昨年の中山道行で和田峠(標高1600m)を越えたのは、3ヶ月以上も前の11月4日(日)だった。 その前日の3日(文化の日)の14時頃には宿泊予定の民宿「みや」に到着し、荷物を預け身軽となって、そこから和田宿まで歩いた。「みや」のHPを見ると、「当民宿は長久保宿と和田宿の中間に位置し、我が宿より先に宿はありません。食事が出来るお店もありません」なる主旨が書かれていた。必然的に「みや」に宿泊することとなり、前日のうちに和田宿まで6Kmほどを歩いておき、車で迎えに来てもらったのだ。道筋にはコンビニも無ければ営業をしているお店もなかった。
4日、早目の朝食をとり、用意してもらった昼食(おにぎり)をザックに詰め、宿発7時の車で和田宿まで送ってもらった。大変親切な民宿だった。(写真:和田宿本陣跡)
和田宿は江戸時代には峠越えの旅人の往来で賑わったことだろう。しかし今その面影は殆ど残っていない。無人の里といった佇まい。和田宿から和田峠を越えて下諏訪までは22Km。気を引き締めて標高差600mはある和田峠を目指して、登山の心積もりで和田宿を7時30分には出発した。
歩み行く道は緩い勾配の山道で、所々には往時を偲ばせる石碑が残り、紅葉も残っていて目を楽しませてくれたが、日没前までには下諏訪宿に着きたい一心で、ゆったりと遺跡を味わう心の余裕はなかった。
最初に到達したのは唐沢一里塚。ここの一里塚は日本橋から数えて51番目の一里塚。概算で江戸から204Km(51×4)の地点。和田宿⇔下諏訪宿だけで6つの一里塚と書かれていて、その間の距離の長さを改めて思い知らされた。
三十三体観音を過ぎる辺りからビーナスラインが見え始めた。
遂には中山道はそのラインによって寸断され始め、コルゲート管を潜ることともなった。かつてはビーナスラインを「中山道」の看板を見ながら車で通り過ぎた。何度となく通過していった地点を複雑な思いで越えると程なく和田峠に到着した。和田宿を出てから4時間30分。(写真:この隧道の上をビーナスラインが通っている)
そこは「古峠」と書かれていた。江戸時代、大名の参勤交代だけでなく一般の旅人の人馬で賑わった峠も明治時代に作られた新道によって急速に利用者は激減していったそうな。展望は得られなかったが一つの目標点に達し菅原さんも熊倉さんも満足そうだった。
今回の旅行では、残念ながらダイヤモンド富士は見られなかったが、冬花火・紅富士の他に月富士(?)も見ることが出来て満足だった。 旅行2日目の17日(日)午後、富士山頂は雲に覆われていた。これではダイヤモンド富士見学会のバスは出ないだろうと予想していたら、「現地まで行きます。そこで駄目だったら諦めがつきますから」とのことで、16時にマイクロバスはホテルをスタートした。当然ながら見学地点は毎日移動するそうな。この日は旭日丘付近の湖畔にはすでに多くの人がカメラを構えていた。一時は山頂は見えていたが、やがて山全体が雲に包まれ始め、カメラマンたちは三脚を閉じ始め、この日は”絶望”と悟った。(写真:ダイヤモンド富士を待つカメラマンたち)
19時からは河口湖畔へ。20時丁度花火は上がった。見学者はそれほど多くはなく、20分ほどの小規模な鑑賞会だったが、真上に上がる花火は美しかった。打ち上げ地点の間近で見ていたので、不発弾ががゆっくり落ちて来るおまけまで見られた。
河口湖から21時過ぎに帰ってきて、部屋での遅い夕食。用意しておいたミートローフと果実酒を味わった。果実酒はソルダムを漬け込んだもの。澄んだ紅色に仕上がっていた。
夜中、ふと窓外を見ると微かに富士が見え、慌ててベランダに出た。もう23時を回っていたが、暗闇の中に真っ白な富士が浮かび上がっていた。初めて観る幻想的な富士山だった(帰りのマイクロバスのなかで、その風景を見た人は、怖かったと語っていた)。花火鑑賞会の時に気が付いたのだが、この日は十三夜で、月の光が富士山を照らしていたのだ。私達は勝手に月富士と呼ぶことにした。
翌朝は快晴で、日の出前に展望台に立った。この時期だけに見える紅富士。この日の日出時刻は6時半。富士山には地上より10数分前に日が射し始め、それが紅に染まり出した。撮影した写真をみると、肉眼で見るほど紅色は鮮明ではない。
