マウ・マウの反乱というのは俗称で、英国の公式筋は「ケニヤ非常事態(Kenya Emergency)」と呼び、反乱とか蜂起という表現は一切使いませんでした。ケニヤ植民地の非常事態宣言は1952年10月に行われ、1960年1月にやっと終了宣言、騒乱は実に7年間以上も続きました。白人の黒人圧政の手先になって甘い汁を吸っていた一人の黒人首長(ワルヒウ)がマウ・マウ運動参加者の手にかかって殺された直後に、非常事態の宣言がなされたのは事実ですが、黒人のさらなる原始的残虐行為の広がりを防止すべく、やむなく白人側が反応したと想像するのは誤りで、黒人たちの土地分配の改革要求と民族独立の動きを押さえ込もうとして、支配者側が仕掛けた先制攻撃の性格が強かったと考える方が正しいのです。前回のブログに掲げた三冊の本にはそれがはっきり示されています。
人々をその生活基盤の土地から追い出して困らせ、その人々を奴隷的に使役することは、トマス・ムーアの古典『ユートピア』にいみじくも述べられているように、英国支配層の昔からの伝統でした。カレン・ブリクセンの広大な所有地の周辺に不法住居者的に住み着き、彼女のお情けの対象になった黒人たちも同じことでした。“The White Highlands” と呼ばれるケニヤ中南部にひろがる高地地帯で白人に圧迫されて、ナイロビなどの都会に流れ込み、そこで貧困層を形成する黒人労働者の数も大きく膨らんで行きました。こうして、キクユ族をはじめとする原住民一般の生活状況は悪化の一路をたどったのですが、更に悪いことに、白人側は昔からの部族長などを優遇することで、彼等を味方につけ、黒人社会内に分裂を生じさせる政策を取ったので、マウ・マウの騒乱はやがて黒人間で骨肉相食む様相を呈することになり、それは遠く現代ただ今のケニヤの危機にまで尾を引くことになります。
このあたりで、ケニヤ建国の歴史上で最も重要な人物ジョモ・ケニヤッタ(1894?-1978)に登場してもらいましょう。キクユ族に属する部族の出身者ケニヤッタはキリスト教ミッションスクールで教育を受け、やがて有名なロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学び、16年間英国で生活した後、1946年、ケニヤに戻ってKAU(Kenya African Union、ケニヤ・アフリカ同盟)という政治団体の形成に参加し、その指導者として大衆動員力も目覚ましく、そのカリスマ的人気を高めて行き、危険人物視されて白人側から死の脅迫状を受け取るようになります。英国で高等教育を受けたケニヤッタは西欧化の方向で祖国ケニヤの将来を構想し、マウ・マウに象徴されるキクユの過激な民族自治主義者たちの動向とは始めから一線を画していたのですが、白人側はKAU とマウ・マウを一緒に引き括って、1952年10月20日の非常事態宣言の直後、ケニヤッタを含む有力な黒人指導者数人を逮捕拘束しました。先手を打って、過去の長い間抑圧されてきた黒人たちの怒りが白人排斥と民族独立の運動へと高まる芽を摘み取ろうとしたのでした。1960年6月末に新しく独立したコンゴ共和国の新首相ルムンバは半年後にはアメリカの意向に従って暗殺されたことが思い出されます。ケニヤッタの影響の封じ込めは英国の偽善性を示すお手本のような形で実行されました。その裁判は、ケニヤッタに不利な証言をする証人には報償が提供され、賄賂を受け取った英国のベテラン裁判官が、開廷以前に、ケニヤッタ有罪の判決を植民地司政官に約束するという怪しからぬものでしたが、表向きは立派に法的手続きを踏む体裁が整えられ、その一方で、ナイロビ空港には英本国から新鋭の数百人の部隊が到着し、一気に軍事的制圧の挙に出ました。先手を打たれたマウ・マウの武装勢力は対決を避けて森林地帯にまずは隠れ、ゲリラ闘争体制の本格的整備に取りかかります。マウ・マウ側が槍や刀を持った裸の野蛮黒人集団だと想像するのは間違いで、森の中のゲリラ戦力のコアは、第二次大戦で英国軍に編入され、アフリカ内のみならず、ヨーロッパや東南アジアにも転戦した元兵士たちで,銃火器の使用も身に付け、その数も万を越えるものでした。
