私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

中川喜与志著『クルド人とクルディスタン』、REDUX

2019-06-18 20:10:45 | 日記・エッセイ・コラム
 以前、この著書を取り上げたことがありました(2016年2月16日)。今また読み返して、元気をもらっています。
 PKK(クルディスタン労働者党)の党首オジャランは、1999年以来、トルコのイムラリ島刑務所の独房に、外部との接触を殆ど完全に立たれて、監禁されています。2016年9月11日に、弟との面会が許された後は、家族、弁護士、外部の医者との接触など一切が禁止されていて、その生死すら確かめる方法がない有様でしたが、今年2019年の1月12日、久しぶりに弟と会うことが許されました。オジャランは今年70歳、健康状態は良好とのことです。PKKは、トルコ政府は勿論、米国や日本なども国際テロ組織と指定する非合法政党ですが、トルコにはその人口の四分の一を占めるクルド系人民を代表する合法政党HDP(人民民主主義党)があります。このHDPに所属する女性国会議員レイラ・ギュヴェンがオジャランの自由を要求して、2018年11月8日、生命の危険を犯して抗議断食を始めたことは、今年の1月24日のブログ記事『アブドゥッラー・オジャランとレイラ・ギュヴェン』で報告しました。その後、他のHDP所属の国会議員数人もハンガーストライキを開始しましたが、今回のオジャラン兄弟の面会の実現はこの抗議運動の成果だと思われます。弟を通じてアブドゥッラー・オジャランはレイラ・ギュヴェンをはじめとする人々に感謝を表明し、断食行為の停止を促しました。去る6月12日には、オジャランは彼の弁護士とも会うことができて、弁護士を通じて、“尊敬する同志たちへ”という書き出しで、レイラ・ギュヴェンなどの人々に感謝する声明を、改めて、発表しました。
 クルド人たちの「ロジャバ革命」に人間世界の将来の夢を託する私としては、オジャラン健在のニュースは大朗報ですが、マスメディアは完全無視の立場をとっています。私はこれを大変残念なことだと思うのです。「ロジャバ革命」に対する私の思い入れは、度が過ぎていて、人々には、いささか滑稽に見えるかもしれません。けれども、現今の世界を見回してみて、人間の将来に希望を託せる事態、事象がどれだけ目にとまりますか?
 間も無く死んで行く人間は「あとはどうなってもいいじゃないか」と思うのがむしろ自然かもしれませんが、しかし、人間、不思議なものです。個人としては、私は深い悔悟の中で死を迎えようとしていますが、その一方で、人間一般に対して決定的な失望を抱いたまま死にたくないという強い気持ちが確かに疼いているのは、我ながら、驚きです。
 ジョージ・オーウェルが人間世界の明るい未来を信じて死んで行ったかどうか知りませんが、彼の名著『カタロニア讃歌』は名もなき人間たちへのオマージュ、岩波文庫の訳者の言葉を拝借すれば、「普通の人間の魅力、・・・人間の品位、人類の連帯感へ」のオマージュです。 訳書のp122から引用します:
 「労働組合に基礎をおき、それぞれほぼ同じ政治意見をもつ人びとからなる労働者民兵部隊は、国内のいちばん革命的な感情をすべて一ヶ所に集める効果をもっていた。それは、高い政治意識や資本主義にたいする不信がその逆のものより正常だとされる、西欧でただひとつの、かなりの規模の共同社会であり、ぼくがそこにとびこんだのは、大なり小なり偶然によるものだった。ここアラゴンの高地では、周りにいる数万人の人びとの、全部ではないが主要な部分が労働者階級の出身であり、すべて同じ生活水準を分けあい、平等の関係で交わりあう、理論上は完全な平等であり、実際上もそれから遠くなかった。社会主義の前触れを経験している、いいかえればそこで支配する精神的な雰囲気は社会主義のそれであるといっても過言ではなかった。そこでは文明生活の通常の動機——下に威張る俗物根性、むきだしの金銭欲、ボスを恐れる卑劣な態度など——の多くが消えてなくなっていた。ここでは農民とぼくら民兵のほかにはだれもいなかった。そしてだれも他人を主人とは認めなかった。もちろんこうした状態は長続きできない。これは、地球の全表面で行われている巨大なゲームの、一時的な地方的な局面に過ぎないのだ。だがそれは、これを経験したものには、影響を与えずにおかないほど長く続いた。当時どれほど悪態をついたにしても、あとになってみれば、自分の接触したものが貴重なものであったことがわかるのだ。その共同社会では、無関心やシニシズムよりも希望が当たりまえであり、「同志」という言葉は同志愛をあらわして、多くの国でのようにごまかしを意味するものではなかった。」(引用終わり)
 ここで、ジョージ・オーウェルは、こうした同志愛が成立している共同社会は一時的なものだとしています。フランツ・ファノンは著書『地に呪われたる者』の中で(だったと思います)、アフリアの農民反乱で負傷して路傍に倒れていた見ず知らずの民兵に、一人の農民が自分の大切なロバを与えてしまう話を書いていますが、これに対してハンナ・アーレントは、そんな「同志愛」は一時的なもので長続きしないと冷笑的に述べています。オーウェルも「一時的」とする、こうした人間の共同社会は長く持続することができないものなのでしょうか?
 この設問に対する一つの答えが「ロジャバ革命」によって、遡れば、PKKの闘争の歴史によって与えられています。私は、以前(2016年2月16日付け)に、中川喜与志著『クルド人とクルディスタン』から、オジャランの日米関係についての鋭い見解を紹介しましたが、

