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生きること:過去と未来とエスペラントと

思い出の町へ

2007-08-31 14:00:37 | Weblog
義姉の見舞いを口実にして思い出の町に行ってきました。

 昔その町は神宮寺町と言い、私は昭和19年~20年の2年間をこの町で暮らしました。亡くなった幼友達に弔意を表すためにいつか行こうと決めてから50年経ちました。幾度も汽車の窓から懐かしい間道林を眺めながらなぜか下車できませんでした。その間道林も汽車の窓から見えなくなっていました。

 友人の名前はキョウコちゃん。同い年です。多分20年の2月のことと思います。東京で空襲にあい両親と妹(?)を失い、中学生のお兄さんに連れられてこの町に来ておじさんのところに預けられました。お兄さんはすぐ学校へ戻ったので、私は2回ほど見掛けた記憶がありますが、彼女はひとりで肩身の狭い生活を送っていたようです。彼女の当時6年生だったおばさんが面倒見て欲しいと私と彼女を引き合わせました。以来1年間私たちは昼間はいつも一緒でした。

 親のいない子どもの生活がどんなにみじめか、彼女を通して私は追体験していました。父の転勤で別れなければならなかった時の悲しみを私は決して忘れません。

 町は変わっていました。私たちが住んでいた場所には保育園が建っていました。しかし、古い校門とか、乞食がお供えを盗み食いしていた学校横のお墓とか私の記憶そのままでした。学校裏の土手で食するために若い甘草やイタドリをとりましたが、そこは国道が走り、田圃は宅地となっていました。でもその向こうを私の記憶にある鉄道が走っていました。

 一人の男性が声をかけてきました。誰を探しているのかと。私はキョウコちゃんのことを尋ねる気はありませんでした。彼は『私は終戦の時2年生だった。20年の9月にここの養子になったのだ。』と言いました。
 この近所のお寺には東京から学童疎開が来ており、かなりの数の子どもが孤児となり、お寺やその他の人の里子や養子になったのでした。彼もその一人かもしれないと思いました。

 草先生知っているか?と聞かれてよく知っていると私は答えました。アボちゃんという愛称で私が呼んでいた友達の家だったのです。その娘さんが近くに住んでいると彼は言いました。でも、私は訪ねるつもりはありませんでした。実は50年前キョウコちゃんの死を知らせるために我が家を訪ねてくれたのは草夫人だったのです。彼女は親せきの家を訪問した際駅で偶然私を見かけたのだそうです。そして、次の機会を利用して我が家を訪ねてくれたのでした。

 キョウコちゃんは中学2年生の時に肺炎で亡くなりました。親のいない子どもの生活がどんなにみじめであったか、想像することができます。ましてや日本人がまだ生活にゆとりがない時期だったのです。
 わたしがもし彼女について訊ねたら、この男性はいろいろと話してくれたでしょう!しかし、それはを思い出したくない人もこの地にいるかもしれません。私はお礼を言ってお寺の場所を聞いて別れました。

 お寺はお風呂が壊れ、もらい湯に通ったしたところです。入浴後和尚さんからおやつにいり豆をもらったこと、疎開児童をそっと眺めたこと、五右衛門風呂で内側に触ると飛び上るほど熱く、熱い!というたびに奥さんが水を足してくれるのでお湯が冷たくなったことなどいろいろ思い出があります。鬱蒼と茂った杉の木立の中を歩いた記憶がありますが、今は天保の飢饉の際に死者の供養のために植えられたという大樹が高くそびえているだけで、明るいお寺でした。

 子どものころの私の願いは大きくなった時、キョウコちゃん引越した後私たちも大変だったの!なにしろ山の中で、学校まで4キロ以上あってね、吹雪の時は前も見えないし長靴に雪が入るし・・・などと笑って話せることでした。

 人は2度死ぬといわれます。一度目はこの世を去った時、2度目は人の記憶から忘れ去られた時。今の私にできることは、私が生きている限り彼女に2度目の死を与えないということだけでしょう。
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老いるとは?