会計を済ませると、「宜しければ」と富士山の、A4の大きさの写真を7葉プレゼントされた。その中には赤富士もあり紅富士もあった。最下段に2枚並べたが、赤と紅の違いが鮮明となる。
16時には帰宅し、18時にテレビをつけると、「山中湖でダイヤモンド富士」の映像が流れた。現地に留まっていれば見られたダイヤモンド富士。やや残念・無念だっが・・・。
山中湖
紅富士
日出
ハーヴェストからプレゼントされた写真(上が赤富士で下が紅富士)
東急ハーヴェストクラブの会員になって31年目になる。この間ホームグランドは勝浦・京都・天城高原と推移してきたが、2・3年の空白期間を除きほぼクラブの会員であり続けてきた。会員には毎月「ハーヴェスト便り」が送られてきて愛読している。その1月号にだったか、「マウント富士」のイベントに「ダイヤモンド富士と河口湖の冬花火」が紹介され、しかも飲み放題の日が掲載されていた。その3つ全てに参加できる日を調べ、2月16日(土)~18日(月)の滞在の予約をした。
16日(土)バスタ新宿を12時15分にスタートすると「マウント富士入口」着が14時30分。ホテルの迎えのバスに乗り換え14時50分にはホテル着。幸運なことに富士急バスでの移動中に「朝日杯将棋オープン戦」の準決勝・行方八段対藤井七段戦を観戦出来た。藤井七段側からみると自分の”陣地”には相手の駒が殆ど入ってこないほどの圧勝だった。(藤井聡太七段は14時30分から行われた決勝戦渡辺棋王戦にも勝利して、朝日杯連覇の偉業達成) 到着して直ぐに右掲示に気が付いた。ここ「マウント富士」のウリは富士の眺望だけでなく紅富士にもあった。翌朝の日の出12分前には、ベランダに出ようと考えた。
ここは風呂を新設してもいた。露天風呂から富士山が眺められる造りになっているそうな。妻は入浴経験があったが、私は未経験だった。藤井七段の勝利を観終えたあと露天風呂に向った。コンパクトながらの綺麗な露天で、入浴しながら富士が見えるはずだが、この時は裾野しか見えなかった。
夜のバイキングはこの日限りの飲み放題のプレミアがついていた。普通に注文すると860円の生ビール一番しぼりを3杯、他の冷酒や赤ワインにも味わってしまった。(写真:レストランから外のイルミネーションを撮影)
翌17日、朝は6時20分には露天風呂から上がり紅富士を待ったが、残念ながら薄い雲に遮られて満足のいく写真撮影は出来なかった。
それでも高台にあるホテルからは旭日丘方面の日の出・山中湖・南アルプス北岳などが展望出来てカメラを向けた。(写真:南アルプの主峰北岳)
”はなれの湯”は12時から入浴可能で、今日も入浴すると貸し切り状態だった。
「マウント富士」は露天風呂が2つに増え、プール利用も可能など滞在型リゾートとしての利用価値が増したように思える。
今日は午後のダイヤモンド富士見学会と夜の河口湖花火鑑賞会に参加予定だが、果たして快晴となるか?
以下撮影の写真4枚
左図は瀧山寺本堂入口に掲示されていた案内図にA~Eの記号を書き込んだもの。
当日、私達は、A→B(宝物殿)→C(本堂とその周辺)→D(滝山東照宮)→階段Eを下る→Aと一周して来た。
宝物殿を後にし、まずは瀧山寺本堂にお参りした。上の図を見ても分かる様に本堂(C)の右側には滝山東照宮(D)が、後ろには日枝神社や稲荷社が建てられている。瀧山寺は多数の神社仏閣を要する一大お山の中心に位置している。 本堂は貞応元(1222)年に足利義氏が建立したとある。その義氏の五代後に足利尊氏。前回のブログに登場させた「系譜」で、尊氏の系譜を遡っていくと、頼朝同様、熱田神宮宮司に行きつく。室町幕府の将軍の出自も鎌倉幕府将軍の出自と同じなのだ。
重文の本堂は屋根が真新しく端正に見えた。建物の様式には疎いが、和様・唐様・天竺様を取り入れた様式は当代の名工の手になった会心の作で、唐様であるところに最大の特徴と書かれている。鎌倉の建長寺の建立より30年も早く唐様の手法が取り入れられ建立されたからか、明治37年には重要文化財の指定を受けているそうな。 本堂隣に鐘堂。鐘の寄進者は徳川綱吉とある。家光の四男による寄進だ。妻はお話会「柳沢吉保と六義園」の時に、綱吉の功罪について語ったが、”最大の功績は社寺等文化財の改修”、それを目の当たりにしたことになる。
