沖縄本島北部に広がるヤンバルの森。東村(ひがしそん)・高江区は豊かな自然に囲まれた人口160人ほどの山村。映画はまず、その高江の森に惚れ込んで10年ほど前に家族で越してきた安次嶺(あしみね)さん一家の生活描写から始まった。川に囲まれた手作りの家はカフェにもなっていて、雪江さんが仕込む窯焼きパンと、その夫ゲンさんの作る新鮮な野菜が人気。6人の子供たちものびのび育っている。
そこに、死亡事故が多発するオスプレイ配備用のヘリパットが新設される計画を知った区民たちは、那覇防衛施設局に詳しい説明を求めるが、「米軍の運用に関しては、日本側は関知できない」と突き放され、なんらの説明もなされることなく、工事が強行されようとする。
2007年8月21日、工事にやってきた局員を前に立ちはだかる住民。この日は、なんら工事をなすことなく施設局員たちは帰っていったが、11月25日、住民15人が法廷に呼び出された。現場での座り込みが「通行妨害」にあたるとして、国が仮処分申請したのだ。国策に反対する住民側を国が訴える裁判をSLAPP裁判と呼び、アメリカの多くの州では禁止されている裁判。苦難に満ちた闘いの日々が始まる・・・。
この映画は、私の知らない、基地の島沖縄の、凄まじい数々の実態を教えてくれた。ベトナム戦争当時、高江はベトナム村とされ、高江の住民は南ベトナム人の役をさせられていた。現在は、高江のを標的と見なし、取り囲むように飛行訓練する米軍のヘリコプター。表題『標的の村』とは高江のこれらの実態を指し、沖縄の象徴としての高江。
オスプレイ沖縄配備が密かに決められていたのに、20年間隠し続けて来た政府。遂に2012年10月1日、激しい反対闘争にもかかわらず、オスプレイ2機は沖縄に到着。その3日後には高江で訓練を始めた。低空で飛び交うオスプレイ。夜間の上空旋回もあった。平和だった村の生活は一変する・・・。
都高教退職者会主催の映画会が行われたのは4月15日(水)、本駒込地域活動センター地下ホール。退職者会からの出費では賄い切れないので、上映協力金として一人1,000円を頂こうとの上映計画。不安が大きいなかでの上映決定だった。沖縄の実情を知り、この映画の素晴らしさを知った幹事本村さんの、上映への、熱き思いが道を切り拓いていった。
当日の観客は32名。60名には遥かに及ばなかったが、この日来られなかった方々からのカンパが一定額あるので、会計上は何とかなるそうだ。会場費が5,200円と安いことも幸いした。大成功とは行かなかったが、”座して待つより先への一歩前進”。退職者会も私も貴重な体験をした。
懇親会には18名の参加。7月5日~7日には「辺野古・高江支援ツアー」も企画されている。私も参加したいと思う。
今日の一葉:新潟県麒麟山公園で出会えた満開のソメイヨシノ
桜が咲き始めるとともに、富士神社のラジオ体操も参加者が増え始め、4月に入ってからは50名を超えている。私が参加し始めた6年前と比較すれば、確実に倍増している。
その中での最高年齢は、女性では91歳のHさん。毎日すきっとした歩き方でお見えになる。男性では沢さんや佐藤さんの姿が見えないので、最高年齢は多分間もなく84歳になられるYさん。遠くからでも一目でわかる、白く長い髭の持ち主。私は“髭じい”と名付けている。富士神社界隈では多くの人が知っている有名人だ。
私とはラジオ体操が隣り合わせ。いろいろと話を聞くことが多い。上富士交差点で、交通安全の旗を振って50年近くなるという。いわゆるスクールガードだ。昭和小学校の児童の安全に寄与して既に半世紀。凄い、偉いと思うが、偉ぶった雰囲気は皆無。天祖神社の神幸祭にも乞われて役割を演じていた。
雨の日の行動が特異である。”体操おたく”は社務所軒下に移動して体操するが、Yさんは普段の定位置から移動しない。「男が一度立ち位置を決めたら安易に移動してはいけない」とか言って、「出席を取ります」と称し、参加者を眺め、体操抜きでそのまま去っていく。
銭湯と川柳を好まれる。文京区以外の銭湯も含め、銭湯へ毎日通う。川柳はかっては相当詠んだようだ。時折私に本を貸して下さる。最初にお借りしたのが『東京湯巡り、徘徊酒 』(講談社)。23区内にある銭湯に出掛け、帰りに必ず飲み屋に寄った体験談が書かれていた。行ってみたくなる銭湯や飲み屋が多数登場する。私は文京区図書館のブックリストに登録した。いずれ、遠出しての銭湯+飲み屋を楽しめる日が来るだろうか。