https://blog.goo.ne.jp/goo1818sigeru/e/b242c45abac3b58cfdf42b2ecc0cae2d

その終章第10章の50ページにわたるオジャランのインタビューの記事の中から、人間の共同社会に関する、オジャランの重要な発言の一部をコピーさせて頂きます:
********************
● 自己を認識し、民衆を認識し、人間性を認識する
中川  PKKに女性ゲリラの数が多いのに驚いている。それは、この地域のゲリラ組織としては非常に特異なことではないか、と思うのだが・・・。
オジャラン そうだ、中東では初めての現象だ。
中川  PKKは意識的に女性ゲリラの組織化に取り組んだのか?
オジャラン そうだ。これは本当に興味深い展開だ。中東には他にこのような組織は存在しない。中東においては女性というのは家内奴隷のような存在だ。想像するのだが、日本においてさえも、未だに封建社会の原理が残存しているのではないか。
 今、我々の下で萌芽している民主主義は非常に進んだ民主主義だ。平等主義がかなりの程度まで実現されている。イスマエル・ベシクチも言っているように、クルド人たちは植民地化された民族、全滅の過程にさらされていた民族であったが、そこから今の状態を造り出した。これは「奇跡」である。最も進んだ社会主義、民主主義、非常に生き生きとした暮らし。ここ(軍事キャンプ)には誰にも私生活は存在しない。しかし非常に生き生きとした生活がある。
 我々には極めて残忍な敵が存在する。しかし、この敵に対して、ひとかけらの恐怖も我々は持っていない。まったく情熱に満ちている。これは非常に重要な条件だ。我々がこういう条件を造りだせたというのも、我々は社会主義を、独自な形で、非常に創造的な形でとりいれている。また我々は、民主主義の問題に非常に敏感だ。平等、自由というテーマに特に注意している。我々は、本当の意味で、一人ひとりの人間を創造しているのだ。
 私が努力していることは、一人ひとりの人間が自分のアイデンティティを認識すること、民衆を認識すること、人間性を認識すること、もっとも進んだレベルに立つことだ。抑圧的、利用主義的な傾向(組織の傾向?)を完全に克服しようとしている。すべての関係は良心に基づいている。や強制や抑圧は存在しない。完全に自分の信念と自由意志によって行動に参加する、強制的な参加はない。我々は完全な自由意志を引き出している。新しい生き方のテーゼを提示しているのだ。大きな信頼と強い信念に基づいた可能性、生き方を確信させている。これらすべてがPKKを成立させている。
 このことから人々の共感を得ているのである。これは歴史上初めての現象だ。中東において、クルド人の間で、初めてこのようなことが起こった。皆がこの生き方を熱望している。女性たちでさえこの生き方にすべてを賭けようとしている。若者たちは、この生き方を幸せだ、と感じている。かつての生き方よりずっといい、と考えている。(引用終わり)
********************
 中川喜与志氏がレバノンのベッカー高原にあったPKKの実質的本部に行って、2時間にわたってオジャランの肉声を記録したのは、1991年6月16日のことでした。それから既に30年近い時が流れています。その間、多くの苦難がクルド人たちを襲いました。1984年にトルコの理不尽な圧制に対してゲリラ闘争を開始したPKKの党首オジャランは1998年逮捕され、死刑の判決を受けてイムラリ島の独房に監禁されますが、NATO加盟の条件として要求された死刑廃止をトルコが受諾したので、オジャランの刑は無期懲役に減刑され、独房監禁は今も続いています。しかし、イラク領内カンディール山地に拠点を持つPKKはトルコに対する武力闘争を熾烈に継続し、また、オジャランが始めた人間革命の実現を目指す「ロジャバ革命」が力強く推進されています。私が窺い知る限りにおいて、新しい生き方を求める「同志」たちの造る共同社会の結束は、決して一時的な現象として消えてしまうことなく続いています。ハンナ・アーレントは間違っていたのです。
 ロジャバ(西クルディスタン、シリア北東部)のクルド人たちは、現在、錯綜した中東情勢の中で、米国の傭兵軍の役を強いられて厳しい苦衷の中にありますが、ロジャバ革命の魂を堅持しています。彼らは、決して、米国の飼い犬に成り果ててはいません。私は、そこに、未来への希望を繋ぎます。