2007-08-27 16:23:29 | Weblog
 田舎に行ってきました。長兄は80歳を超えています。義姉が皮膚がんの手術をしたのでその見舞いでもあったのです。
 そして奇妙なことに気付きました。手術後念のために組織検査をしたら正常であった、だから癌ではなかったというのです。息子から電話が来た時も癌ではなかったと言い張っていました。

 その検査結果の意味するところは組織に癌が残っていないということだと思うのですが、思考のどこかが欠落してしまった、あるいは自分がこうであって欲しいと思ったことを正当化して思い込んでいるのではないかと思いました。

 本人も言うのです。毎日の決まったことを繰り返すするのは苦痛ではないけれど、ちょっといつもと違がうことをしなければならなくなると混乱して元に戻るのに時間がかかったり、自分がしようとしてていたことが何であったのか忘れてしまったりする、これがボケなんだろうかと。

 多分、脳が柔軟性を失い状況に対応できなくなるのが老化であり、混乱した時まだらボケとなり、それが継続するとボケといわれる状況になるのかと思いました。


 そのあと病院に行ったら義姉はいうのです。夫が頼んだことをなかなかやってくれないと。義姉は腰を病み、同時にパーキンソンとわかり靴下も一人で履けない状態になってから幾年たったでしょうか。義姉は自分のできないことはすべてやって欲しく夫に要求するのですが、夫が年を取り体力も気力も低下していることには気づいていないのです。

 もう80過ぎでしょう!いろいろできないのは当たり前でしょう!と私が言うと義姉は義姉でキョトンとしていました。

 義姉の退院後の兄夫婦の生活も気になりますが、私たち夫婦が老後に自立した生活を送るために、どんな意志をもってで生きてゆくべきか考えなくてはと感じました。

 老化とは長生きすれば誰もがたどらなければならない道ですが、夫婦であっても一方的依存は避けたい。それが私の願いです!
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ハーブのこと

2007-06-26 12:26:40 | Weblog
 今日の毎日新聞にハーブ研究家ベニシアさんの記事がありました。

 ハーブとは元々は野草の事と聞いたことがあります。自然を生かして暮らす暮らしに憧れます。先日はシルバー・レモン・タイムと言う葉の可愛らしいハーブを見つけました。触るとかすかに香りました。思わず買ってしまいました。

 パジルも買ってありまります。小さなポットに5~6本くっ付いていたのを分けて大きめの鉢植えました。庭に自然に生えてきた紫蘇も同時に植えました。
 スパゲティやトマトスープに入れると美味しいですね。イタリアでピザのマルガリィータに生のバジルをのせたのが出て来ました。
 バジルは摘んで食べる度に枝分かれしドンドン拡がってゆくので鉢が窮屈そうに見えます。この一鉢で夏中楽しめる予感がします。
 また植え替えてやろうと思っています。もっと利用の仕方を知りたいです。

 庭やプランターに植えたものは農薬を使わないので安心して食べれますし、彩りだけの為に買い物に行く必要もありません。

 ベネシアさんはお風呂に入れたりチ-ズに混ぜたりして色々なハーブを楽しく使っているとのことでした。私も少し見習いたいです!!

http://www.venetia-international.com/who_is_venetia/essays/essay-index.html

ベネシアさんのホームページも訪ねました。
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やなせたかし氏の絵

2007-06-24 07:28:06 | Weblog
 昨日は『私の8月15日』展についての漫画家二人の講演がありました。

 数人の漫画家の絵を大きく映し出しエピソードが披露されました。

 戦争の絵は決して楽しいものではなく私など自分の経験でないとしても多くの人の体験を聞いているので絵を見るだけで文など読みたくなくなります。しかし、この8月15日と時間を区切リ、集約した所にこの展示会の意味はあるのかと思ったのはアンパンマンの作家やなせたかし氏の絵でした。

 クリ-クをアヒルが泳いでします。土手の上を汗をかきながらやせこけた兵隊たちがかけています。これは終戦を知らず訓練している兵隊たちと思える絵です。

 ところが、戦時中、戦争が長引くと聞いて、彼等の部隊は食料を節約して暮らしていたそうです。戦争に負けたので間もなく占領軍がやってきます。節約した食料を敵の手に渡したくないので食べる事にしたのだそうです。たらふく食べて、お腹を減らす為にみんなで走っている絵ということでした。

 いわゆる戦争の悲哀だけでなくこのような笑わせる絵もあることがこの展示会の救いのように思えました。

 若い職員は会期が長いので毎日2~3点づつ見る事にすると話していました。
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いたずら小鳥とみどりのカーテン

2007-06-08 07:57:53 | Weblog
 冬といわず春といわず我が家の屋根は小鳥達の溜まり場のようです。朝から晩までピーチクパーチク。小鳥たちがおっかけっこしているの見るのも楽しいですが喜んでばかりはいられません!

