「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

尾崎白浜そしてSL銀河お出迎えしし踊り

2017-07-08 15:41:15 | 地域

SL銀河運行日の第2土曜日は、遠野駅前でしし踊りのお出迎えがあります。

今日は該当日ということで、30℃を越えている中、様子見に・・・・汗

 

SL銀河が駅に到着すると浴衣姿のざしきわらし達がホームでお出迎えしてました。

 

お客さんが駅前に姿を現す辺りから笛・太鼓の音が始まります。

 

今日は附馬牛町東禅寺の早池峰しし踊り

 

あまりの暑さに見る人は多くはなく、種ふくべの方は短時間で見事な日焼け・・・笑

ところで、

附馬牛町のシシ踊りの幕は白地に剣九曜の大出早池峯神社の神紋を使用していますが、

気になっていることがひとつ

市内のシシ踊りの中で幕について記されているものに小友町長野しし踊りがあります。

安政3年(1856)南部様より蛇の目の紋幕5枚賜ると。

この文章の出処はわかりませんが、長野は現在、八幡様の向い鳩を紋としています。

そこで当初の蛇の目紋、なぜ南部様からこの紋が贈られたのでしょう?

南部氏(遠野南部八戸氏)は云わずと知れた向い鶴、裏門に九曜紋、花菱紋などということで、

時の領主の紋を賜ったとは言えないようです。

また、南部氏以前の阿曽沼氏はと云うと、三巴、州浜、木瓜紋を使用していたようです

そこで、「近世こもんじょ館」を見ると

遠野孫三郎広郷支族、附馬牛玄浄の子、山口内蔵介が左頭巴紋と蛇目紋であることがわかります。

(その他盛岡南部家臣の奥寺氏の中に蛇目紋あり)

遠野孫三郎広郷は、云わずと知れた阿曽沼広郷で、その家臣(一族)に蛇の目紋の人達がいたことになります。

なぜ、長野しし踊りが江戸時代後期に蛇の目の紋幕を頂いたかはわりませんが、

その蛇の目紋を遠野に見出すことだけは出来ました。

 

話は前後して・・・

 

ここは釜石市尾崎白浜。5月の林野火災は記憶に新しいのではないでしょうか。

3.11の震災では22戸の家が流され4名が犠牲になりました。

 

ここには尾崎神社の本宮があり、ここから東に一山越えたところにあるのが奥宮

それより奥には奥の院があり、釜石で一番の大きなお祭りに縁ある神社となります。

 

神社から西北下には震災後の造成地があり3軒の家が建っています。

 

港そばの道路沿いには観音様と石碑

 

縁あって昨年7月から何度も足を運びながら、おそらく今回が最後ということで廻ってみました。

 

造成地の下には震災前の建物も残っていますが、下には民家は建たないと思われます。

 

来るたびにお目にかかる鹿

 

震災後6年で、この場所にある仮設住宅は撤去となります。

一日も早く、仮設から出たいと思っている人の気持ちを大事にしたいと特に思い続けたこの一年でした。

 

さて、今晩は、宮守町鱒沢はJR釜石線荒谷前駅北側にある白山神社

通称鞍迫観音の宵宮です。

暑すぎてSL銀河お出迎え以外は外に出なかったので、鱒沢神楽さんの奉納を見に行こうかと・・・。

いつもだと6時頃から3番ほど演じるようですが、タイムスケジュールがどこにも載っていないので・・・

 



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ksuz)
2017-07-08 21:19:20
第二土曜日ですね。わかりました。
来月は忘れないようにします。
明日はどちらかな〜
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予定 (笛吹)
2017-07-09 16:11:25
ksuzさんへ
午前中はお疲れ様でした!
3時近くに帰って来ましたが、体力消耗甚だし!です。笑

第二土曜がシシ踊りで、第四土曜が神楽だと思います。
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