藤永茂(2019年6月18日)
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取り急ぎ。ファンレターのかわりに。 (眠る葦)
2019-06-23 13:37:00

 中川喜与志著『クルド人とクルディスタン』(南方新社、2001年)の新品同様本がありましたので、アマゾン経由なのを我慢して注文しました。たのしみにしています。

 じつは昨晩から「田中宇の国際ニュース解説」のクルド関連の記事を1999年03月から2017年までのものを8つ見まして、いわゆる地政学の目オンリーの見方にひどく首をひねっていました。
 ところが思い立って、いやな思いをするだろう思いつつ念のためにと、Wikipediaの「ロジャヴァ革命」を覗いてみて、とりわけ最後の部分のロジャヴァの政治経済思想のついての叙述におおきく目を瞠りました。藤永先生がロジャヴァの存在に希望を託されるお気持ちを窺い知ることができました。

 ちなみに、30歳代をほとんど米国西海岸の工場でさまざまな米国人と一緒に働いてすごした私にとって、『アメリカン・ドリームという悪夢』(三交社、2010年)は衝撃でした。そのうちに消化することができると思います。
 ただし『アメリカ・インディアン悲史』(朝日選書、1974年)はつらくてページを開くことができません。工場のエラいさんの秘書だった、とても綺麗な、ファーストネームが先住民名だった女性を思い出します。美しい声でいつも、歌っていました。

