今年の3月14日の事です。元生徒さんのFさんとSさんとの3
人で”やねせん”を散策しました。
出発点はよみせ通り沿いの魚貝三昧”彬”。ここで、軽い一杯
で再会を祝し、腹ごしらえをしてから出掛けました。かっての藍
染川は今は暗渠となっていて、その曲がりくねった細道は”へび
道”と呼ばれています。見事なネイミングです。
生憎この日は雨模様でしたが、谷中銀座を抜けて”夕やけだ
んだん”を上ると、”やねせん”の街並みや、本郷台地が見渡せ
ます。この道を真っ直ぐ進むと日暮里駅。その手前を右折すれ
ば改築中の「朝倉彫塑館」。マーちゃん一行は左折です。この台
地は「上野台地」と名付けられていますがが、この一帯は「諏訪
台地」と呼んだ方が分かり易いかも知れません。「安全横丁」の
看板も目に入りますが、「諏訪台通り」とも書かれています。JR
山手線に平行な台地上の狭い車道。元生徒のSさんの菩提寺
がこの台地上にある「浄光寺」と聞いて、「浄光寺」を目指したの
でした。
この「諏訪台通り」を西日暮里方面に進むと、先ず右手に「養
福寺」が現れます。真言宗豊山派のお寺で、丁度1年ほど前、
三遊亭兼好さんの真打昇進を祝う落語語りの会が行われたの
が、この「養福寺」。荒川区指定文化財の「仁王門」をくぐり、寺
の座敷で兼好さんの語りを堪能したことを思い出します。
「養福寺」を通り過ぎると左手に「富士見坂」。「ダイヤモンド富
士」が見られる事で有名です。
「ダイヤモンド富士」とは、太陽が富士山の真後ろに沈むとき
の輝く様な富士山です。「ダイヤモンド富士」を撮影するなら、例
えば「文京区役所 シビックセンター」の展望台の方が遥かに優
れているでしょう。だがこの「富士見坂」は、地上に居ながらにし
て「ダイヤモンド富士」が眺められるのです。その点にこの坂の
大きな価値があり、それ故評判になっているのです。
更に進むと、いよいよ「浄光寺」。今日はお参りはしません。
お寺の由来が書かれた看板を読むと「雪見寺」と書かれてい
ます。江戸時代、この台地から見下ろした、野原一面に積もった
白銀の世界は見事だった事が想像できます。更に又「筑波山」
の秀麗な姿も遠望できたことと思われますが、今日は全く見渡
せません。「諏方神社」の別当だつたとも書かれています。
その「諏方神社」は”諏訪神社”とは書かれていません。鬱蒼と
茂った樹木の中に、荘厳な佇まいの神殿。ラジオ体操会場の立
看板もあります。少し見晴らしの良いところへの歩いていくと、階
段が目に入りました。この階段初めて気が付きました。西日暮
里の改札に通じる階段かと思い、下り始め左折すると、駅全体
が見渡せ、その階段を下りきった先の道は、改札口へ通じる道
では無く、トンネルの様にJR線路の下を潜り、西日暮里の繁華
街に通じていました。
散策は西日暮里駅横の切通から急坂を上り「西日暮里公園」
(かっての「道灌山」)で無事終了。いずれ再度の散策をと、思い
ました。
帰宅して気が付きました。台地から下る階段が続く道の方がJ
R線路より”先住民族”のはずだと。既に存在した道をそのまま
に残し、線路を高架にしたはずだと。このことを調べようと、余り
使わなかった「江戸重ね地図」ソフトを久しぶりに開きました。
図1は yahoo の地図での「諏方神社」付近。「諏方神社」の文
字の上に階段の様子が微かに見えます。
図1
図2は「江戸重ね地図」ソフトによる、「諏方神社」近辺。「諏訪
神社」の文字上にその階段図が見られます。線路下を潜る様子
は残念ながら地図上では見られません。が20番地付近への道
に繋がっています。
図2
図3は、図2と同一位置の江戸時代の地図。「重ね地図」はパ
ソコンの操作一つで、一瞬にして、現代の地図と江戸時代の地
図の間をタイムスリップします。「諏方明神」の文字の右側から
「新堀村」と「新堀村」の間を縫うようにその階段(或いは急坂)
と道が描かれています。想像したとおり、その階段と道は江戸時
代に既に作られていて、諏訪台と低地を繋ぐ、多分重要な道だっ
たはずです。
図3
図3には「諏方明神」「別当 浄光寺」「養福寺」が見え、「修性
院」と「妙隆寺」(現在は法光寺)の境界線が現代の「富士見坂」
かと思います。
「雪月花」に因んで、”雪見寺”の「浄光寺」、”月見寺”の「本行
寺」、”花見寺”の「修性院」がこの近辺に点在します。