4月バジルをプランターに蒔き2階のベランダに置きました。たくさん芽が出て喜んでいたら少しづつ消えてゆき無くなってしまいました。小鳥たちが食べたようです。

昨年同様東側にみどりのカーテンを作りたくて、ゴーヤとインゲンをプランターに蒔きました。インゲンは3度蒔き、3度目にビニールを被せておいたらようやく芽が出ました。これは大きめの鳥かもしれません。

 昨年収穫しておいたゴーヤも芽が出ず、種を買って蒔いたら芽が出たのは一本のみ。

 今年は諦めるかと思ったら・・・・何と自然に落ちた種から数本芽が出ていました。

 空気が湿っていたので昨日移植しました。

 でも夕べの雨は小雨でした。 

 狭い場所にインゲンとゴーヤが茂り涼しげなみどりのカーテンを作ってくれることを願っています。

 その上沢山収穫できたら・・と欲張っています。  
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合宿します

2007-03-25 11:44:55 | Weblog
 今日は海のそばで合宿します。

 どんな魚が食べられるか楽しみです。そこで魚の名前を調べました。
エスペラントはやはりヨーロッパ的と実感しています。と言うのも日本のようにいろいろな魚の名前が見つからないのです。
肉なら細かな部所まで探すことができるのですが。

もしかして自分で名前を探すのはおっくというエスペランチストもいるかも知れません。くだらないと思える会話から人は親しくなれるものです。
そこで、私の調べた魚の名前だけここに記録します。

後はご自分で探して下さい。

魚 fiŝo

タイ:     sparo    
マス: truto
サケ: salmo
ヒラメ・カレイ:platfiŝo, rombofiŝo
舌ビラメ: sdeo
イワシ: sardino
片口イワシ: engraŭlo
アンチョビー;anĉovo
マグロ: tinuso
サバ: skombro
メカジキ: ksifio, glavofiŝo
アジ:(trachurus japonicus) trakuruso   

エビで鯛を釣る:donu ovon por ricevi bovon
腐ってもタイ : senila sed ankoraŭ utila
タイの刺身 : spara saŝimio

4月からブログのための時間を少しもてるようにしたいと思っています。
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かあさん俺・・・

2006-10-28 01:53:42 | Weblog
 変な電話を貰いました。“かあさん俺、携帯の電話番号変えたよ!“というものでした。

 名前を言わないのです。おかしいですよね。3人の息子達とも声が違います。

おまけに二人は外国暮らし。その中の一人は家族旅行中。

 私は急いでいたので同じ事を繰り返すその人に“それは良かったですね”と電話を切りました。あの電話は何?と後で思ったのですが・・・。

 私が息子の名前を言ったら、後から俺俺詐欺の電話が来たのではないかというで気がします。

 俺俺詐欺に引っかかるのは、子どもの実名を言われるからではないかと気付いたのです。

 口惜しい。もしかしたら詐欺師をギャフンと言わせる機会を逃したかも知れないと思うと本当に口惜しいですね。


 みなさん、名乗らない人から電話が来たときは、“○○なの?“などと家族の名なぞ決して言わないようにしましょう。

 家族に年配の女性がおられる方は家族にも徹底させましょう。

 でも、口惜しい!ギャフンといわせたかったです。何しろ電話を切るときに相手がつぶやく声が聞こえたのです。

 “えっ!良かったねと言ってるよ。“
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エトゥルリア時代の町:コルトナ

2006-09-25 11:04:52 | Weblog
 7月27日紀元前3世紀頃、エトゥルリア時代に作られたという町に連れて行ってもらいました。

アレッツォを出てローマへの街道を走りこと30~40分。まさに田舎の街道を行く気分です。道路のところどころに赤い印があります。それは現在にあわせて作られたローマへの里程標でした。村(町?)の名前も面白い。そこの産物が主な名前になっているということです。例えば、靴とか酒の名前など。

