「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

遠野の桜は秒読み?

2018-04-14 17:35:51 | 歴史

4月もあっという間に中旬

 

昨日は釜石市中心部と大槌町との間にある鵜住居町へ

 

昨年あたりから順次、嵩上げ工事が完了した場所では、住宅が建設されていますが、

この日は遠野に嫁ぐ娘さんのところに仮住まいしていた方の地鎮祭でした。

先立たれた奥さんの眠る菩提寺そばで余生を送る決断をしたようです。

 

先週あたりから咲き始めた釜石の桜も天気次第では、数日で満開になるのでは?

一方、遠野はと云うと、新張にある某タイヤ商会さんの桜が一輪咲いたということなので、

気温が上れば、あちらこちらで開花宣言すると思います。

 

さて、

 

先日、発行されたばかりの遠野南部家御用留書を手に入れ、古本屋さんからは定本附馬牛村誌を、

と云う事で、本業に勤しみながらも、頭の一部では空想の世界を徘徊。

 

お不動さん

 

そんな折、拙案内所に顔を出してくれた「さごみの木」さんが、気になることを教えてくれました。

昔、附馬牛に白山神社があったと。

早速、定本附馬牛村誌を確かめると、張山にあり、白山妙理大権現と号し、創立年代不明。

文化14年(1817)に修復(松田氏、導師意楽院)した棟札が残っている。

文政11年(1828)の棟札には、大旦那南部彌六郎源義堯、小檀那松田忠左衛門とある。

また、同書には寛永9年(1632)の家臣分限帳からということで、附馬牛に宛がわれていた20人の中に、

30石、松田与右衛門とあり、八戸南部氏移封当初から松田氏が管理していた処だと考えられます。

 

この白山、手持ちの地図には確かに鳥居のマークがありましたが、現地を確認すると鳥居は無く、

周辺には二つ上の写真のお不動さんと、上の写真のお稲荷さんかお不動さんと思われるものだけ。

その辺りの家々を訪ねるも、不在で、あきらめかけた時、トラクターで作業中の第一村人発見!

田んぼまで駈けて行き、事の次第を話すと第二村人を紹介され、

 

その方曰く、昔はこの辺りに白山と八幡の二社があったが、今は何も残っていないとのこと。

棟札の松田氏の話をすると、そのおじいさん、「うちも松田だ!」笑

附馬牛町に居る松田さんを意識したことはありませんでしたが、確かにこの地域には数軒の松田さん。

神社を管理していた本家筋の松田さんは遠野の町に引き払ってしまったようで、そのまた本家については

全くわからないということでした。

 

近所の家にあった絵馬、今残っている神社に納めるには大きすぎると思い、かつてあった白山の大きさを見ると

拝殿が二間に一間半ということで、もしかすると、その白山か隣接した八幡にあったものかもしれません。

ところで、ここに登場した松田忠左衛門と与右衛門さんが気になります。笑

八戸南部氏が遠野に移封される前の家臣名を見ると松田姓はただ一人、松田雅樂之丞です。

手持ちの寛永11年支配帳では松田雅樂30石、横田村、片岸村とありますが、

定本附馬牛村誌にある寛永9年には、雅樂の他に与右衛門がいたことになります。

どちらも30石とあることから、同一人物かもしれませんし、知行地の村名が違うことから二名かもしれません。

阿曽沼興廃記や遠野古事記には、松田雅樂の他、鱒沢氏関連で紫波からの松田氏が見えます。

その他、江刺氏一族の松田検校が一時小友に潜居しますが、後に京都に移動しています。

石高から考えると雅樂関係の松田氏ではと想像しています。

しかし、

よその人の事ばかり調べていないで自分のところも調べろよと思う方もいるかもしれませんね。汗

我が家の人物家系図は既に作成済なので、ご安心下さい。笑

それでも、ひとつ気になるのは、馬の糞とも云われるほど居る我が家の笛吹姓(仮名)、 

明治になった時、その地域の和尚さんが地域ごとに同じ姓を名付けたという話も聞きますが、 

先祖は江戸時代から〇〇町居住で、この〇〇町で笛吹姓を名のる家は、同町別集落に多く、

なぜ、ひとつの家だけが、名のったのかと・・・。

この馬の糞と云われる笛吹姓、秀吉の奥州仕置以後に、江刺方面から移動してきた方々が

確認できますが、仕置以前の阿曽沼氏の旧臣にも本姓笛吹を名のる人物も見られ、

一概に江刺方面から全員が移動してきたとも思われず・・・。

また、阿曽沼氏の代官として、最初に宇夫方氏と高屋氏が来たという伝承がありますが、

その高屋氏は後の歴史にしばらく現れず、やはり、奥州仕置以後に江刺浪人として遠野に出てきます。

これらのことを合わせ考えると、藤原(阿曽沼)秀親所領の中にある、

一、陸奥国遠野保地頭職事

一、同国江刺郡内角懸郷半分地頭職事

に、関係するのではないかと、またまた妄想しているこの頃です。笑

さあ、今晩は居住する地域の自治会総会なので、ガス抜きを兼ねて懇親会まで参戦です。汗

 その後

南部藩参考諸家系図にて、松田氏を確認しました。

盛岡南部藩士に松田儀勇太家があります。その系図を見ると、

会津にて蒲生氏郷に仕えていた松田与兵衛を初代とし、二代目松田与左衛門の時、初めて遠野附馬牛村に来て住す。

八戸弥六郎客分となり30石を領す。三代目松田与右衛門(与兵衛)、重直公の時召し出される。

この三代目の兄弟姉妹のうち、娘三人は、遠野に縁ある五日市又兵衛、八戸弥六郎家臣外川兵作、平原庄兵衛の妻に

なり、また弟、松田久兵衛は八戸弥六郎家臣となり100石を領す。とあります。

松田雅樂は八戸から、そして松田与右衛門は会津からと、同時期に全く異なったルートから

二人の松田さんが遠野に入ってきたことがわかりました。

 

 

 

 

 

 

 

 



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ご無沙汰 (山鳥)
2018-04-14 19:13:23
ブログを見るようになり12年、
変わらず探究心に関心です、
本業はなんですか?
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本業 (笛吹)
2018-04-15 11:53:41
山鳥さんへ
お久しぶりです。
地鎮祭の後、松倉へ寄りましたが、釜石は桜、桜で春爛漫ですね。

本業は、はて? きっと収入を得る為に行っている作業でしょうか?笑 それを仕事と云うのでしょうね。
最近は、本業以外で知り合った方から、
本業をボランティアでやってもらえないかという話もされますが、
流石に一線を画したいと思っています。笑
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