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生きること:過去と未来とエスペラントと

リンス氏の講演覚書

2018-12-29 11:13:03 | エスペラント

 

 26日はリンス氏の講演の要旨の後半を読んだ。

 国際連盟加盟国の混乱と連盟の弱体化で国際主義は根付くことができなかった。

 1923年無民族協会(SAT)が創設される。この協会の参加者の多くは無政府主義者・共産主義者的労働者が中心であった。

 (私が昔読んだ本による記憶;レーニンは世界の継続的革命を唱えていた。ですから初期のソヴィエトではエスペラント運動は盛り上がった。しかし、世界同時革命は無理と見たスターリンはトロツキーなど反対者を追放、粛清し、一国社会主義政策をとる。エスペラントで革命の成果、労働者の世界的同盟を示そうとしていたソヴィエトのエスペランティストはスパイ容疑をかけられ粛清や流刑など、犠牲となりソヴィエトのエスペラント運動は衰退する。

リンス氏著 ’La Dangxera Lingvo'(危険な言語)1988年版の後半の大部分(p.190~423)はこのソヴィエトでの出来事に充てられています。

 1933年に出版されたV.Varankin著 'Metropoliteno'にもドイツとソヴィエトの労働者の交流が書かれている。)

 

 SATの活動は労働者の運動を盛り上げたが、民族主義に反対する、あるいは新しい国際主義に一致して反対する力をそいだ。(エスペラント運動を労働者たちと一般市民とに分断した。)

 エスペラント運動は戦後盛り上がったがジュネーブ(国際連盟)であまり成果をあげることができなかった。世間はエスペランティストの真面目さに気付きはすれど彼らを変わり者と見るようになった。

 ホドラ-は1920年に亡くなり、その友人プリバーは世界エスペラント協会(UEA)の自由な国際主義を発展させようと1935年に著:Interpopola konduto で内在思想を守ろうとするがそれはエスペランティストの失笑をかった。国際主義が民族主義に反対するする有効な手段であると気が付くのは遅すぎました。これに似た考えを持ったのは日本の田中耕太郎です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%80%95%E5%A4%AA%E9%83%8E

 プリバーは1930年代、あまりにもUEAの組織的仕事にかかわりすぎました。1932年からはヨーロッパ委員会委員長であるガンジーを助けあちこち旅をしていました。 

 国際連盟での失敗後のエスペラント界の動きをしっかり見て取ったのは盲目のエロシェンコでした。・・・

 

 長くなったので最後は割愛しました。

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