マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

神田上水遺跡を見学

2011年12月21日 | 江戸の川・東京の川

 12月20日(火)の昨日、神田上水の石樋遺跡見学会が、旧文京区立第5中学であり、見学して来ました。旧第5中学校は、町名で言えば文京区小日向2丁目、江戸川橋から神田川(旧名平川を経てかっての江戸川)を300mくらい下ったあたりにあり、音羽の谷と茗荷谷に挟まれた小日向台地の南側縁辺部に位置します。かってこの辺りを神田上水が流れていました。今回の遺跡は建築工事の途中で発見されたものではなく、中学が廃校となり、新たな建物に改築するまでの”空白”の時間を利用しての、計画的発掘の賜物だったようです。


 寛永の頃、神田川は関口の大洗堰で、神田上水とに分かれました。上水は、その後白掘(蓋の無い流れ)の状態で水戸上屋敷(現小石川後楽園)に至り、そこから先は地下に潜り、現工芸高校前あたりで再び姿を現し、木樋となって神田川と立体交差し、江戸の町に流れ入りました。(写真:工事現場を見下ろす見学者)




 第5中学のあった小日向台地南側辺りでは、神田上水が白掘であったことは古地図からも伺えます。水質の保全が問題になった為かと思われますが、明治9年頃、その白掘にアーチ状の巻石の蓋が掛かります。神田上水沿いの通りが巻石通りと呼ばれている所以です。その巻石の掛けられた神田上水、明治34年に飲用水としての役目を終え、その後は、径三尺の鉄管2本に替わり、小石川後楽園への給水も昭和10年頃に終了したそうです。(写真:発掘された上水路の一部)



 今回の調査では、神田上水の白掘と推測される2本の流路が確認されたそうです。説明会には多数の参加者が訪れ、この上水への関心の高さが分かります。その説明会で聞いた話を総合すると、流路は次の様な構造になっていたようです(右図参照)。流路の底を粘土とし、上水の両サイドの一番下に胴木、その上に2~5段の石積み(間知石)、最上段に天端石(防州石)を置き、深さ75cm程度、幅3mに組み上げて、流路は出来上がっていました。更に明治9年に巻石のアーチで蓋がされます。(写真:張り出された流路の断面図)



    (出土した、右端の間知石と中央の天端石)


 まだまだ調査・研究の途上にあるようです。近世都市江戸を代表する神田上水の本調査は、城下町の都市化に伴う飲用水のあり様を考えるうえで貴重な情報をもたらすことでしょう。
 思えば20数年前の見学会で、現工芸高校前から地下に潜り、神田上水の当時の姿を見学出来たことは実にラッキーでした。私の中で、神田上水のあり様がイメージ化出来るようになりました。
 


湯フェス VOL6@ ふくの湯(リニューアルオープン記念イベント)

2011年12月19日 | 身辺雑記

 お風呂屋さんの真正面に描かれた絵を背景画(あるいはペンキ画)と呼ぶそうです。その背景画を壁に描く作業の実演というイベントがあり、12月17日(土)に「ふくの湯」へ見学に出掛けました。
 文京区の銭湯10ヶ所を11月中には全部巡る計画は順調には進まず、現在8ヶ所を廻ったに過ぎません。その8湯のうち朝湯を実施しているのは、我が家から徒歩10分強の「富久湯」のみ。大変有難く利用していますが、11月から改修工事に入り、この間利用できませんでしたが、改築終了し、12月18日(日)から、名称も「ふくの湯」と改め営業再開です。その前日の17日には音楽のライブのみならず、背景画描画のライブも実施するとの事でしたから、滅多には見られないイベント、勇んで出かけました。
 実演開始前に新装なった銭湯の内部の様子の様子をじっくり拝見すると、多くの銭湯とは全くちがった造りになっています。まず更衣の板の間に男女の境がありません。この謎はすぐ解けました。境は嵌めこみ式の戸で、本来はその境の戸の前面に置かれる移動式更衣箱が今日だけは男性側に移動されています。普段の営業となればその境に戻されます。

 風呂の内部の男女の境目も今日は開放されていて、片方から片方が良く見渡せます。普段ここは、大黒天などの絵が画かれた嵌めこみ式板が境となります。要するに、普段の男女の境目の戸は、時としてイベント実施の時は取り払われる仕組みとなっているのです。(大黒天の湯側から弁財天の湯側を見る)





 この日の見学者100名は超えていたでしょう。銭湯で使う腰掛けが、今日は見学者の座席に早替わりし、14時15分、実演が開始されました。組まれたヤグラの上で筆を振るうは三人。うちお二人は丸山清人さんとその弟子の中島守夫さん。もうおひと
方は、中島さんのお弟子さんらし若き女性。(ペンキ絵師 丸山清人さん)






     (ペンキ絵師 中島守夫さん)