 やがて街道をそれ荒地(?)とも見える畑の中を道はらせん状に登って行きました。大きな石の門の前の駐車場で車をを下りました。

石の門は大きな石が積んででありますが、城壁の下の部分は薄い板のようない石が積み重ねられています。これは紀元前3世紀頃に作られた城壁の名残なのです。
コルトナの町の中央に出るためにはやはりらせん状の石の道を登ります。ところどころに人が一人通れる位の急な坂や階段の道が主要道路であるらせん状の道を結んでいます。この細い路地にも名前があります。住民の家族名や職業名がついた道もあります。イタリア語で朝焼けとか夕暮れとはどう言うのでしょうね。

エスペラントではアゥローロ。ここには朝から日が入りますが午後には日陰になります。ヴェスペーロ(夕べ)ここには午後遅く日が入るというようなお日様にちなんだ名前がついている道もあります。
道の両側は石垣が高く聳え、その上から木や時には犬や猫が通りを歩く人を眺めています。
つまり、家には日が入るように工夫されているのでしょう。

この産物は陶器とワインです。伝統的模様はレカント(マーガレット)、三日月、太陽、星、野草などです。大きな10キロはあるかと思える赤土の壁飾りなどもありました。

小さな町なのに教会が数ヶ所あります。その中でも一番高いところにある立派な教会が聖マルガレータ教会です。マルガレータとはマーガレットのことです。カトリック教徒は生まれ月によって守護神がいるそうで、友人のレカントは自分の守護神マルガレータのエスペラント名を名乗っていたのです。

 聖マルガレータはコルトナで生まれました。彼女は50歳でなくなるまで、教会の近くの城壁から見下ろせる荒野に掘っ立て小屋を作って住み、薬草を採取しこの町の貧しい人々を助け、病院を作ったのだそうです。

 この町の陶器の絵がつい最近までマーガレットだけと言うのは人々の聖女への感謝なのだろうと推測できました。

 現在は冬にはアメリカの大学が二つ、市当局から建物を借りてコルトナで授業を行っているので、観光客が増え豊かなようでした。

 住民はローマ以前からこの地に住んでいる人々の子孫で彼らこそ混じりけの無いイタリア人とレカントはいいました。
日本酒の代わりにワインをレカントのお父さんに買おうとしたら、ここで売っているワインよりズーと安く美味しいワインを彼が持っているからと言われ、お土産にそのワインを持たされてしまいました。

 夕食の時コルトナの話になるとレンカントのお父さんがいいました。コルトナの冬は辛いと。レカントの説明によると1945年、イタリアが戦争に負けた頃です。兵隊がふざけて銃を乱射し流れ弾に当たって彼の父親が亡くなりました。母親は5人の子どもを育てることが出来ず、上の二人をコルトナにある孤児院に預けたということでした。私と弟は孤児同然に育ったとレカントの父親はいいました。父親が殺された時彼は10歳だったそうです。
 
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アルホンソ夫妻

2006-08-19 07:50:02 | Weblog
 私の宿泊先はアルホンソ夫妻のペンションでした。10畳ほどの部屋にベットが二つとソフア、テーブル、机、テレビもありましたがほとんど寝ただけの生活でした。浴室は二つあるので一つを自由に使ってよいという事でした。
 アレッツでも困ったのですが浴室にドライフラワーが飾ってあった事です。この為か顔が腫れて痒くなり、今、ヨーロッパは気温が高く、普段よりいろんな花粉が飛んでいるから気をつけた方が良いと息子が持たせてくれた市販の薬を服用しなければならなかったのです。

 庭は広いし、金属製の鶏とかフクロウが品良く配置され、苗木を守る為に置かれた底の無い大きな花瓶状のものまでユーモラスな人の顔が描かれていました。玄関の取っ手は鋳造された母子像、中国の古文書を描いた絵画その他美術品に溢れていました。
後で聞いたのですが、それらは友人たちの作品で贈り物としていただいたものだそうです。