 藤永先生こそ、僭越ですけれど、私の希望です。どうかますますお元気で。
原点 (私は黙らない)
2019-06-28 03:39:30
私もロジャバ革命のWikiを覗いてみました。
先生のロジャバ革命に対する思い、そういうことだったのかと気が付きました。
逝ってしまったアメリカインディアン社会、リーダー、所有といった観念がない非常に民主的な社会だった。先生のロジャバ革命に対する思いは、海を越えてやってきた侵略者に蹂躙され、このこの世から消し去られてしまったインディアン社会への思い、人間の幸せとは何かといった問が原点なのではないかと思いました。
小さな希望の光、見守りたい。
国家の否定 (私は黙らない)
2019-06-28 03:51:14
もう一言。
ロジャバ革命は、国民国家を否定し、国家政府とい言葉も意図的に避けている。
これは面白いと思いました。
国家がどうしても暴力的側面をもつ存在である以上、紛争、戦争は避けられない、国家が国家である以上、好き嫌いにかかわらず、その暴力的側面は変わらないと思うので。
くに(邦)と国家、防衛隊と軍隊。 (眠る葦)
2019-06-30 14:28:05

 ユーチューブでレヴォリューショナリー・ロジャヴァと検索して出てくるままに見ていましたら、いつのまにかクルド女性防衛部隊のシリーズとなり、隊員のインタビューを字幕をたよりに見て驚愕しました。
 少し頑なな少女のようにはにかんだ雰囲気の20歳の新人は、ISの暴虐的支配からクルドの人々と暮らしを守るために武器を取って戦うことを決意したと答え、彼女の銃は彼女の誇りであり、尊厳(ディグニティ)であること、戦いによる死は怖れていないことをつぶやくように話しました。
 もう少し年かさの深い目をしたリーダーは、女性を奴隷扱いするISに対してジェンダーとしての女性全体のために戦っている、という明晰な言葉とともに白い歯の精悍な微笑を見せました。

 そうです。そこに国家は存在しませんでした。
 ロジャヴァの運営コンセプトであるデモクラティック・コンフェデラリズムは、日本語版ウィキペディアでは、民主的連邦主義と和訳されています。国ではなく、邦というのがミソなのでしょうか。国家ではなく「くに」なのだと。

 ウィキペディアで見ることにアジをしめましたので、今度は国民国家というのを見てみました。読み囓りをはしょって言いますとネーションはひとのことで、ステートは、物扱いされる奴隷を含めて、モノのことなのだそうです。なるほど、かなり無理やりなハイブリッド言葉であると思えました。

 そういえばアダム・スミスの『国富論』の原題であるウェルス・オブ・ネーションズは『民富論』なのだと妙に納得しました。
 そのいわゆる国富論は、一生マザコンだったアダム・スミスおじさんの本職の倫理学の主著の各論として書かれたらしく、通読しますと貧しい労働者に対する同情共感と金持ちの資本家に対する嘲笑蔑視がちりばめられているのです。あの有名な見えざる手の話はこの文脈で語られていて腰を抜かしました。

 ということで、おっしゃるとおり国民国家というのは、家父長制的権力組織としての文字どおり国家によって、人びとを統制し産業生産と対外侵略戦争に動員する、つまり産業奴隷と軍事奴隷にする支配システムなのだろうと気がつきました。
 近代化による国民国家の形成は、近代以前の貴族騎士による個人戦闘を国民皆兵軍による組織戦闘に変えたと。

 そこで、先日見ました2007年2月9日付けの田中宇氏による記事「クルドの独立、トルコの変身」における、日本の国民国家化をもたらした伊藤博文ら長州勢力による明治維新への言及の前後を思い出しました。
 ちなみに田中宇氏は国際地政学のエキスパートで国家の派遣闘争という目で徹底終始していますから、ロジャヴァのデモクラティック・コンフェデラリズムへの志向はまったく眼中に入らないだろうと思えます。

 同記事から抜粋引用します。
 
 「クルド人の最終目標はイラクから分離独立して自分たちの国『クルディスタン』を創設することである。・・・トルコ共和国は第一次世界大戦でオスマン・トルコ帝国がイギリスを中心とする連合軍に敗北し1920年のセーブル条約でオスマン帝国が分割された後の跡地に作られている。セーブル条約では、今のトルコの東側の4分の1と、今のイラクの北側3分の1を合わせた形で、クルド人の国が作られることになっていた。このまま事態が進んでいたらクルド人国家は1920年代に建国され、トルコは今よりかなり小さい国になっていた」