ケニヤッタを含む6人のキクユ指導者たちの裁判の最初の休廷期間が始まった1953年1月24日の夜、若い白人農園主夫婦と6歳の男の子の一家が、それまで従順忠実に仕えていた召使いたちによって、滅多切りされるショッキングな惨殺事件が突発しました。翌日ケニヤ内外の新聞が6歳児の無残な死体の写真を一斉に掲載したことにも煽られて、千五百人をこえる白人居住者がナイロビの植民地政庁に押しかけ、マウ・マウの即時皆殺しを要求し、それに応えてマウ・マウのゲリラ勢力に対する激しく容赦のない攻撃作戦が実行されました。攻撃軍側は、英国の白人正規軍に加えて、ウガンダなどの隣国から集めた黒人傭兵とケニヤ内の黒人で白人側についた方が得と考えたケニヤ内の黒人たち(ロイヤリスト)から成っていました。白人側とマウ・マウ・ゲリラとの軍事力の差は余りにも大きく、軍事抗争としては、翌1954年の末頃には勝敗の大勢は決し、1956年10月にマウ・マウの指導者キマシの逮捕で終焉しました。しかし、上述の通り、ケニヤの非常事態の終了が宣言されたのは1960年1月になってのことでした。この5年余りの間にケニヤの在住白人と英国政府が戦闘能力のないケニヤの原住民老若男女に加えた残虐行為は恐るべきものでしたが、それが意図的に隠蔽され、ケニヤの黒人以外の世界の人々(我々を含めて)の記憶には、その昔、ケニヤにマウ・マウ団という原始的な残忍さで多数の白人の命を奪った黒人の秘密結社があったという形で残っているわけです。
マウ・マウ騒乱関係の死者数の統計を見てみましょう。非常事態の期間中にマウ・マウ側は英国側の兵士と警官約2百名、英国側に付いた一般の黒人約2千名を殺し、これに対してマウ・マウの戦死者は2万人以上、これに加えて、1091人が英国当局によって集団的に絞首刑に処せられ、15万人以上が強制収容所の中に拘束されてその数万人が死んだと考えられます。収容所内の生活環境はひどいもので、囲み込まれた黒人たちは言うことを聞かない家畜のように鞭打たれ、傷害と疾病と飢餓で死んで行きました。一方、8年にわたるマウ・マウ騒乱中に殺害された白人居住者は僅か32人、これは同じ期間にナイロビ地区で交通事故死した白人より少ない数でした。マウ・マウが未開人らしいむごたらしさで多数の白人を殺め続けたという印象は演出された印象であったのです。
この誤った歴史記憶が発生した第一の理由は当局の事実隠蔽とプロパガンダにありますが、マウ・マウ側が白人の圧政に反逆する集団としての団結を固めるため、運動参加者には山羊や人間の血による血盟誓約の秘儀が課せられ,その意味でマウ・マウは秘密結社の性格を持っていたことが、白人たちに恐怖心を与えたこともその大きな理由になりした。黒人の誰がマウ・マウであるかを知るために、きびしい拷問が使われるようになったのは、日本の隠れキリシタンの場合と同じでした。
しかし、キリシタン弾圧とマウ・マウ弾圧との間には一つ決定的な違いがあります。殺す側が殺される側を人間以下(untermenschen, sub-human creature)と看做すか看做さないかという点です。植民地ケニヤの最高官僚たちは、入植白人がキクユ族の所有していた上等の土地のすべてを取り上げてしまった事にマウ・マウ騒乱のそもそもの原因があることを認めようとせず、マウ・マウ現象は一種の原始的精神病であり、その血盟誓約は“had such a tremendous effect on the Kikuyu mind as to turn quite intelligent young Africans into entirely different human beings, into sub-human creatures without hope and with death as their only deliverance”などと、英国議会下院に報告しています。[deliverance] は「救済」。こうなれば,人間以下の生き物を殺すのに何の躊躇もいりません。この至極都合の良い思考転換もまた英国人(アングロサクソン)の一貫した歴史的伝統です。当時のケニヤの白人の間で“The only good Kuke is a dead Kuke”「良いキューク(キクユ人)は死んだ奴だけ」という言葉がしきりと聞かれました。マウ・マウ騒乱の90年ほど前、アメリカ西部の大平原で先住民インディアンを容赦なく殲滅していたシェリダン将軍が“The only good Indian is a dead Indian”と言い放った話は有名で、ケニヤの白人たちがこの言葉の真似をしたのは明らかです。マウ・マウ騒乱から僅か数年後にアメリカ軍はベトナムでベトナム人を虫けら同様に殺戮し始めます。そこでは“The only good gook is a dead gook”という言葉が語られました。[gook] とはベトナム人を意味します。