次いで、滝山東照宮へ。住職は三大東照宮として日光・久能山とここ滝山を挙げていた。日光・久能山は別格として三番目は異論のあるところらしい。私は上野東照宮は欠かせないと思うが如何。(写真:拝殿)
中門から先は閉ざされていて本殿へは入れなかった。後で気が付いたが、このお寺・神社の参詣者には殆ど会わなかった。寺発行のパンフレットには「明治維新後は禄高没収となり将軍家の庇護もなく現在に至っている」と書かれている。かっての栄華は既に失われていて、天下の奇祭「鬼祭り」にのみ凝縮されてしまったようだ。(写真:本殿)
その起源は鎌倉時代に遡る、愛知県指定の無形文化財「鬼祭り」をWikipediaで見ると”この祭りのクライマックスの「火まつり」は圧巻の一言。国重要文化財である本堂に30を超える巨大な松明を持ち込んで、半鐘やほら貝をかき鳴らしながら鬼が乱舞する”そうな。今年は2月16日(土)に行われる。
一日のみでは受け止めかねる多くの歴史的事実に出合い、長旅にも疲れ、ホテルに戻って来たのは18時を過ぎていた。
運慶仏は現在35体が確認されているらしい。その分布図を開きながら、瀧山寺住職から「運慶仏は彼が制作に励んだ奈良を中心とする関西圏と、その後移り住んだ鎌倉を中心とした関東圏に集中しています。そのどちらにも属さないこの瀧山寺に何故運慶仏が存在するのか分かりますか」と問いかけられた。(最下段に運慶仏の分布図) 住職は懐中電灯で右の家系図を照らしながら語った。頼朝の母は熱田神宮々司の娘で、頼朝は瀧山寺住職寛傳とは従兄弟の関係だ(瀧山寺には代々熱田神宮から住職が派遣されて来ていた)。頼朝は母の出自を誇りに思っていたから、僧寛傳は頼朝の3回忌に、頼朝の知遇を得ていた運慶(とその息子湛慶)に造仏を依頼した、との話を聞いて、私は瀧山寺に運慶仏が伝わって来た由来を納得した。
更に更に続く話は、エピソードとしてまとめてみよう。
エピソード1。真如苑がニューヨークで運慶仏を競り落とした人物が瀧山寺を訪れたことがあった。その人の語るところによれば、真如苑からは3億円で競り落とすことを依頼されていたが、オークション当日に強敵が現れ、競り値はどんどん上がっていった。どうしようか真如苑に相談すると12億円が限度とのこと。その値段より上の13億円直前で相手が降りたので、辛うじて手に入れることが出来た。
エピソード2。X線撮影は腹部あたりが中心だつた。『瀧山寺縁起』に書かれている頼朝の歯と髪は腹部にあると確信する方が撮影の際念のためと、頭部も撮影した。撮影結果腹部にそれらしきものはなにも無く失望してしまったが、万一にと撮影しておいた頭部の方にその存在が確認された。口元に髪と歯は存在し『縁起』の正確さが確認され、運慶仏と見なされることに繋がっていった。(半蔵門ミュージアムの大日如来坐像にもX線判定が使われている)
エピソード3。『縁起』の写し本は一部が墨で塗られていた。そこには”式部僧都寛傳”と書かれていることが辛うじて分かる。廃仏毀釈の折、熱田神宮からみてその6文字はあつてはならい文言。多分消去を命じたことだろう。命じられた側は服さねばならなかっただろうが、必死の抵抗で、塗りはしたものの後世に、その文字が読める様な塗り方をした。(これと似たような事実を18/04/08のブロブに書いた)
最後に住職から「この地には家光公寄進による、三大東照宮の一つがあります」との話を聞いて妻と私はビックリした。岡崎城の鬼門に当たるこの地に家光が東照宮を建立したそうな。その話を聞いて、私は寛永寺と上野東照宮との役割をこの瀧山寺と瀧山東照宮が果たしているのかと推測した。神仏習合の時代に寺と神社が並列して存在することは珍しくなかった。
鎌倉時代に瀧山寺は四百十二石の寺領を寄進され財政裕福な一時もあったそうな。
住職が所用で外出するのと入れ替わりにお内儀が説明をしてくれた。写真集などを買い終えて、今度は三尊を裏からも拝見した。貸し切り状態で、心行くまで拝観出来た。私が観て来た運慶仏からは力強さや意志の強さが見て取れたが、それとは別の、優雅さ漂う運慶三尊仏のあることを知った。女性的雰囲気の仏さま。
宝物殿を後にし、初めて耳にした東照宮へと急いだ。