川柳の本は『シルバー川柳』や『女子会川柳』。中でも『女子会川柳』が、枯れていない分だけ面白い。上司や、不倫を思わせる相手への恨み辛みが強烈な言葉で表現されている。生々しい体験を窺わせる川柳もある。その一端を書き並べてみた。(△は私に当てはまるもの)
『女子会川柳』(ポプラ社)
「調子どう?」あんたが聞くまで絶好調 やっぱりね残りものには訳がある
婚活でであった男就活中 逆らわずただうなずいて従わず
もう会わぬ番号消して待つ電話 年の差の部下がダンナになる時代
『シルバー川柳』(ポプラ社)
三時間待って病名「加齢です」 △探しものやっと探して置き忘れ
老いの恋惚れるも惚けるも同じ文字 △お若いと言われて帽子脱ぎそびれ
自己紹介趣味と病気をひとつずつ △遅いとは思うが旅に発毛剤
私も明後日から「髪殿」を持って旅に出ます。今回は旅先でのブログ更新はしない。19日以降の更新予定です。
今日の一葉:漆家周辺の花々
突然のお招きで、塩山の「漆家の花見」に出かけて来た。「長屋の花見」ではないが・・・。
この2年間、諸般の事情から中止していた花見の宴を今年は開催しますとの連絡を、突然に頂いて、一昨日の4月11日(土)、塩山まで出向いた。
スタート時の状況は、あまり良くなかった。出発時東京は雨で、塩山も午前中は雨で、12時~15時までが曇りという予報。中心メンバーの妻は気管支炎で、急遽訪問を止めていた。しかし、陰から陽へと急展開。現地で観た光景は“桃源郷”だった。今日のブログはその一端を語りたい。
(古民家「漆家」を望む)
私達関係での参加者は深谷からの、義妹の石野夫妻。源氏の会々員の水越さんと、トシコさん(私の教え子でもある)と私の3人は、新宿9時2分発の「ホリデー快速ビューやまなし号」に乗車。この快速列車はオール2階建で特別料金は不要。塩山からはタクシー。タクシーの乗車中に雨は止み始め、山里の花風景がはっきりと見渡せ始めた。白色は李で、ピンクは桃の花。どちらも背の低い樹木で、タクシーから見る、低い目線のその先に白とピンクが紅白の絵巻を繰り広げていた。
漆家は安曇野の古民家を移築して、数家族が共同経営している。主として、4月の第2土曜日に、桃の花の盛りをお見せしたいとして始まった“うたげ”。今年は25人くらいの参加だった。既に石野夫妻は来ていて、12時前に開会式で漆原さんが挨拶した。今年は李の受粉で難儀しているとのこと。料理長の佐藤さんからは手作り料理が紹介された。
10種類の手料理と赤・白のワインとお茶席まで用意されていて、木戸銭はお安く千円。早速に頂いた。蕗味噌やくるみ味噌で頂く田楽を皆さん美味い美味いと食した。私は菜の花のからしあえを沢山頂いた。焼きたてのうるめイワシの香りが食欲を誘った。ワインは呑み放題。
食後、漆家の周りの里山を、水越さん・トシコさん・私の3人で散策した。花は桃と李だけではなかった。白は李とユキヤナギ、黄色はレンギョウと菜の花、ピンクは桃と山桜。トシコさんは桃源郷と感激した。小高い山道からは晴れていれば南アルプスが展望できるはずだが、この日は山脈ではなく、甲府盆地と塩山の里山が遠景を形作っていた。私は見なれた光景だったので感激はやや薄かったが、この風景を初めて観た、水越さんとトシコさんが喜んでくれて、私は嬉しかった。帰路は石野夫妻の車で塩山へ。これは有難かった。
今日の一葉:自宅ベランダから東京タワーを望む
4月1日(水)にサントリー美術館で『若冲と蕪村』を観て来た。
初めて知ったことだが、伊藤若冲と与謝蕪村はともに1716(正徳6)年生まれの同い歳。二人の生誕300年を記念しての企画。今回の「サントリー美術館」の展示の後は、「MIHO MUSEUM」へ移動しての展示(7月4日~8月30日)となると書かれているが、「MIHO MUSEUM」の館長辻惟雄が企画・監修した展示が東京へ出張してきた、が実態ではなかろうか。などと、些か知ったかぶりの書き出しには理由がある。
今回の展示の作品の中でも、若冲作『象と鯨図屏風』と蕪村作『山水図屏風』はともに目玉作品。その両方とも「MIHO MUSEUM」の所蔵作品で、いずれも辻が鑑定をした上で購入した作品。このブログを書き始めた2009年の一年前の2008年に開催された「与謝蕪村展」を見に、滋賀県まで二度も車で出かけ、発見されたばかりの『山水図屏風』を観てきたことがあったのだ。こちらから訪ねても行きたい展示をサントリー美術館がお出で願った構図と私には見える。