前回で紹介したエルキンスさんの本の第3章のタイトルは“Screening”です。この英語は、ケニヤ非常事態下のキクユ族の人たちに襲いかかった苦難を指す象徴的な単語で、原住民たちは今も原語を強いアクセントで使い、彼等の言葉には決して翻訳しなかったといいます。「スクリーンする」とは、マウ・マウ団員と疑われる黒人からマウ・マウ殲滅のために有用な情報を得るために行う尋問とそれにともなう拷問を意味しました。血盟誓約をした人たちにそれを白状させるのは大変でしたから、血盟誓約をしていない、つまり、マウ・マウ運動に参加していない人々もひどい拷問の対象になりました。老人や子供にもそれは及んだのです。ケニヤの「スクリーニング」の残酷非道さは直ちにイラクのアルグレイブ刑務所で行われた目を背けたくなる拷問につながります。マウ・マウ容疑者(それは莫大な数にのぼりました)の受難は上掲の著書に詳しく記述されています。気分が悪くなるようなむごたらしさなので、ただその一個所だけを英文で引いておきます。:
■ According to a number of the former detainees I interviewed, electric shock was widely used, as well as cigarettes and fire. Bottles (often broken), gun barrels, knives, snakes, vermin, and hot eggs were thrust up men’s rectums and women’s vaginas. The screening teams whipped, shot, burned, and mutilated Mau Mau suspects, ostensibly to gather intelligence for military operations, and as court evidence. ■
これは地獄です。苦しんだ人々の数でいえば、これはアルグレイブの千倍万倍の地獄です。よくもまあ、この地獄の記憶をうまくもみ消し、現在に及んだものです。
藤永 茂 (2008年2月6日)
人々をその生活基盤の土地から追い出して困らせ、その人々を奴隷的に使役することは、トマス・ムーアの古典『ユートピア』にいみじくも述べられているように、英国支配層の昔からの伝統でした。カレン・ブリクセンの広大な所有地の周辺に不法住居者的に住み着き、彼女のお情けの対象になった黒人たちも同じことでした。“The White Highlands” と呼ばれるケニヤ中南部にひろがる高地地帯で白人に圧迫されて、ナイロビなどの都会に流れ込み、そこで貧困層を形成する黒人労働者の数も大きく膨らんで行きました。こうして、キクユ族をはじめとする原住民一般の生活状況は悪化の一路をたどったのですが、更に悪いことに、白人側は昔からの部族長などを優遇することで、彼等を味方につけ、黒人社会内に分裂を生じさせる政策を取ったので、マウ・マウの騒乱はやがて黒人間で骨肉相食む様相を呈することになり、それは遠く現代ただ今のケニヤの危機にまで尾を引くことになります。
このあたりで、ケニヤ建国の歴史上で最も重要な人物ジョモ・ケニヤッタ(1894?-1978)に登場してもらいましょう。キクユ族に属する部族の出身者ケニヤッタはキリスト教ミッションスクールで教育を受け、やがて有名なロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学び、16年間英国で生活した後、1946年、ケニヤに戻ってKAU(Kenya African Union、ケニヤ・アフリカ同盟)という政治団体の形成に参加し、その指導者として大衆動員力も目覚ましく、そのカリスマ的人気を高めて行き、危険人物視されて白人側から死の脅迫状を受け取るようになります。