 解説兼司会は銭湯博士との異名のある町田忍氏。背景画は関東以北が中心で、描く人は、既に日本には2人しかいないそうで、そのお二人の登場です。二人は何も描かれていない大きなキャンパスに刷毛を振るい始めました。見ているうちにあっと言う間に富士山の外形が描かれ、間もなくして右「弁財天の湯」の背景画には、三保の松原から見た、雪のまだ残る富士が、左「大黒天の湯」の背景画には紅富士(朝焼け富士かも知れません)が姿を現しました。(写真:三保の松原からの富士 途中図)




         (紅富士 途中図)





  (三保の松原からの富士 完成間近図)




 完成までに2時間弱。私は用事の為中座しましたが、細部を除いてはほぼ完成。その出来栄えの見事さと短時間の完成に、プロの、職人の、技と腕の冴えを見せて頂きました。(写真:紅富士 完成間近図)










    (紅富士 完成図 19日写す)


生涯スポーツとしてのボウリング

2011年12月16日 | スポーツ

 実はこのところボウリングに凝っています。生涯スポーツに相応しいとまで思っています。年老いた身に物凄い体力を必要としないスポーツで、それなりに楽しめるからです。そうは思いつつ実行には至らないで月日が流れてしまいましたが、このところ実行出来る条件が整いました。
 我が家から近いボウリング場は3つあります。王子と高田馬場と後楽園です。その内、後楽園へはシルバーパス利用で、しかも短時間で行けるようになりました。更に、一度出掛けて知ったのですが、靴代込みで、シニアー平日2ゲームが700円、3ゲームが900円と非常にお安く利用出来ます。更にその上に、同好の士が少なくも3人はいます。同じ町内福寿会の健脚3人組みと、時としてKO夫人も交えて行くことが多くなりました。。
 私はあまりスポーツが得意ではありません。ゴルフや水泳は今のところ物になっていません(今のところですが・・・)。ボウリングには一条の光明を見出していました。過去のある大会で入賞した事があったからです。そんな過去を持ち、将来への期待から、兎も角のめりこんで見ようと決意して何度か後楽園ボウルに出掛け始めましたが、あまり結果は付いてきませんでした。ただ楽しいのは、自分の投球動作とボウルの流れとの関係を試行錯誤しながら、色々考えられることです。何故直前にボウルはカーブしないのか。何故直前にボウルは右に流れてしまうの等々。
 3日前の12月14日(水)はKOさんの妻さんも参加し4人で後楽園ボウルに出掛けました。その第1ゲームで私は160点台を出しました。まぐれです。それまでは85点~140点を行き来しきていましたから。まぐれでも良い点は励みになります。まだまだ続けたいし、練習を積みたいと思っています。老婦人が二人でボウリングを楽しんでいる光景も目にしました。どの年代でも楽しめる、生涯スポーツに相応しいゲームかつスポーツです。
 


『坂道 ぶんきょう展』を観る

2011年12月15日 | 

 私の早朝の散歩道には坂が多い。例えば谷中墓地のある上野台地へは、本郷台地から動坂を下って不忍通りの谷筋に出て後、富士見坂(荒川区)を上ります。小石川植物園へは、白山台地から網干坂を下って千川通りの谷筋に至り、この時刻には入園出来ないので植物園の正門は見るに留め、そこからの帰りは御殿坂を上って白山台地に戻り、蓮華寺坂を「東大下水」に下り、薬師坂を上って本郷台地へ戻って来たりします。
 そんな訳で文京区に坂の多い事は体験上分かっていましたが、2・3読んだ本の知識から、『文京区が武蔵野台地の東端に位置し、その武蔵野台地をいくつかの谷が刻む形になっていて、それら台地と谷、台地と低地をつなぐそれぞれの道が坂道になっている』ので、坂が多いことも知っていました。ただ断片的知識に過ぎません。

 そんな折「坂道 ぶんきょう展」が10月22日~12月4日まで、「文京ふるさと歴史館」で開催されていて、奈良・京都から帰京した翌日の12月4日(日)に出掛けて来ました。もう少し文京の台地と谷と坂を総合的に捉えておきたかったのです。辛うじて開催期間中に間にあいました。(写真:特別展図録を写す)








 1・2階が常設展で、地下一階が「坂道」展です。地下へと続く階段の側面には坂道の写真が展示されていて、工夫を凝らした「坂道」展への導入です。
 構成は4章からなっていました。
 第1章 台地と低地がおりなす町文京
 第2章 絵と写真で見る文京の坂道
 第3章 地図・絵図・地誌で見る文京の坂道
 第4章 文学に見る文京の坂道


 まず目に飛び込んできたのが”文京区の台地と川・谷”のパネルです。これを見ると台地と谷の関係が一目で理解出来ます。その図の中で、今は暗渠になっていてその存在が目では確認出来ないかっての川も、青い線で描かれています。日頃の散策で、私は「ここに川が流れていたはずだ」と確信していた事が裏付けられ嬉しくなりました。第1章には、台地からの眺めが浮世絵で登場し、これまた楽しです。(写真:図録より。台地と川・谷のパネル)



