マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

越後への旅(その3 福島潟)

2015年04月25日 | 

 今回の、越後への旅の切っ掛けは、ジパング倶楽部発行の定期刊行誌に載っていた新潟案内と写真だった、そこに登場していた、普通の観光案内では見かけない、瑞々しい写真を見て、妻は是非ここを訪れたいと私に語った。毎年春に妹夫婦と出掛ける桜巡りの旅を、来年は“潟”巡りの旅にしたいと、妻は計画を練り始めた。それから約1年、漸くその“潟”の象徴とも言える福島潟に到着したのは、4月17日(金)12時過ぎ。雨は本降りになっていた。(ジパング倶楽部刊行誌より)






 福島潟探索の中心にして出発点は≪水の駅「ビュー福島潟」≫。市島邸へ向かう車から見えた、床が螺旋形に見えた建物。4人が異口同音に「ありゃ、何んの建物だ」と叫んだ建物が「水の駅」だった。実際3階までは普通の建物と同じだが、4階からは一本の螺旋状の床で6階の展望室へと続いていた。
 3階レストランで昼食を摂る間にも雨は止まず、そこから菜の花畑と、潟へと流れ込む川と流れ出て行く
水路を眺めていた。


 (こちらは「水の駅」3階からの眺め)


 幸運なことに昼食が終わると同時に雨が上がり、私たちは潟の散策に出発した。潟の縁に立つと、目の前に一面の菜の花と水面が広がり、遥か彼方に五頭山系の山並みが霞んでいた。この旅の切っ掛けとなった写真と同じ光景が目の前に展開され、私は心豊かな思いに満たされ、暫し陶然として佇んでいた。






 
休息所「潟来亭(かたらいてい)」に入っていた妻や妹夫婦から、私に声が掛かり、そこに入っていくと、20畳ほどある部屋の囲炉裏では薪が勢いよく燃え、その傍らにボランティアの、やや高齢の男性が二人座っていた。そして、福島潟の歴史や、毎月の探索会のことなどを熱心に語ってくれた。冷えた体は、暖炉の火や、入れて頂いたお茶で温かくなり、おもてなしの心意気が伝わってきて有難くも嬉しく感じられた。


          (潟来亭)

 江戸初期の『正保越後国絵図』によれば、2000ヘクタール近い塩津潟や福島潟など、大小100を超える潟湖の存在が記録されているそうな。そこには水と闘いながらその恩恵を享受する「潟端の暮らし」と呼ばれる暮らしがあった。現在でも福島潟には220種以上の野鳥が生息し、オオヒシクイなどの渡り鳥が飛来し,さまざまな生物の宝庫でもあるという。
 すべてを干拓にする計画もあったらしい。水害にも益すると判断され干拓を免れたとも聞いた。タイムカプセルに閉じ込めて仕舞いたい日本の原風景。
 福島潟から瓢湖を経て、桜が満開だった湯宿「ゆらりゆら 水鳥の宿 さきはな」に到着したのは17時を回っていた。
 今日の一葉:瓢湖に残ってしまった白鳥