 夫妻は共に元大学教授で、子どもが6人、子ども達が巣立ち、定年後家があまりにも広いのペンションをはじめたと言うことです。

 到着してすぐ、私が着替えが無いと分ると、アルホンソ氏はまだスーパーが開いていると云いノルマと私を乗せて車を走らせてくれました。

 ノルマの動きの早いこと、閉店まで30分と言うのに歯ブラシ、歯磨き粉、下着、Tシャツ、パンツなど私の身体に合わせて選び、その後Tシャツの材質が気に入らないとワゴンをひっくり返しより上質なものと取り替えてくれ、『良かった良かった、良い買いものができた。』と喜んでいました。

帰宅すると今度はノルマの友人の車でピザ店へ。アルホンソ夫人と私も含めて6人。店は車で5分ほどの所にあり、中庭全体が木陰になるように木が植えられていて気持ちの良い店でした。

 私はビ-ルと無難なところでマルガレータを注文しました。そのピザの大きいこと。皮は薄くてカリカリに焼けていました。直径30センチ以上あろうかと思う代物を皆さんおしゃべりをしながらパクパクと平らげてゆくのです。放射状に食べて行く人もいれば、真中を先に食べ、外側のよりカリカリした所を指でつまんで食べる人、とにかく早いのです。昼食を食べそこなった私でしたが、必死で喰らいついて、みんなが、おしゃべりをはじめてもまだ食べ続け、とうとう残してしまいました。その後皆さんは甘いものを注文して食べていました。アルホンソ夫人があまり勧めるので - こんな時遠慮しすぎると雰囲気がギクシャクします - 彼女の分を少し味みさせてもらいました。

 この5人は教会のボランテイアグループに所属し、長いことブルガリア、南アフリカ、パキスタン、など4カ国の貧困児童の援助をしているのだそうです。突然ノルマが熱弁を振るい出しました。

 エスペラントを使って国際協力を推し進め、理解を深ければもっと平和に貢献できると言うようなことを云っています。それから私を見て『イタリア語でごめんなさい。今エスペラントの宣伝をしているのよ。』と云いました。『云っている内容が良く分る。』と私が答えると彼女は大いに満足して再び熱弁を振るい、友人達は穏かに聞いていました。

 さて支払いの段になると中座したアルホンソ夫人がもう支払いを済ませていました。その夜の食事は彼女のおごりでした。

 私の宿泊費は一泊40ユーロです。2晩で80ユーロ。つまり私の宿箔料はこの食事で消えたのではないかと思われます。
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パドバにて

2006-08-16 08:57:43 | Weblog
 ああ~、またまたブログ休んでしまいました。無くて七癖と言いますが、私は無数の悪い癖を持っています。長い社会生活の中でコントロールができる様になったと思うのですがそれでも時々出てしまうのです。今回も本を1冊読み終わるまでブログが書けなかったのです。
 子どもの頃は夕食になっても読書が止められなくて、罰として何度も夕食が貰えませんでした。でも母が戸棚におにぎりを作って隠しておいてくれるのでこれに味をしめ・・・。

      

 実はパドパでの2日間の計画を立ててくれたのはノルマでした。本職のガイドで今はボランティアでガイドをしているそうです。夫はブルガリア人。弟は日本人の妻を持ちブラジル・サンパウロに住んでおり、両親もブラジルに渡ったと言うことです。彼女とはメールで2~3回交信したでけの仲なのです。

 ノルマは小柄ながらがっしりとした体格の女性でした。良く来たと親しみを込めて挨拶してくれました。
 パオラが来ました。あれ?私の知っているポオラとは違い大柄でゆっくりとものをいう若い女性です。
 カバンが出来ないと言う私の訴えにノルマは証明書を見て、早速空港に電話そしてくれました。私のカバンは積み込まれなかったか、あるいは他の飛行機に積み込まれたかまだわからないという事だったので、係員が2時迄勤務だと言うからそれまでに所在を確かめ自分の携帯に電話するように言ったと云うことでした。一人旅だったら、私はどうしただろうと彼女の手際のよさにただただ感謝しました。

 私の知人のパオラは小柄で威勢が良く早口です。そこで思わず聞いてしまいました。
 <あなた、本当にパオラなの?>
 <私はアリーア・パオラ(他のパオラ)なの。>とゆったりと笑いました。ノルマからエスペラントを習い、今一人教えているのだそうです。

