葉を残します。エロイーズ・ヘイの先駆的コンラッド擁護論『コンラッドの政治的小説』が出版されたのは同じ1963年でした。コンラッド専門家や大学の英文学教師たちは、アフリカ問題をテーマにした英文学の古典『闇の奥』に対して、作者コンラッドに対して、黒人の立場から批判の声が早晩あがることを、この1960年代にすでに予感していたのだと思われます。それは、1975年、アチェベの劇的な発言で現実化するのですが、それよりも10年以上も前から本格的な『闇の奥』の弁護が始まったところに、私は強い興味を抱きます。
 『闇の奥』はベルギー国王レオポルド二世の暴虐極まりないコンゴ植民地支配を攻撃しただけではなく、英国の帝国主義を含めたヨーロッパ帝国主義を、ひいては、ヨーロッパ精神文明を鋭く批判した文学作品だと、つい最近まで、執拗に主張してきた英文学者たちは、一体、何を何に対して擁護し、弁護し、弁解しようとしたのでしょうか?『闇の奥』擁護論の軌跡を辿ってみると、問題の本質は普通の意味の文学評論の枠をはみだして、植民地主義論、帝国主義論、ポストコロニアリズムの問題領域に位置していると思われます。フーコー的な言葉使いをすれば、政治的ディスコースとしての文学作品の位置づけということになりましょうか。
 ヘイは彼女の1963年の著書『コンラッドの政治的小説』の中で、Leo Straussというドイツ人の政治哲学者の文章を引いて、奇妙なことを言い出します。シュトラウスは次のような事を書いています。ユダヤ教会の正統教義に違反する考えを抱くユダヤ人神学哲学者の中には、表面的には正統教義を奉じているように見せかけながら、実は異を唱えていることを文章の行間ににじませる人がいる。それを正しく解読出来るのは深い注意力を持った読者に限られる。シュトラウスによると、中世スペインの偉大なユダヤ人宗教哲学者マイモニデス(1135-1204)はその一例で、彼は専ら彼の暗号(ciphers)的な文章を解読(decipher)できる読者を対象にして執筆しました。ヘイはこれを踏まえて、コンラッドもそうした文筆家の一人だと言います。『闇の奥』は、語り手マーロウの人をはぐらかすような語り口や自己撞着を通じて、この作品が内に含む最も重要なメッセージを伝えようとしたコンラッドの特別な小説だ、と言うのです。具体的に言えばこうなります。「マーロウの言うことをそのままナイーブに取れば、たしかにこの小説では大英帝国の植民地経営は讃えられている。しかし、その行間を注意深く読めば、これは全面的な反帝国主義文学の古典的傑作なのだ。」
 暗号を解読出来ない読者には『闇の奥』に秘められたコンラッドの真意はわからないと言われてしまえば、これはもうお手上げです。しかし、コンラッドが賢明な読者にだけ解読出来る暗号文として『闇の奥』を書いたということであれば、「コンラッドは何故わざわざそんな手の込んだことをしたのか」と問いただし、勘ぐってみることは許されるでしょう。まず考えられるのは、ブラックウッド・マガジン(通称マガ)に掲載してもらうのが目的だったという事です。コンラッドは当時英国本土でも海外植民地でも大変ポピュラーだったマガの読者の圧倒的多数が「保守的で帝国主義者の男性」であることをよく心得ていました。コンラッドはマガの出版者あての手紙にこう書いています。「・・・The title I am thinking of is “The Heart of Darkness” but the narrative is not gloomy. The criminality of inefficiency and pure selfishness when tackling the civilizing work in Africa is a justifiable idea.・・・」おやおや、コンラッドは作中のマーロウと同じことを言っているではありませんか!出版者も騙して原稿を売り込む魂胆だったのでしょうか?次に考えられるのは、コンラッド/マーロウを、叔母さんの依頼で、雇ってくれたブリュッセルの貿易会社社長「これぞ偉大なるボスその人」(藤永30)に対する用心です。会社のやっている事をみだりに外部に漏らさないという誓約を一本取られていたのです。「秘書は、いかにも悲しげな、同情に堪えないような顔で、書類を差し出して、僕にサインをさせた。そのなかには商売上の秘密は一切他言しないという誓約があったと思う。だから、今もそれは言わないことにするがね。」(藤永31)。『闇の奥』であからさまにレオポルドやティースやデルコミューンの名前を出せば、誓約違反で訴えられる恐れがありました。実際、フランスのジャーナリストで、筆を滑らせて、ティースに訴えられ、罰金を取られた人物のことが『闇の奥』出版の少し前にニュースになったようです。しかし、コンラッドには、もっと深い配慮があったかもしれません。
 Simon Lewisは『The Violence of the Canons: A Comparison between Conrad’s “Heart of Darkness” and Schreiner’s Trooper Peter Halket of Mashonaland』という興味深い論考の中で、ほぼ同時代にアフリカの植民地問題を文学的主題としたコンラッドとシュライナーの小説を比較して、コンラッドの『闇の奥』は英文学の古典としてますます地位を上げているのに、シュライナーの『マショナランドの騎兵ピーター・ハルケット』の方はほぼ完全に忘れられてしまった理由を鋭く掘り下げています。シュライナーの方は「暗号」を使わず、セシル・ローズの英国植民地経営を、人名地名とも実名を挙げて正面から非難したが、コンラッドの方はそうしたことを一切避けたので、英米の文学的エシュタブリッシュメントに受容されたのだ、というのがルーイスの意見です。
 ちなみに、これは余談になりますが、ヘイが引用したレオ・ストラウスというユダヤ人政治哲学者は、現在ブッシュ政権を牛耳っているオルフォウィッツ、チェーニー、ラムズフェルドなどのネオ・コン指導者たちの崇拝の的になっているそうです。シュトラウスは「those who are fit to rule are those who realize there is no morality and there is only natural right, the right of the superior to rule over the inferior」と考えていたそうです。これがそのまま今のアメリカ政府とイズラエル政府の行動原理になっていると思われます。しかし、このシュトラウスの「強者は弱者を支配すべし」という考えはキプリングの「白人の重荷」という思想にも不気味に重なります。1960年代のほんの暫くの間、白人の罪の反省の意識の一つの表現となりかけていたこの言葉は、その後のアフリカの黒人独立国の惨状を前にして、再び、キプリングの原義のままで語られようとしています。「それ見たことか。白人が支配してやらなければ、黒人はやっぱり駄目だ」という考え方が英文学者の間にも力をもりかえし、居直ろうとしているのではないかと私は恐れます。

藤永 茂 (2006年8月23日)



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1 コメント

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はじめまして。 (齋藤一)
2006-08-23 16:48:35
はじめまして。

日本の茨城県にある筑波大学というところで文学研究・教育をやっております齋藤一と申します。(先日、『毎日新聞』に掲載された藤永先生の『闇の奥』紹介記事の後半で私の名前が出ておりました。)

今、先生の翻訳はもちろん、岩清水・中野・朱牟田各先生のお仕事と、ノートン版を並べて再読しながら「書評」を書くべく勉強しております。『英語青年』という雑誌に掲載される予定です。

私は、先生のお立場──私なりに理解すれば、アチュベのコンラッド批判をしっかりかみしめて「日本」の問題をも考える、ということになりましょうか──に共感する者です。だからこそ、「書評」を書くのが難しいとも感じております。

今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。
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