その時のことから書き始めたい。2008年4月、まずは妻と二人で信楽に出掛けた。7年前のやや曖昧な記憶の中で鮮明なことは三つ。山中に建てられた「MIHO MUSEUM」の壮大な建物とそこから眺めた山岳風景。蕪村描く山水図とオーバーラップした。熱海のMOA美術館と共通するが、宗教法人が母体となっている美術館は金に糸目を付けない、を実感した。(写真観賞ははこちらへ。URL
http://conton.jp/archives/771 )
(山水図屏風 右隻)
(山水図屏風 左隻)
5月には妻とその友人のTさんと私の3人で訪れた。蓼科の山小屋を起点にし、Tさんと私の交互運転で、中央高速道と新名神高速道を利用して信楽まで遠出した。宿泊先は一度目の信楽行で知った窯元「顕三陶房」。焼上がった陶器に囲まれての2泊だった。食事は自炊。ご近所の商店街に出掛け近江牛を購入した。一ヶ月後に胃の全摘手術を控えていた妻は”今生の胃納め”と言って、二回の夕食ともしゃぶしゃぶにした近江牛の柔らかかったこと。(顕三陶房の宿泊棟)
三つ目の記憶は目玉展示の、発見されたばかりの「山水図屏風」。銀箔を貼った六曲一双の屏風で、河から庵へと道が続き、その山道は更に山奥深くへと消えてゆく。私はこの道に沿って山へ登っていくような感覚でこの屏風を鑑賞した。壮大な山塊を描き切った壮大な絵。蕪村が俳諧のみならず、絵画でも超一流であったことが良く分かるこの展示は、近世絵画史研究家の第一人者辻惟雄を館長に迎えた「MIHO MUSEUM」ならではの企画と、唸らされて信楽を後にした記憶がある。
ガソリンが、1リツトル180円台の高値の時だった。
今日の一葉:江岸寺に咲く御衣黄桜(花が緑)
本書は、江戸時代の天文学者麻田剛立(あさだごうりゅう)の、生誕から没までを描いた伝記小説である。天明年間に、日本初の天文塾を開き、日本の近代天文学の礎を築いた剛立。その弟子たちには、寛政の改暦を成し遂げた高橋至時と間重富などの俊英がいて、その高橋至時の門人に、かの伊能忠孝がいた。
1734(享保19)年、豊後の国杵築藩の儒学者綾部安正の四男として生まれた采彰(後の麻田剛立)は、既に16最のときに、自分の計算した結果をもとに日食を予言。これは幕府の暦にはないもので、1763(宝暦13)年9月1日に、実際に彼の予言通りに日食が始まったとき、杵築の町じゅうは歓声と興奮に包まれた・・・最初の快挙だった。
後年、天体望遠鏡を頼りに描いた月面観測図は、半月の中に十一個のクレーターと月の海のみが描かれた素朴なスケッチではあったが、日本最古の月観測図。その業績が讃えられ、クレーターには「アサダ」の名が冠された。
順風満帆の人生ではなかった。医学者でもあった剛立は藩主の侍医として奉公していたが、侍医仲間から妬まれて孤立し脱藩。大坂(現在の大阪)での浪人生活の苦難を味わった時代が長かった。
観察に明け暮れた人生だった。独自に改良した観測器を使い、たくさんの観測データを積み上げ、天体の法則を計算した。生涯をかけて観測したのは日食と月食。その集大成として『時中暦』を書きあげた。独学で「ケプラーの第三法則」をも発見していた!
多くの人に支えられた人生だった。父母はもとより、脱藩を理解してくれた藩主・解剖書を共同作製した中井履軒ら・観測活動を共にした至時や重富・故郷からの書で剛立を励まし続けた条理学の祖三浦梅園。それも、栄達よりも天文学の道に生涯を費やした、彼の人柄の故のことだった。(右写真クレーター・アサダ)
本書は最初「くもん出版」から上梓され、第4回福田清人賞を受賞。2年前に「角川ソフィア文庫」として再登場した。「くもん」から出版された当時、著者はこども向けの著作を念頭にしていたと思う。それ故、記述が丁寧で、日食・月食の図入り説明や太陰暦・太陰太陽暦・グレゴリウス暦などの解説がなされ、観測器具の写真も掲載されていて、江戸天文学の入門書にもなっている。
著者は最後に「あなたは、麻田剛立の生き方から何を学びましたか」と問い、「壁の越え方を学んでほしい」と記した。著者自身本書を完成するのに日本各地を旅し、長年の月日を費やしている。
二人を通じて感じるのは、“一つのことに打ち込み、のめり込むことの大切さ”だ。