8月10日は「道の日」。今年で20回目となる仙人峠の集いなるイベントに参加。拙ブログ7月2日と7日でこの地域の歴史をとり上げたことで、実際に歩いてみることに。イベントの全体の雰囲気を味わうにはこちらとこちらがお薦め。私は史跡中心にまとめてみる。
宮沢賢治の銀河鉄道の夜のモデル岩手軽便鉄道の終着駅が仙人峠駅。遠野側トンネルの入口附近。この標柱の隣「早瀬観世音」大正三年建立。裏には建立者として塩釜、大槌、上郷、遠野、盛岡、藤根の方々14名の名がある。鉄道や鉄索に関わりをもった人々と考えられる。早瀬観世音銘は他に例なし。
開会イベント後、260名余りの参加者と共に登る。
登り口附近にあるのが「南無阿弥陀仏」の碑、延享元年(1744)。裏には天明8年(1788)銘の文字。延享元年は新町にある常福寺の念仏堂が慈光院と銘々された年。常福寺は時宗であり、この碑との関わりは?
峠頂上にある仙人堂。
細川姓の他に谷藤姓が見える。早瀬観世音にも同姓があることからこの祠も鉄索関係者によって建立されたことがわかる。(かつての社に関わることは拙ブログに掲載。)
1時間かけて頂上までくれば誰でも何かに座りたくなる。この方のお尻の下にあるのは、手水鉢。奉納されたのは、大正12年。奉納者は遠野町山口長蔵と仙人峠那波鉄二。那波氏は大正末期から昭和初期までこの頂上で仙人峠茶屋を経営していた方である。山口氏は、中央通り在住の方ではなかったのか?関係は不明。
頂上からは、新しく開通した自動車専用道が見える。どこを見えて山、山。標高は887mと決して高い訳ではない。それでも、この急峻な峠を越えなければ、釜石と遠野へ行けなかったのだから、先人の苦労はどれほどだったろう。
下って中仙人側にある道標。「里程 十八里」 「上閉伊郡甲子村大字大橋」 至仙人峠十五町 至大橋二十五町」 年代不明。
中仙人の祠。釜石側の大橋に住んでいた方々によってかつて茶屋が営まれていた場所。その大橋氏の祀った社。
ここにも手水鉢?いやこれは石船。文化2年(1805)釜石浦 佐野忠治、忠義が建立。坂ノ沢から630mも木彫りの樋で、ここまで水をひいていたという。この石船の他に木の船もあったというが現在はない。釜石側は、頂上からこの中仙人で一休みしたくなる位置で、どれだけの人が涼をとったことか。大地主であり事業家でもあった佐野家であるが、今の世の中、このような慈愛をもって人々に尽くす人がどれだけいるのだろう。せいぜい、企業利益を市町村に寄付するくらいか?
声を出すのも嫌になるくらい疲れた体に鞭打って、曲り道を歩き続けると大橋の家並みが見え、この橋で終点。
この峠に関する歴史を自分の足で確認することができた今回の貴重な体験をするにあたり、ブログ仲間のとらねこ氏とエンデージョーンズ氏には同道頂き感謝している。私は、今朝から、全身筋肉痛。
峠道で出会ったきれいな花一輪。名も知らず。
声も出さずに黙々と林の中を歩いていると、風で木々が揺れる音が聞こえ、時折強い風が吹くと、風の又三郎を思い出した。宮沢賢治がこの峠を越え、釜石の親戚に通っている時に生れた話なのだが、風の題材は、もしかすると、この峠での出来事が基にあるのではと思った峠越えでもあった。
宮沢賢治の銀河鉄道の夜のモデル岩手軽便鉄道の終着駅が仙人峠駅。遠野側トンネルの入口附近。この標柱の隣「早瀬観世音」大正三年建立。裏には建立者として塩釜、大槌、上郷、遠野、盛岡、藤根の方々14名の名がある。鉄道や鉄索に関わりをもった人々と考えられる。早瀬観世音銘は他に例なし。
開会イベント後、260名余りの参加者と共に登る。
登り口附近にあるのが「南無阿弥陀仏」の碑、延享元年(1744)。裏には天明8年(1788)銘の文字。延享元年は新町にある常福寺の念仏堂が慈光院と銘々された年。常福寺は時宗であり、この碑との関わりは?
