ささら・・・・竹や細い木などを束ねて作製した道具。楽器や民族舞踊の装身具の一部。
花巻以南から宮城県に分布する太鼓系しし踊りの背中につける指物を「ささら」と呼ぶ。また、遠野郷のしし踊りでも同様に呼ぶ。またの名を「腰差し」
ささら舞い・・・・関東から秋田に分布する三匹しし舞いの別称。宮城・岩手と異なり、ししの数は三匹に限られる。
棒ささら・・・・三匹しし舞いの異なる呼び名。または、棒を摺る楽器。こきりこも棒ささらの一種。
そんなわけで日曜日、細君の制止を振り切り、江刺にそのささらを見に行く。江刺地域にある15団体のしし踊りは、総じて太鼓系・・・の「ささら」。
会場の外には、出番前のしし踊りの装束が並べてある。この白い長いものが「ささら」5本の竹を束ねたもの。
残念ながら、カメラ・ビデオの撮影は禁止とのことで、近所の記念館に展示しているものを撮る。
今回の目的は、遠野の幕踊り系しし踊りとの類似性を体験したいがため。
この日出演したのは、金津流軽石獅子躍、行山流久田鹿踊、奥山行上流餅田鹿踊、行山流角掛鹿躍、金津流石関鹿踊、金津流伊手獅子躍。
私にこの情報を教えてくれたのは、この中の石関で頑張っている鹿踊マニアさんなのだが、残念ながら、出演前に時間切れとなり、見ること適わず。
太鼓系のしし踊りの場合、巻物を伝授されることで、どこから伝わった芸能であるかが、わりと判明しやすいようだ。かつて遠野でも行われていたことが現存する巻物でわかるのだが、今では、その伝授方法は廃れた・・・ようだ。
この日の演目は、三光の儀、礼庭、案山子踊、雌鹿かくし、鉄砲躍、霧返し。
遠野でも「案山子踊り、雌鹿くるい」なる演目は共通である。「礼庭」は、鬼剣舞いでも行われるが、遠野にはない。また、江刺の中では、行山流久田鹿踊のささらだけは、鳥の羽根で、他は、紙のささら。
遠野市宮守の湧水鹿踊は、そのルーツが江刺の梁川であり、久田と同じ衣装で、この団体にだけは、坊子と呼ばれる子供と笛吹が居る。江刺の中でも特異な「しし踊り」といった感じ。
解説をして頂いた東北芸術工科大学の菊地和博先生によると、しし踊りで古いのは行山流とのこと。
遠野のしし踊りは、しし踊りとふくべ振り、太鼓、笛、手踊りで一団を構成するが、青笹しし踊りの本によると、剣舞と神楽としし踊りが合体したものであるとの説が紹介されている。それから考えると、太鼓系は衣装の類似性もあり、鬼剣舞との融合からきたものとの推論もできる。菊地先生は、山伏によって三匹しし舞いの変化形がもたらされ、南部と伊達で、独自に変遷したものだろうと、話していた。
また、この日の出演団体の参加者名簿を見て驚いたのは、どの団体にも「菊地」・「菊池」さんがいること。遠野も多いが、江刺もまた多い。(角掛鹿躍の名簿には11人中8人)同じ呼び名は、苗字だけではなく、地名にも・・・江刺:増沢→遠野:鱒沢、江刺:立花=遠野:立花、江刺:伊手→遠野:井手、江刺:宇南田=遠野:宇南田 etc。そして、現存する神社の数も周辺地域に比べ、遠野同様に多い地域でもある。
今回のしし踊りを見て感じたのは、太鼓系しし踊りは、きっちりとした相伝で伝えられている芸能であるのに対し、遠野は風流系とも云える地域伝承型であるということ。これが、現在の両しし踊りの違いを表している言葉ではないかと思った次第。
最後に、江刺のささらホールのそばにあった「菊田一夫記念館」
鐘の鳴る丘、君の名は、放浪記の劇作家。横浜出身であるが、戦時中江刺に疎開。この中の、放浪記は現在、森光子が舞台で演じているが、林芙美子の自伝ともいわれる話。林芙美子と遠野つながりと云えば、仙人峠。内容はこちら。
花巻以南から宮城県に分布する太鼓系しし踊りの背中につける指物を「ささら」と呼ぶ。また、遠野郷のしし踊りでも同様に呼ぶ。またの名を「腰差し」
ささら舞い・・・・関東から秋田に分布する三匹しし舞いの別称。宮城・岩手と異なり、ししの数は三匹に限られる。
棒ささら・・・・三匹しし舞いの異なる呼び名。または、棒を摺る楽器。こきりこも棒ささらの一種。
そんなわけで日曜日、細君の制止を振り切り、江刺にそのささらを見に行く。江刺地域にある15団体のしし踊りは、総じて太鼓系・・・の「ささら」。