 「・・・青年将校だったケマル・アタチュルクのトルコ再建運動はイギリスの気持ちを変えた。・・・トルコがある程度強い国、しかもイギリスの言うことを聞いてくれる国になってくれるのなら、北のロシアを威嚇したり地政学的にイギリスとトルコで西欧をはさんで圧力を加えられるなど使い道はいろいろあった。アタチュルクのトルコに対するイギリスの戦略は、江戸末期の日本に対しユーラシア大陸を西と東からはさんで包囲する勢力として注目し、伊藤博文らと密約して明治維新を起こさせ富国強兵を技術支援して日本を強くして東アジアにおけるイギリスの傀儡的な友好国に仕立てたのと同じ戦略である。だからアタチュルクは親英傀儡国の先輩だった日本に対し、異様に強い関心を持っていた」

 「アタチュルクはイギリスに対しトルコを親英的な近代国家にすることを約束した。セーブル条約は3年後に破棄され、ローザンヌ条約が関係諸国間で締結された。トルコはクルド人地域とフランス領シリアから土地をもらって旧条約より3割増しの広さになった。クルド人国家の姿は影も形もなくなった。クルド人は独立国家を持つという甘い夢が忘れられず、その後80年間トルコやイラクなどで蜂起やゲリラやテロを繰り返した。そしてクルド人は中東を不安定化させて支配する米英やイスラエルの戦略の道具として使われ続けた」

 「北イラクにクルド国家が創設されクルド独立がトルコにも波及するとしたら、それはトルコがアタチュルク以前、オスマン帝国滅亡後の絶望的な状態に戻ってしまうことを意味する。アタチュルクはトルコでは絶対的な英雄である。トルコ人はアタチュルクの偉業を無にすることになるクルドの独立を許すわけにはいかない」

 というのが、国家というオペレーティング・システム’sを単位とした田中宇氏式の地政学的クルド論です。
 またアングル・サクソンかぁ・・・と思う引用で長くなりましたので思考をはしょって飛躍しますと、注目すべきはISから、今はエルドアン・トルコから、希望の地ロジャヴァを守るクルド女性防衛部隊であると思います。

 彼女たちが戦っているのは、ISそしてトルコの、侵略国家イズムに変身した男権原理、そして明敏きわまりない田中宇氏にはわるいですが、国家にせよ資本にせよ男権的覇権の争闘で世界を形成する三国志演義史観、そして強者を祀り上げ担ぎまわる男女を問わず尊厳なき存在の雲霞です。
 ロジャヴァからいろいろな意味でとおく離れたところで、ロジャヴァからの光と重力波にくみすることができるのではないかという気がします。
オジャランとデヴィッド・グレーバー ( 眠る葦 )
2019-07-15 10:30:41

 中川喜与志『クルド人とクルディスタン』(南方新社、2001年)は、付せられた「クルド学序説」というサブタイトルどおり中東研究者に対するクルド研究への挑発なのであろうと思いました。
 この序説を受けての本論はおそらく、国家論政治学と社会経済論における極めてユニークで創意的な、かつそれゆえに普遍性を持つ考察への挑戦となるような気がします。
 そのような強烈なインパクトをロジャヴァとオジャランが持っていると直感します。

 書中のオジャランへの果敢なインタビューは当然ながら彼をトルコ民族国粋主義権力国家が先達のクルド人指導者たちとおなじように絞首するために捕縛する以前におこなわれたものです。
 マレイ・ブクチンの著書によって触発されて、独立民族国家のアイディアをアウフヘーベンしてデモクラティック・コンフェデラリズムにいたる前の時点のものですから、手に負える課題ではないと思いつつ、『The Political Thought of Abdullah Ocalan』(Pluto Press, 2017)を手に入れました。
 いまの日本では聞くだにウンザリする現実としてのフィクションである代議制民主主義ではない、誰かが誰かを支配するシステムではない、デモクラティックな社会のありようについて学ぶことができると思います。