 文京には名前の付いた坂だけでも115ヶ所あります。第2章ではそれぞれの坂の、昭和と平成の写真2枚が展示されていて、特に昭和の写真は私の懐古趣味を満たして呉れました。モノトーンの写真に対し、浮世絵が色彩感を与えてくれます。浮世絵では、富士山と神田川が主役を演じていました。(写真:図録より。浮世絵に見る御茶ノ水の相生坂と神田川)
 





 明治時代には漱石や鴎外、一葉などがこの地に住み、彼らが歩いた坂道を題材にした多くの文学作品が生まれました。そこに焦点を当てたのが第4章です。560円で購入してきた特別展図録の最後に、森まゆみさんが「鴎外の坂 一葉の谷」なる一文を寄せ、鴎外・一葉・漱石・啄木の著作から、特に坂の登場する作品を紹介していました。上手な紹介文で、それらの作品に接したくなります。
 「ぶんきょうの坂道」なる冊子も併せて購入し、帰宅後冊子を見ると115ヶ所の坂の全ての解説が載り、私が歩いたことのある坂を数えると約半数の55ヶ所ほど。百名山の時と同じで、全て歩いてみたいなとの気持ちになり、早速実行に移し始めました。
 


井の頭公園から神田川・美し乃湯へ

2011年12月13日 | 東京散歩

 昨日の12月12日(月)、福寿会健脚3人組で、中央線吉祥寺にある井の頭公園から、井の頭線高井戸にある天然温泉「美し乃湯」までを散策して来ました。晴天が続くこのところの天候、昨日も快晴で、気持ち良い散歩日和でした。
 行程
 吉祥寺駅→井の頭公園→神田川→稲荷神社→久我山駅→玉川上水→第六天神社→吉祥院→美し乃湯


 井の頭公園へは何時来たのか思いだせないほどの遥か昔に一度だけ来たことがありました。池の周りにはまだ紅葉が残り、優しい冬の日差しを浴びて多くの人の憩う姿が見られます。散策する人・絵を描く人・ランナー・サイクリングの人・ベンチで本読む人、皆それぞれの平日のひと時、公園は長閑な雰囲気に包まれていました。(写真:公園内の紅葉と寛ぐ人々)



 私たちは辦財天にお参りした後、昼食に公園内の「泳遊亭」と書かれたお蕎麦屋さんに入りました。注文したのは3人とも「小海老の天麩羅蕎麦」。ここのお店を一人で切り盛りしているらしき、歳いったご亭主の作る、揚げたての天麩羅が乗る蕎麦を食しました。温かい天麩羅が殊の外に美味。食べ終える頃には蕎麦湯まで出て来ました。温かい蕎麦を食べた時の蕎麦湯のもてなし、初めての事です。この特別のサービスも嬉しく、気も心も温かくなりました。客は私たちのみ。これでこの店やっていけるのだろうかなどと要らぬ心配をしながら、”隠れた名店”を後にして、神田川へ。(写真:泳遊亭室外の椅子席)



 神田川はここ井の頭公園を水源の一つとして、途中善福寺川・妙正寺川と合流し、お茶ノ水を通り隅田川へと注ぐ一級河川で、ここ井の頭公園から24.6Kmの旅路を開始するのです。都心でも暗渠とならず、時折の散歩でよく見かける、馴染み深い川の、その上流の様子を見たかったのです。(写真:神田川最上流)






      (鴨達も憩いのひと時)



 流れは清流とまではいきませんが、錦鯉泳ぐ小川です。川の両サイドではのんびり過ごす人も多数。私たちは川沿いの道を落ち葉を踏みしめ進みます。途中から川面は視線から随分と下に来ますが、井の頭線と神田川は付かれ離れず、時に交差しながら高井戸まであい寄り添うように進みます。(写真:川の先は井の頭線)


 

 途中、稲荷神社に参拝後、久我山駅からは玉川上水を目指しました。緩い坂を昇りながら歩くこと10分強で玉川上水へ。江戸承応年間に僅か1年半で完成したと伝えられるこの上水、残念ながらこの近辺では細々とした水量しかありません。しかも川の片側は建築予定の道路の為、空き地として柵で囲われている為、風情は失われています。この川沿の道を暫く進むと暗渠です。その先は中央自動車道が奔っています。この道路の建設が暗渠化に影響を与えたのかなどと考えました。
 高速道路の下辺りは別名”寺町”で第六天神社・吉祥院などを巡り、最後に到達したのが美し乃湯。ここで汗を流し、高井戸から帰路に着きました。歩いた総数は比較的少なく17000歩くらい。
 今日巡った神社仏閣、いずれも想像していたより大きく、由緒も歴史もありました。特に調べもせずに出向いてしまいましたが、都内には私などが知らない数多くの由緒ある寺院が存在する事を改めて実感したのでした。