 ノルマは今日の案内はパオラに頼んであるけれどと車を走らせながら、旧市街を巡る運河沿いにクルマを走らせ、町の外観を見せてくれました。旧市街には車は乗り入れできなと言うことで、コペルニクスやガリレオ・がリレイが学んだという大学も運河の反対から見学しました。あの塔からコペルニクスはリンゴを落として、地球が丸いということを確信したのだとも。

 <この大学は世界で2番目に古いのよ。但し、当時のヨーロッパ人は世界はヨーロッパだけと信じていたけれど・・・>とも付け加えました。

 古い町を巡り、教会に入りコーヒーを飲み午後の時間はゆっくりと過ぎて行きました。やはり圧巻はScorvegni Chapel でした。1度に10数人しか入れないので待たねばなりませんでした。天井の色は澄んだ青。そこに描かれた聖人らしき人々の絵はまるで空に浮かぶ星々のように綺麗でした。
 見学者はほとんど無言でした。後でひとりが絵を指しながら係員に質問していました。そのような会話が分らないのはやはり残念なことです。

 6時過ぎ、私の身柄はノルマに引き渡され、彼女の友人でエスペランティストではない人の運転する車で宿に向かいました。

 ノルマは、空港の係員から連絡もこないし、まだカバンも届かないと憤慨していました。
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旅行カバンが出てこない!

2006-08-10 10:10:17 | Weblog
 イタリアへ行く前に息子の所による。5泊3日。

 息子のところからミラノまでわずか2時間。朝8時15分ミラノ到着。ヴェネチアに近い町のパドバのエスペランチストの世話になることになっている。
ミラノ、パドパ間は異動時間約2時間。
ミラノ発12時過ぎの電車に乗ると世話役のエスペランティスト、ノルマにメールしておきました。

7月24日、定時ミラノマルペンサ空港に着く。国内線並ですから乗客も少ないし荷物も少ない。ベルトは空回りしている。それでも私のカバンは出てこない。ベルトが動かなくなり乗客もいなくなった。残されたに荷持の中に私のカバンが無い。

 どうする、どうする。 
係員の下へ。こちらは英語はダメ、もちろんイタリア語も。でもちゃんとカードがあるのです。カバンの形とか色とかが載っている。
 係員が私の札を持っていなくなった。自分で調べに行ったらしい。戻ってきて滞在場所を聞かれる。旅程表を示し、出てきたら送ってもらうことを約束。証明書を書いてもらう。今度はバス乗り場を捜さなくては・・・。

 空港は2ヶ所に分かれていて市内へのバス乗り場は他の場所。
ようやく無料バスを探して移動、市内へ。所要時間4時間とってあったのに時間は瞬く間に過ぎてゆく。帰りのバス停を確認し、今度は切符売り場を探す。

 お昼です。弁当も欲しい。でも、弁当は先にお金を払い、レシートを見せて買うらしい。昼時なので列が出来ている。弁当無しで汽車に乗り込みました。

 バックに入っていた日本からもってきたハイチュウ1個と水だけで2時間の汽車の旅となりました。まるで山で遭難した人みたいです。 

 外はトウモロコシ畑とブドウ畑が続いています。また牧畜用の草の束も。どこか日本と似た風景でした。  
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世界エスペラント大会への参加準備(その2)

2006-06-30 14:33:53 | Weblog
 イタリアのエスペランティストの返事を読み返しているうちに、昨年リトアニアで知り合った一人のイタリア女性を思い出しました。
 細くて小さくて、目は好奇心に満ちていて観る物を逃さないというかように大きい。日本人とかけ離れたその振る舞いに私は驚き、ただただ眺めていました。ガイドのちょっとした不手際にも怒り抗議し、言い過ぎたと反省すると心から謝罪する。
その彼女の心はガラスを通して見ているかのように透けて見えるのです。旅の最後はあまりにも私たちとかけ離れた感情表現を映画でも見るように楽しんで眺めていました。

 イタリア旅行を世話してくれるという彼女に感謝の便りを書きながら、あなたはLekanto(イタリア語でマルガレータ(ひなげし)と言う愛称の女性を知っているかとたづねました。

 私がレカントですと返事が来ました。
 これはとても楽しい旅になりそうです。
 空港から中央駅に出て列車でヴェネチアに向う。途中の駅で他のエスペランテイストが迎えてくれる。25日はゆっくりヴェネチア観光。