英国で高等教育を受けたケニヤッタは西欧化の方向で祖国ケニヤの将来を構想し、マウ・マウに象徴されるキクユの過激な民族自治主義者たちの動向とは始めから一線を画していたのですが、白人側はKAU とマウ・マウを一緒に引き括って、1952年10月20日の非常事態宣言の直後、ケニヤッタを含む有力な黒人指導者数人を逮捕拘束しました。先手を打って、過去の長い間抑圧されてきた黒人たちの怒りが白人排斥と民族独立の運動へと高まる芽を摘み取ろうとしたのでした。1960年6月末に新しく独立したコンゴ共和国の新首相ルムンバは半年後にはアメリカの意向に従って暗殺されたことが思い出されます。ケニヤッタの影響の封じ込めは英国の偽善性を示すお手本のような形で実行されました。その裁判は、ケニヤッタに不利な証言をする証人には報償が提供され、賄賂を受け取った英国のベテラン裁判官が、開廷以前に、ケニヤッタ有罪の判決を植民地司政官に約束するという怪しからぬものでしたが、表向きは立派に法的手続きを踏む体裁が整えられ、その一方で、ナイロビ空港には英本国から新鋭の数百人の部隊が到着し、一気に軍事的制圧の挙に出ました。先手を打たれたマウ・マウの武装勢力は対決を避けて森林地帯にまずは隠れ、ゲリラ闘争体制の本格的整備に取りかかります。マウ・マウ側が槍や刀を持った裸の野蛮黒人集団だと想像するのは間違いで、森の中のゲリラ戦力のコアは、第二次大戦で英国軍に編入され、アフリカ内のみならず、ヨーロッパや東南アジアにも転戦した元兵士たちで,銃火器の使用も身に付け、その数も万を越えるものでした。
ケニヤッタを含む6人のキクユ指導者たちの裁判の最初の休廷期間が始まった1953年1月24日の夜、若い白人農園主夫婦と6歳の男の子の一家が、それまで従順忠実に仕えていた召使いたちによって、滅多切りされるショッキングな惨殺事件が突発しました。翌日ケニヤ内外の新聞が6歳児の無残な死体の写真を一斉に掲載したことにも煽られて、千五百人をこえる白人居住者がナイロビの植民地政庁に押しかけ、マウ・マウの即時皆殺しを要求し、それに応えてマウ・マウのゲリラ勢力に対する激しく容赦のない攻撃作戦が実行されました。攻撃軍側は、英国の白人正規軍に加えて、ウガンダなどの隣国から集めた黒人傭兵とケニヤ内の黒人で白人側についた方が得と考えたケニヤ内の黒人たち(ロイヤリスト)から成っていました。白人側とマウ・マウ・ゲリラとの軍事力の差は余りにも大きく、軍事抗争としては、翌1954年の末頃には勝敗の大勢は決し、1956年10月にマウ・マウの指導者キマシの逮捕で終焉しました。しかし、上述の通り、ケニヤの非常事態の終了が宣言されたのは1960年1月になってのことでした。この5年余りの間にケニヤの在住白人と英国政府が戦闘能力のないケニヤの原住民老若男女に加えた残虐行為は恐るべきものでしたが、それが意図的に隠蔽され、ケニヤの黒人以外の世界の人々(我々を含めて)の記憶には、その昔、ケニヤにマウ・マウ団という原始的な残忍さで多数の白人の命を奪った黒人の秘密結社があったという形で残っているわけです。
マウ・マウ騒乱関係の死者数の統計を見てみましょう。非常事態の期間中にマウ・マウ側は英国側の兵士と警官約2百名、英国側に付いた一般の黒人約2千名を殺し、これに対してマウ・マウの戦死者は2万人以上、これに加えて、1091人が英国当局によって集団的に絞首刑に処せられ、15万人以上が強制収容所の中に拘束されてその数万人が死んだと考えられます。収容所内の生活環境はひどいもので、囲み込まれた黒人たちは言うことを聞かない家畜のように鞭打たれ、傷害と疾病と飢餓で死んで行きました。一方、8年にわたるマウ・マウ騒乱中に殺害された白人居住者は僅か32人、これは同じ期間にナイロビ地区で交通事故死した白人より少ない数でした。マウ・マウが未開人らしいむごたらしさで多数の白人を殺め続けたという印象は演出された印象であったのです。
この誤った歴史記憶が発生した第一の理由は当局の事実隠蔽とプロパガンダにありますが、マウ・マウ側が白人の圧政に反逆する集団としての団結を固めるため、運動参加者には山羊や人間の血による血盟誓約の秘儀が課せられ,その意味でマウ・マウは秘密結社の性格を持っていたことが、白人たちに恐怖心を与えたこともその大きな理由になりした。黒人の誰がマウ・マウであるかを知るために、きびしい拷問が使われるようになったのは、日本の隠れキリシタンの場合と同じでした。