 また並行して、デモクラティックな社会の経済的インフラストラクチャーを学び考えるために、先日見てアジを占めたウィキペディアの「Cooperative economy」の記述にURLが付された参照記事を読み解くことをこころみます。

 ここしばらくのあいだ相当の時日をかけてデヴィッド・グレーバーの『負債論/貨幣と暴力の5000年』(以文社、2016年)を夢中になって読んでいます。
 デヴィッド・グレーバーの名を知ったのは雑誌『世界』の2019年02月号の記事「<黄色いベスト>運動/私たちの足もとで地面は大きく動いている」の筆者としてです。

 あらためてこの記事を読み返していたところ、「戯画化されてきた水平的構造」と題された章に
 「たしかに、こうした構造は、エキゾティックなものに思われたのだろう。それはアナキズムの伝統のみならず、ラディカル・フェミニズムからも、さらには先住民の精神性(スピリチュアリティ)のある種の形態からも、大いに着想を得ていたのだから」
 とあるのに、ハテ?!と思いまして、読みすすみますと;

 「ところが、今や明らかなのは、この構造こそが、ボスニアから香港とクルディスタンを経てチリに至るまで世界の至るところで、民主的組織化の試みが初期設定(デフォルト)で採用するものとなっているということだ。何らかの大衆的な民主的運動が発生するや、今や人びとは、それがこのような形態を取るものと期待する。・・・『黄色いベスト』のような運動が、自ずとこのモデルのヴァリエーションを採用するに至った事実を見るなら、それが今日、民主主義の本性そのものについての新しい常識になっていることがはっきりとわかる」

 ・・・と、あります。
 クルディスタンが牽かれていたことにさすがであると瞠目して、これがまさか日本において・・・いや、起こりうる、国家を握る勢力の支配のための走狗インフラストラクチャーと完全に化したマス・メディアが描く唯一の世界とは異なるところで起きているのではないか、クルディスタンが脚を置く普遍性が存在するはずだ、と思います。

 机上に積んだ本のいちばん上に置いてある『The Political Thought of Abdullah Ocalan』をなにげなく見ていましたところ、なんと!デヴィッド・グレーバーによるオジャランへの讃辞が裏表紙のトップにあることに気がつきました。

 あわてて見てみますと、2014年10月8日の『The Guardian』にデヴィッド・グレーバーによる「Why is the world ignoring the revolutionary Kurds in Syria?」という記事がありました。読者コメントが482件ついています。

 それに、「REVOLUTION IN ROJAVA: DEMOCRATIC AUTONOMY AND WOMEN'S LIBERATION IN THE SYRIAN KURDISTAN」(Pluto Press, 2016)という本に、デヴィッド・グレーバーが Forward を寄せていること、それどころか2017年に実際にロジャヴァを訪ねて現地のメディアのインタビューを受けていることを知りました。
https://mesopotamia.coop/david-graeber-syria-anarchism-and-visiting-rojava/

 そして、2018年2月23日の『The Guardian』に「Why are world leaders backing this brutal attack against Kurdish Afrin?」という怒りの寄稿をしています。288件の読者コメントがついています。
 冷血な鳥瞰主義者、田中宇氏であれば、アフリンのクルドとミャンマーのロンヒギャを比べて、いわゆる国際社会とやらへのアピール演出力と、英米&ユーラシア大陸列強にとっての利用価値の相違を論じるのであろうと苦い唾を飲み瞑目しました。

 トルコ民族国粋主義者を看板として、田中宇氏の世界の主役である覇者たちの国際社会をわたり歩く独裁者エルドアンの狡猾さを呪いながら、藤永先生 → ロジャヴァ/オジャラン ← デヴィッド・グレーバーという結びつきに普遍的なものを感じています。マレイ・ブクチンは、まだ・・・
             

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