会場の外には、出番前のしし踊りの装束が並べてある。この白い長いものが「ささら」5本の竹を束ねたもの。
残念ながら、カメラ・ビデオの撮影は禁止とのことで、近所の記念館に展示しているものを撮る。
今回の目的は、遠野の幕踊り系しし踊りとの類似性を体験したいがため。
この日出演したのは、金津流軽石獅子躍、行山流久田鹿踊、奥山行上流餅田鹿踊、行山流角掛鹿躍、金津流石関鹿踊、金津流伊手獅子躍。
私にこの情報を教えてくれたのは、この中の石関で頑張っている鹿踊マニアさんなのだが、残念ながら、出演前に時間切れとなり、見ること適わず。
太鼓系のしし踊りの場合、巻物を伝授されることで、どこから伝わった芸能であるかが、わりと判明しやすいようだ。かつて遠野でも行われていたことが現存する巻物でわかるのだが、今では、その伝授方法は廃れた・・・ようだ。
この日の演目は、三光の儀、礼庭、案山子踊、雌鹿かくし、鉄砲躍、霧返し。
遠野でも「案山子踊り、雌鹿くるい」なる演目は共通である。「礼庭」は、鬼剣舞いでも行われるが、遠野にはない。また、江刺の中では、行山流久田鹿踊のささらだけは、鳥の羽根で、他は、紙のささら。
遠野市宮守の湧水鹿踊は、そのルーツが江刺の梁川であり、久田と同じ衣装で、この団体にだけは、坊子と呼ばれる子供と笛吹が居る。江刺の中でも特異な「しし踊り」といった感じ。
解説をして頂いた東北芸術工科大学の菊地和博先生によると、しし踊りで古いのは行山流とのこと。
遠野のしし踊りは、しし踊りとふくべ振り、太鼓、笛、手踊りで一団を構成するが、青笹しし踊りの本によると、剣舞と神楽としし踊りが合体したものであるとの説が紹介されている。それから考えると、太鼓系は衣装の類似性もあり、鬼剣舞との融合からきたものとの推論もできる。菊地先生は、山伏によって三匹しし舞いの変化形がもたらされ、南部と伊達で、独自に変遷したものだろうと、話していた。
また、この日の出演団体の参加者名簿を見て驚いたのは、どの団体にも「菊地」・「菊池」さんがいること。遠野も多いが、江刺もまた多い。(角掛鹿躍の名簿には11人中8人)同じ呼び名は、苗字だけではなく、地名にも・・・江刺:増沢→遠野:鱒沢、江刺:立花=遠野:立花、江刺:伊手→遠野:井手、江刺:宇南田=遠野:宇南田 etc。そして、現存する神社の数も周辺地域に比べ、遠野同様に多い地域でもある。
今回のしし踊りを見て感じたのは、太鼓系しし踊りは、きっちりとした相伝で伝えられている芸能であるのに対し、遠野は風流系とも云える地域伝承型であるということ。これが、現在の両しし踊りの違いを表している言葉ではないかと思った次第。
最後に、江刺のささらホールのそばにあった「菊田一夫記念館」
鐘の鳴る丘、君の名は、放浪記の劇作家。横浜出身であるが、戦時中江刺に疎開。この中の、放浪記は現在、森光子が舞台で演じているが、林芙美子の自伝ともいわれる話。林芙美子と遠野つながりと云えば、仙人峠。内容はこちら。
巻物が伝授されていたというのが気になりますね。江戸時代若しくはそれ以前から伝わっていたのかなぁ。文字が書かれているなら踊りを伝えられる側に文字を読める人がいなければなりませんから。いわゆる百姓たちは識字率ゼロだと思われますのでそれ以外の人間が関与していたというこになりそうですね。
それとも、そもそも百姓たちの芸能ではなかったということなのかなぁ。
識字率ゼロとは、云えませんよ!村の名主相当の方も坊様も読み書きは出来たようです。おそらく、それ以外の方々にも・・・。八戸から南部氏が移られた当初は武士の中にも読み書きできないものが相当数居たようですが、それも、後に解消されたようです。「遠野古事記参照」
先日は、ご苦労様でした。太鼓系しし踊りの演目をじっくり観るのは始めて多分に緊張しながら、狭いにイスに座っていました。観に来た方々は、皆、プロのような講評を交えての鑑賞で、驚きました。今回は、鹿踊マニアさんの勇士は観れませんでしたが、いつの日にか、ぜひ!
唐丹のしし踊り、とっても面白いですね。拙ブログでも取り上げたいと思います。