上郷町細越31地割にある日出神社。国道283号線を釜石方面に行く途中、小岩橋を渡るとすぐ右手に大きな石の鳥居が目に入る。これをくぐり、新しい自動車道の下を通り、道なりに山へと向かう。しばらく行くとこの神社がある。例祭日は6月17日。上郷にある郷土芸能が集まり賑やかなお祭りである。上郷村であったころの村社でもある。
この神社は、綾織の駒形神社同様に北向きに建物が建っている。早池峰山を向いているとも言われるが、ここ周辺の山を霊場としたが故にこの向きなのではないかと個人的には考える。別当は常陸家。例のコピーを確認すると俗別当四郎兵衛の名がある。
拝殿に掲げられた由緒額によると、
東南閉伊郡遠野城の東細越村の日出明神は東方に鎮座せられて敬う主は医師逝去のため、和光法印が神を祀った霊地で薬師如来像は本尊で、日光菩薩、月光菩薩を従え十二神将守護し、永ふく悪魔を追い払うその功徳赫々なり。信心供養する人々のため悪魔災難を除き病魔を退散除く御利益他に優る。それ故、寛保年中南部藩主直栄、眼病平癒を祈求する功験顕著なりとして崇敬深く社領五石を寄進し、年々奉幣参向あり。現在の石階段は南部信彦の寄進。社殿の西方にある桂木の根本の穴に溜れる水を以って眼を洗う習慣あり。又藩主は福田興珍をして参拝せしむ。信者及び神仏に使える者のために威力は倍になり武運長久子々孫々までその願を達成せられ、家門繁栄と遠野領が豊かになり領民が満足ならんことを祈願する社である。
遠野領願主 自在山東善寺法印宥将謹んで綴る。日出神社棟札欅板長さ四尺許
山旨寛保三年御名代 福田甚五兵衛興珍 常陸家四代別当 細越村四郎兵衛
是川彦作景品 当代官 木村半助富樹
この常陸家には如意輪観音像が伝わっており、これを入れて歩いたとされる修験者の笈もある。俗別当として至る以前は修験者の家だったことがわかる。現在、この常陸家の本家は遠野を離れており、石鳥居周辺に住む方々は別家の人たちである。
この別家にあたる知人に常陸家はどこから来た人達かと聞いたところ、予想するまでもなく、茨城県からだと聞いているとのこと。少なくとも、寛保三年の由緒に常陸家として名があるのにもかかわらず、別当名として四郎兵衛と名前だけを記していることから苗字としての常陸は明治になってからのことと思われる。
この日出神社の由来には上記の他に、住田町上有住の秋丸にあったものを遠野へ移したとする説もあり、秋丸では本宮として現在も残っているという。また、もう一説として、義経一行が逃げる際、その中にいた日出姫をこの地に置いて行ったところから由来するとの話もある。上郷町の繋稲荷神社や七観音の平倉観音堂と同様に南部氏から手厚く保護されていることを考えると単に神社を保護したのではなく、この地域を重要視していたことによるのではないだろうか。阿曽沼氏と南部氏が戦った激戦の地上郷では、以前この地域を治めていた方々が次々と戦死したことで、地域の長がかわっただけでなく、その家臣の生活も変わらざるを得ない状況だったのだろう。と言う事は、住む人の入れ替えが行なわれた可能性が強い。細越、平倉、板沢の人々が青笹や土淵へと移動し、土淵の人々が海上周辺に移動したのではと空想している。
話は変わるが、旧横田村の白岩周辺に上組町や仲町の人達が農地を多く所有している。また、六日町・下組町の人達が風の丘東側に農地を所有している。これらの農地がいつ頃開かれたものか知る手立てをご存知の方がいれば教えて頂きたい。
とりあえず
とりあえず、貴重な情報ありがとうございます。
本日、やっと上の娘の小学校卒業式(とらねこさんの末娘の同じ)やら諸行事を終え、帰宅したところです。御前様ですが、朝一番から親戚の結婚式のため、コメントもそこそこにふとんに入ることをお許し願いながら、・・・。おやすみなさい。
祭神については、一如さんにお任せします。逆に教えを請う立場です。
話は変わりますが、今年はどういう訳かこの場に及んで本業が超多忙といった状態です。送別会やら、何やらと夜は夜で・・・。