先週姉からサトイモが送られてきました。電話嫌いな私は電話しようと思いつつ延び延びにし、昨日ようやく電話しました。昨日はまれにみる晴天、さわやかで気持ちの良い秋晴れ、こんな日にあの人が家にいるわけはないだろうと思いつつです。案の定留守でした。
夕方電話が来ました。もう元気いっぱいです。素晴らしい里芋と褒めたら、昨年スーパーで買った詰め放題の安いイモから選んで6個庭に植えたのだそうです。肥料は生ごみ、手入れもしていないので草茫々の中から掘り起こしたとか。一株分だそうで芋柄まで添えてありました。後で計ったら1.5キロありました。
昨日は姉は指圧の大先輩の所にお弁当を持って出かけたそうです。この週1回のお付き合いはもう7年続いていて、お弁当は前の晩から準備し、朝7じ出かけ、昼食を共にし、4時頃に帰宅すると言う事でした。姉は10月で84歳になりました。今月運転免許を更新したそうです。この前眼鏡をかけるように言われたのに今回は裸眼でパスしたと得意そうでした。
88歳数カ月になる大先輩と称する姉の友人は近くにあるドラッグストアに自転車で買い物に出かけ、その前に店を出す農家の野菜を主に買い、生活しているとか。時折息子が声をかけてくれた時にスーパーで必要なものを買うと言うので先月連れて行ったら大喜びで沢山の物を買いつけたので、明日またスーパーに買い物に連れて行ってやるのよ、これ老人福祉よねえと姉は自分を老人と思っていないような口ぶりでした。これはまさに老老福祉です。
老老福祉実践者は我が家にもいるのです。夫は次から次へと仕事を作ってきます。老人体操のまとめ役とか、ディケアでの紙芝居とか(これは人気があって実践場所が増えています)。紙芝居を借りるために図書館通いもするようになりました。夜はそれらの呼びかけや書類作りでパソコンと格闘しています。時には市役所の20代の職員と議論したり・・・。
先日、夕方、気分が悪くなったと帰ってきました。健康を崩しても私は同情しない!自分の体力は自分でコントロールしなさいと突き離しました。家てダラダラされるよりも良いのですが、やはり自分の知力と体力は自分でコントロールしなくてはなりません。年をとると自分の現状を忘れて活動的になることがあるのです。この調整はなかなか難しいですね。
私は夫の行動をガキの遊びと名付けています。母親が病になり、中学生の時は部活もやめなければならず、子どもの頃充分に遊べなかったです。ですから人生最後の時期を遊んで過ごすのもまあ悪くはないでしょう!
夕方電話が来ました。もう元気いっぱいです。素晴らしい里芋と褒めたら、昨年スーパーで買った詰め放題の安いイモから選んで6個庭に植えたのだそうです。肥料は生ごみ、手入れもしていないので草茫々の中から掘り起こしたとか。一株分だそうで芋柄まで添えてありました。後で計ったら1.5キロありました。
昨日は姉は指圧の大先輩の所にお弁当を持って出かけたそうです。この週1回のお付き合いはもう7年続いていて、お弁当は前の晩から準備し、朝7じ出かけ、昼食を共にし、4時頃に帰宅すると言う事でした。姉は10月で84歳になりました。今月運転免許を更新したそうです。この前眼鏡をかけるように言われたのに今回は裸眼でパスしたと得意そうでした。
88歳数カ月になる大先輩と称する姉の友人は近くにあるドラッグストアに自転車で買い物に出かけ、その前に店を出す農家の野菜を主に買い、生活しているとか。時折息子が声をかけてくれた時にスーパーで必要なものを買うと言うので先月連れて行ったら大喜びで沢山の物を買いつけたので、明日またスーパーに買い物に連れて行ってやるのよ、これ老人福祉よねえと姉は自分を老人と思っていないような口ぶりでした。これはまさに老老福祉です。
老老福祉実践者は我が家にもいるのです。夫は次から次へと仕事を作ってきます。老人体操のまとめ役とか、ディケアでの紙芝居とか(これは人気があって実践場所が増えています)。紙芝居を借りるために図書館通いもするようになりました。夜はそれらの呼びかけや書類作りでパソコンと格闘しています。時には市役所の20代の職員と議論したり・・・。
先日、夕方、気分が悪くなったと帰ってきました。健康を崩しても私は同情しない!自分の体力は自分でコントロールしなさいと突き離しました。家てダラダラされるよりも良いのですが、やはり自分の知力と体力は自分でコントロールしなくてはなりません。年をとると自分の現状を忘れて活動的になることがあるのです。この調整はなかなか難しいですね。
私は夫の行動をガキの遊びと名付けています。母親が病になり、中学生の時は部活もやめなければならず、子どもの頃充分に遊べなかったです。ですから人生最後の時期を遊んで過ごすのもまあ悪くはないでしょう!