峠頂上にある仙人堂。
細川姓の他に谷藤姓が見える。早瀬観世音にも同姓があることからこの祠も鉄索関係者によって建立されたことがわかる。(かつての社に関わることは拙ブログに掲載。)
1時間かけて頂上までくれば誰でも何かに座りたくなる。この方のお尻の下にあるのは、手水鉢。奉納されたのは、大正12年。奉納者は遠野町山口長蔵と仙人峠那波鉄二。那波氏は大正末期から昭和初期までこの頂上で仙人峠茶屋を経営していた方である。山口氏は、中央通り在住の方ではなかったのか?関係は不明。
頂上からは、新しく開通した自動車専用道が見える。どこを見えて山、山。標高は887mと決して高い訳ではない。それでも、この急峻な峠を越えなければ、釜石と遠野へ行けなかったのだから、先人の苦労はどれほどだったろう。
下って中仙人側にある道標。「里程 十八里」 「上閉伊郡甲子村大字大橋」 至仙人峠十五町 至大橋二十五町」 年代不明。
中仙人の祠。釜石側の大橋に住んでいた方々によってかつて茶屋が営まれていた場所。その大橋氏の祀った社。
ここにも手水鉢?いやこれは石船。文化2年(1805)釜石浦 佐野忠治、忠義が建立。坂ノ沢から630mも木彫りの樋で、ここまで水をひいていたという。この石船の他に木の船もあったというが現在はない。釜石側は、頂上からこの中仙人で一休みしたくなる位置で、どれだけの人が涼をとったことか。大地主であり事業家でもあった佐野家であるが、今の世の中、このような慈愛をもって人々に尽くす人がどれだけいるのだろう。せいぜい、企業利益を市町村に寄付するくらいか?
声を出すのも嫌になるくらい疲れた体に鞭打って、曲り道を歩き続けると大橋の家並みが見え、この橋で終点。
この峠に関する歴史を自分の足で確認することができた今回の貴重な体験をするにあたり、ブログ仲間のとらねこ氏とエンデージョーンズ氏には同道頂き感謝している。私は、今朝から、全身筋肉痛。
峠道で出会ったきれいな花一輪。名も知らず。
声も出さずに黙々と林の中を歩いていると、風で木々が揺れる音が聞こえ、時折強い風が吹くと、風の又三郎を思い出した。宮沢賢治がこの峠を越え、釜石の親戚に通っている時に生れた話なのだが、風の題材は、もしかすると、この峠での出来事が基にあるのではと思った峠越えでもあった。
ひとりでは味わえ切れない内容、仲間と共に古の道を尋ねるといったことで、さらに思い出深く、楽しく過ごすことができました。
ありがとうございました。
今夜は今回の話も含めて大いにハバギ脱ぎの意味合いも込めてやりましょう。
まずはありがとうございました。
いい経験でしたね~
爺さんになった頃(長生きできればですがー)
孫達に語って聞かせせう(^^v
でば、今晩・・・天馬までかな?
昨日は本当にお疲れ様でした。romiさんも話していたように、いつの日にか、あの峠を歩いたものだと云って語り部しましょう。
時間は自分で造るもの。自分自身で若いと感じられるうちは、仕事に没頭していても不自由を感じないのでしょうが、いつの日にか、自分でやりたいことをやる時間が限られてきていることにぞっとすると思います。
これからの世の中、何が起こるかわかりません。知事室に怒鳴り込む首長どころか、総理大臣をもあてにしないでそれぞれの国づくりをする方々が出てくるのではないでしょうか?
庶民はみんなお盆となり、先祖の墓参りの時期となりました。仏教だけかな?
峠越えに関する資料を持参するところが笛の旦那の凄いところです。
頂上部は豪快に刈払いがなされたようですね。ワタクシの見たのと別場所のような雰囲気です。
無事のご帰還なによりでした。今回の峠越えは、書面による調査書をもとに実際、それらの遺物がどうなっているのか、このつぶらな瞳(爆笑)で確認したいためでしたが、8割は思いがかないました。頂上付近はyamanekoさんUPの風景と手持ち資料とのギャップがあって、少し戸惑いました。当時は余分な草木がなく、平場がもっと広がっていたかもしれません。