 26日は彼女の町Arezzo。この町を散歩し、夜はクラシックコンサート。彼女が両親と暮らす家に泊まります。

27日はエトルリア人、中世、ルネッサンスの時代の遺跡の残る小さな町,Kortonaに遠足。28日はフィレンツェに急ぎ、私のホテルに荷物をおき、フィレンツェ大学で行なわれるエスペラントアカデミー会員の講演を聴きに行く。

 この時はリトワニアで彼女が一緒だったラウラも一緒に行くそうです。ラウラは弱視ですが、レカントに引きずられるように歩きながらもリトアニアを楽しんでいたのです。

 もうワクワクしています。
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素晴らしい課外授業

2006-06-23 10:04:39 | Weblog
 荷物の片付けもあるのですが、ボランティアへの復帰を果たしました。

 20日には中学生の案内。昨日22日は午前中は小学生、午後は高校生でした。

 どの学校の生徒もかなり熱心でした。先生の課外授業への取り組みがすべて生徒の態度に現われます。それだけ、子どもは親や教師に左右されると言うことでしょうか。

 昨日の高校の先生の論理はほんとに素晴らしかったですね。

 実は環境問題への導入を仲間のひとりがしている時に数人の生徒が私語を交わし笑ったのです。その前にシオラレオネにおける少年兵士の映像を見たので子どもたちは緊張し、その緊張から開放されたかったのではと私自身の心をを振り返り感じたので、生徒たちを行儀悪いと批難するつもりは私にはありませんが・・・。

 説明が終ると30代後半思える年齢の女性教師が立ち上がり、子どもたちに即座に説教をしました。

 人が話している時は耳を傾けなさい。ボランティアの方々は私たちのために自分の時間を割いてくれているのです。その方達に敬意を表すにはどうすればよいか考えれば自ずと判るはずです。
 また、課外授業は単に知識を得るためにだけ行っているのではありません。人の話しを聞き、自分も話すコミニケーションの仕方を学ぶ大切な場でもあるのです・・・。

 その後で、別の男性教師と話しましたが、今の生徒は聞く事も話すことも苦手なので、課外授業も目的は自分達で本を読んだり、人の話しを聞いたりし、それに対する自分の考えを他者に説明し、他者と話し合い、コミニケーション能力を高める事に目標を置いているということでした。

 関係無いとか、どうでも良いとか言う若者が少しでも減ることを期待しました。

 ガンバレ若者たち!  
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復帰

2006-06-20 06:21:23 | Weblog
 とうとう1ヶ月もお休みしました。

家も整理のメドもつきました。引越しは本当に大変ですね。もの一つ動かすのも加齢を感じます。でも愚痴は止めましょう!

 新しい家の近くには幼稚園があります。窓を開けると子ども達の声が聞こえます。子ども達に呼びかける先生の声が奇妙に特徴的で、これは横浜訛りでしょうか。

 道路を隔た隣りは幼稚園の農場です。天気の良い日には子ども達が来ます。先日甘いとか酸っぱいとか渋いとか言う声を聴きました。桑のみを食べていたようです。大きな桑の木があり、私の親指の先ほどの大きな実がなっていました。

 昨日はキュウリを取ったらしくとげが痛いと騒いでいました。子ども達の感動がじかに伝わってきます。窓を閉めると声はほとんど聞こえてきません。

 日当たりの良いうちを捜していましたが、日当たりが良すぎて今度は太陽に苦しみそうです。

 その内旧知の方々のブログめぐりもしたいと思っています。

今日は挨拶のみです。またよろしくお願いします。 
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寒の戻り

2006-04-15 08:47:05 | Weblog
 昨夜のニュースでは今日の気温は寒の戻りだそうです。桜も散りました。寒の戻りとは季節感が有りません。桜の頃‘花冷え’と言う寒さがありましたが今ごろ‘寒’とは!

 先日より花粉症で苦しんでいます。これも私としては時期がづれています。
  

 先日ロシアのアレクセイから便りを貰いました。私のブログを読んで日本語の勉強の足しにしているのに、最近私はブログを休みがちだからです。小説と違ってブログは話し言葉です。臨場感(りんじょうかん)があって面白いのかも知れません。
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