しかし、キリシタン弾圧とマウ・マウ弾圧との間には一つ決定的な違いがあります。殺す側が殺される側を人間以下(untermenschen, sub-human creature)と看做すか看做さないかという点です。植民地ケニヤの最高官僚たちは、入植白人がキクユ族の所有していた上等の土地のすべてを取り上げてしまった事にマウ・マウ騒乱のそもそもの原因があることを認めようとせず、マウ・マウ現象は一種の原始的精神病であり、その血盟誓約は“had such a tremendous effect on the Kikuyu mind as to turn quite intelligent young Africans into entirely different human beings, into sub-human creatures without hope and with death as their only deliverance”などと、英国議会下院に報告しています。[deliverance] は「救済」。こうなれば,人間以下の生き物を殺すのに何の躊躇もいりません。この至極都合の良い思考転換もまた英国人(アングロサクソン)の一貫した歴史的伝統です。当時のケニヤの白人の間で“The only good Kuke is a dead Kuke”「良いキューク(キクユ人)は死んだ奴だけ」という言葉がしきりと聞かれました。マウ・マウ騒乱の90年ほど前、アメリカ西部の大平原で先住民インディアンを容赦なく殲滅していたシェリダン将軍が“The only good Indian is a dead Indian”と言い放った話は有名で、ケニヤの白人たちがこの言葉の真似をしたのは明らかです。マウ・マウ騒乱から僅か数年後にアメリカ軍はベトナムでベトナム人を虫けら同様に殺戮し始めます。そこでは“The only good gook is a dead gook”という言葉が語られました。[gook] とはベトナム人を意味します。
前回で紹介したエルキンスさんの本の第3章のタイトルは“Screening”です。この英語は、ケニヤ非常事態下のキクユ族の人たちに襲いかかった苦難を指す象徴的な単語で、原住民たちは今も原語を強いアクセントで使い、彼等の言葉には決して翻訳しなかったといいます。「スクリーンする」とは、マウ・マウ団員と疑われる黒人からマウ・マウ殲滅のために有用な情報を得るために行う尋問とそれにともなう拷問を意味しました。血盟誓約をした人たちにそれを白状させるのは大変でしたから、血盟誓約をしていない、つまり、マウ・マウ運動に参加していない人々もひどい拷問の対象になりました。老人や子供にもそれは及んだのです。ケニヤの「スクリーニング」の残酷非道さは直ちにイラクのアルグレイブ刑務所で行われた目を背けたくなる拷問につながります。マウ・マウ容疑者(それは莫大な数にのぼりました)の受難は上掲の著書に詳しく記述されています。気分が悪くなるようなむごたらしさなので、ただその一個所だけを英文で引いておきます。:
■ According to a number of the former detainees I interviewed, electric shock was widely used, as well as cigarettes and fire. Bottles (often broken), gun barrels, knives, snakes, vermin, and hot eggs were thrust up men’s rectums and women’s vaginas. The screening teams whipped, shot, burned, and mutilated Mau Mau suspects, ostensibly to gather intelligence for military operations, and as court evidence. ■
これは地獄です。苦しんだ人々の数でいえば、これはアルグレイブの千倍万倍の地獄です。よくもまあ、この地獄の記憶をうまくもみ消し、現在に及んだものです。
藤永 茂 (2008年2月6日)
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