私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

斎藤一著『帝国日本の英文学』

2006-11-29 08:14:27 | 日記・エッセイ・コラム
 この本は、私にとって、二重,三重の意味で極めて興味深く、豊かな問題提供をしてくれる、有益な内容を持っています。明治維新後の脱亜入欧の時代から第二次世界大戦の終焉にかけて、有名有力な文化人たち、いわゆる、偉い人たちが日本の帝国主義的拡張政策をどのように支えて来たかが、「英文学」というユニークな断面で歴史を切って明快に示されています。「英語教育」という切り口も直ぐそばにあります。九州帝国大学物理学科の一年生として、19歳の夏、1945年の終戦を迎えた私は、市川三喜、岡倉由三郎、中野好夫、河上徹太郎、亀井勝一郎など、『帝国日本の英文学』で論じられている名前に、主に、終戦後の読書を通じて親しみました。そして、本書が光を当てている、今の時点から振り返れば、スキャンダラスにすらひびく諸々の事実を私は殆ど知りませんでしたので、その分、本書には余計に深刻に考え込まされることになりました。
 ジッドの『コンゴ紀行』とコンラッドの『闇の奥』との関係については、私もそれなりに考えていたのですが、この二つが日本での紹介と翻訳で密接に絡まり合った事情を『帝国日本の英文学』から学んで驚きました。文学作品の解釈というものに深刻な問いを投げかけています。世界の英語圏国家での、コンラッドの『闇の奥』の受容の歴史に強い関心を抱く私としては、日本で、この二つの文学作品が西洋植民地主義批判の書として宣伝され、それが脱亜入欧の日本の遅ればせの植民地主義政策を西洋植民地主義とは別のものとして称揚正当化するプロパガンダとして働いた事実と、『闇の奥』が、英国での発表当時には、ベルギー国王レオポルド二世のコンゴ私有植民地経営を糺弾する一方で、英帝国の植民地主義はそれと区別して、むしろ栄光化する形で広く受容された事実,この二つの事実を連関対比させて考えざるをえません。これは、洋の東西を問わず、区別できないものを区別する強弁です。ただ、コンラッド批判者としての私がこだわるのは、『闇の奥』の場合、それは作品にもともとbuilt-in されていた一つのfeatureであったという点です。
 『帝国日本の英文学』を読んでから、改めて中野好夫訳『闇の奥』の「あとがき」を読み返すと、その行間に伏せられた訳者の複雑な思いが見えてくるような気がします。ここには「コンラッドの西洋植民地主義批判」などといった文字はもはや見当たりません。「この風変りな作品は、いやでもわれわれに底知れぬ泥沼のような人間性荒廃の跡を、まるで熱病患者の息吹きのような息苦しさでひしひしと感銘させずにはおかない」というのが翻訳者の作品への賛辞になっています。確かに『闇の奥』の文学としての秀逸性はこのあたりにあるのでしょうが、思想的には、クルツという人間の“壮大”な荒廃の必然性が空虚なままに放置されるということになってしまいました。私にはこの作品は、結局のところ、一つの壮大な嘘のような気がしてなりません。グラハム・グリーンも最後にはそう思うようになっていたようです。 
 ポール・ヴァレリーは、戦後、私のような理科系の人間の中にも熱心な傾倒者を生みましたが、その有名なエッセー「方法的制覇」が遅ればせながらの日本の帝国主義的拡張の正当化に利用されたという『帝国日本の英文学』の指摘にも私は驚かされました。「西洋植民地主義批判者としてのヴァレリー」という実に無理乱暴な視角から編集されたヴァレリー特集号として出版された雑誌『文学界』1942年5月号には中島敦の異色の名作小説『光と風と夢』も掲載されていて、これについて斎藤氏は「このように、ヴァレリーの虎の威を借る狐たちの言葉が踊る紙面の約半分を割いて一挙掲載されたのが、西洋植民地主義を批判する西洋人を主人公とする長編小説『光と風と夢』であった」と書いています。ここで“虎の威を借る狐たち”とは青野季吉、河上徹太郎、亀井勝一郎の諸氏を意味します。碌に読書経験も持たないまま終戦を迎えた私は、やがて、宮沢賢治や中島敦に夢中でのめり込んで行くことになりましたが、中島敦の場合、まず私を虜にしてしまったのは彼の exquisite な幾つかの中国もの短編でした。それに続いて何の予備知識も先入観もなしに『光と風と夢』を読みました。それはスティーブンソンに勝るとも劣らぬ文才に恵まれた日本人作家中島敦に、半世紀の時を超えて、スティーブンソンが乗り移って共著したような傑作で、最近も、コンラッドとスティーブンソンとの関係を調べながら再読したところです。『帝国日本の英文学』を読む前でしたし、作家中島/スティーブンソンと、スティーブンソンを愛し大切にしたサモワの人々の双方に対するすがすがしい共感を、初読の時と同じように、胸の中で楽しみました。『帝国日本の英文学』p159頁の注(34)にある解説にも書いてありますが、スティーブンソンは自分の國英国の帝国主義、植民地主義政策に対する批判糺弾を公然と行いました。コンラッドとは断然違うところです。
 太平洋戦争中、英米文学者はなにをしていたか。『帝国日本の英文学』の第五章では、戦争に真摯に対応した少数の英文学者とそれ以外の多数派とを区別して論じた宮崎芳三著『太平洋戦争と英文学者』(1999年)が論考の出発点になっています。多数派とは「勉強ひとすじにがんばって戦争をすりぬける」ことにつとめた英米文学者で、この多数派の非政治性という政治的姿勢こそ現在も変わらぬ英文学の本質である、と書いてあります。これを読みながら、私は旧制福岡高等学校で英語を習った浦瀬白雨先生(1880-1946)のことを懐かしく思い出しました。浦瀬さんは本名七太郎、東京帝国大学文科大学英文科卒業、在学中に夏目漱石の指導を受け、多数の英詩の翻訳を手がけ、Jerome K. Jerome の『Three men in a boat (ボートの三人男)』(岩波文庫)の翻訳もあります。その縹渺とした人間的風格に私は訳もなく魅了されました。ある英語の時間、浦瀬さんは英作文の文章として、突然、「雲高く、呑竜一機撃墜さる」の英訳を生徒に命じました。「呑竜」とは、戦況日々に厳しくなる中で、国民がその活躍に望みをかけた日本空軍の高性能重爆撃機の名であったのです。「海行かば」を口ずさむ軍国少年であった私は全く意表をつかれました。校舎の廊下に敷いてある米国国旗を踏みつけて通らねばならなかったご時世、浦瀬先生のこの英作文出題は一つの反軍反戦の意思表示だったのでしょうし、愛国の熱情に燃える私としては、その場で、浦瀬先生を非国民として抗議すべきであったのでしょうが、悠揚とした先生の口にのぼったこの出題は、まことに不思議なことに、一陣の涼風として私の心をよぎったのでした。今でも生き生きとよみがえる戦時中の高校生時代の思い出です。戦後の若い英文学者である宮崎芳三氏や斎藤一氏があるいは考え及ばなかった形で戦時中の苦渋に耐え、しかも閉塞した当時の若者の心に人間の精神の自由の息吹きを送り込むことが出来た浦瀬白雨のような詩人英文学者も確かにいた筈です。

藤永 茂 (2006年11月29日)