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主に映画、ゲーム、同人誌の感想などをコンクリートミキサーにかけてブチまけた、ここはいいトシしたおっさんのブログ。

塚口サンサン劇場「ストリートダンサー」「ヘレディタリー-継承-」見てきました!

2024-04-25 23:27:54 | 映画感想
 はい、毎週木曜日は滑り込みの日です。昨日は足の小指の骨が折れてたので整骨院から大人しく帰りましたが、そうなると「ストリートダンサー」を見逃して一生後悔した後四百余州に仇なす怨霊として復活してしまうのは確定的に明らかなので今日は気合で見てきました。
 というわけで今日見てきたのはこれ!
 
 
 インド映画といえばダンスですが、本作はタイトルの通りダンスそのものをテーマとした作品。パンフレットによれば作中に登場するダンスチームは実在のチームで、主要キャラはもちろんのことサブキャラまでダンスパフォーマンスを得意とする俳優で固められています。
 ダンスチーム「ストリートダンサー」を率いる主人公・サヘージは、かつてダンスバトル大会「グラウンド・ゼロ」で決勝戦まで進出するもジャンプの失敗で足を怪我し、リハビリ中の兄のためにダンススタジオをプレゼントするなど兄思いの弟。そんなサヘージとライバル関係にあるダンスチーム「ルール・ブレイカーズ」のリーダー・イナーヤトは、さまざまな思いを抱えて再び開催されたダンスバトル大会「グラウンド・ゼロ」に挑む!
 本作の感想はいろいろ言いたいことがあるんですが、やはりまずは音響でしょうか。本作はダンスバトルがテーマということで迫力あるBGMが目白押しなんですが、これが塚口の重低音との相性がBATSUGUNにいい。
 たとえるならサイモンとガーファンクルのデュエット! ウッチャンに対するナンチャン! 高森朝雄の原作に対するちばてつやの「あしたのジョー」! …つうーっ感じっスよお~っ
 などと億泰になってしまうくらい前から後ろから上から下から重低音が襲いかかってきてたまらん。特にグラウンド・ゼロ準決勝のロイヤルズvsバード・ギャングのときの重低音たるや、空間全体が震えるかのような音響にわたくし思わず声が出てしまいました。これは映画館でしか、そして塚口でしか体験できない音響だと言えるでしょう。
 まあ塚口のことなのでいずれダンスシーンはオールスタンディングのマサラ上映をやらかすことはコーラを飲んだらゲップが出るくらい確実だと踏んでいるので、その際には揺れるぞ兵庫県。
 ダンスパフォーマンスがすごいことはもう言うまでもないでしょう。わたくし人形使いはダンスと言えば踊り念仏くらいしか造形がないので専門的なことは全然言えませんがカッコよすぎて笑えてきます。人間って鍛えればあんな動きできるんだなあ……。
 どのチームも個性的……というかまさに個性のぶつかり合いという感じなんですが、中でも本作のクライマックスである決勝戦、ストリート・ダンサーズvsロイヤルズは個性のより深い部分にある、それを構成する「文化」のぶつかり合いになってたのがいい。クラシック・バレエの動きを取り入れたロイヤルズに対して、妨害工作で音楽をストップさせられたストリート・ダンサーズは、プリミティブな太鼓の音に合わせてパンジャーブ地方に伝わる収穫の踊り「バングラー」で対抗するという。
 本作は当然のことながらダンスシーンが山盛りなんですが、作中で「ダンスは自己表現」という言葉がある通り、本作のダンスは単なるパフォーマンスや競技にとどまらず、どんな言葉よりも雄弁にキャラクターの心情を語ってみせます。その真骨頂とも言えるのが中盤、トップクラスのダンスチームであるロイヤルズにスカウトされて有頂天だったサヘージが、「グラウンド・ゼロ」での優勝を目指しているイナーヤトの目的が自分の名誉のためではなく困窮した路上生活者に賞金を寄付することだと知り己の行いを後悔するシーン。
 あのシーン、文字通り「筆舌に尽くしがたい」苦しみと悲しみが伝わってくるんですよね。そも、歌や踊りという芸術は人間の感情を仮託されたもの。自分の中だけでは処理しきれない感情を歌と踊りに託して表現するあのシーンこそ、まさに「自己表現としてのダンス」だったと思います。
 このシーン、「だれも見てない」っていうのもポイントなんですよね。作中のイナーヤトのセリフに「あなたのダンスは自己顕示。わたしたちのダンスは自己表現」というものがあるんですが、自己顕示って自己を顕示する相手である他者がいなければ成立しないんですよね。然るに、今まで観客やライバルの前でしか踊ったことがなかったサヘージが、はじめて「自己表現としてのダンス」を踊るシーンだったんじゃないですかねここ。しかも無自覚に。
 歌や踊りといった芸術や創作はしばしば救いとなりますが、このシーン、サヘージにとっては「手段」でしかなかったダンスによって、はじめてサヘージが救済されるシーンだったと思います。
 この「ダンスによる救済」と対になっているのが、悪人に騙されてロンドンで路上生活をする羽目になったアムリンダルの「ダンスによって救済されなかった」という展開でしょう。本作には宗教、出自、性別、文化といったさまざまな「違い」が描かれていますが、その「違い」の中でもサヘージとアムリンダルの違いは象徴的だったと思います。何かが少しでも違っていれば、この二人の立場は逆転していたのは。
 そしてこのさまざまな「違い」、言い換えれば「分裂」がひとつになるのがクライマックス。そう、作劇においては分裂は再生の前兆なわけですよ。土壇場でロイヤルズを抜け出しストリート・ダンサーズに戻ったサヘージとその仲間たちによる本作最後のダンス「僕と君の音が出逢い僕たちの音になる(Mile Sur)」は、もうタイトルからして分裂からの再生ですよ。作中でこれまでに配置されてきたすべての要素が統合・吸収されてひとつのダンスとなる。観客はもちろんのこと、相手であるはずのロイヤルズのメンバーもダンスを見ながらひとり、またひとりと笑顔になっていくのがいい。ここで効いてくるのが決勝戦前の字幕「対戦相手であっても敵じゃない」なんですよね。ストリート・ダンサーズとルール・ブレイカーズはライバル関係にあって顔を合わせればケンカに言い合いですが、それらはダンスチームの文化のひとつであって彼らは決して憎み合っているわけではないし、対戦相手であるロイヤルズのリーダーであるマークも高慢なところはあるものの悪人ではない。前述の妨害工作もメンバーのひとりが勝手にやったことだしな。
 思うに、グラウンド・ゼロの「ルールはあっても破られる! 審査員はいても決めるのは観客!」というアナウンスは、別にルール無用の場外乱闘だぜヒャッハー!とかそういう意味ではなくて、実は「勝敗を決めるという形式はあるものの、それによって正誤(※優劣ではなく)が決められるわけではない」ってことなんじゃないですかね。
 わたくし人形使いはいわゆる「歌や踊りで世界をひとつに!」とかいう文言には理想論的安っぽさを感じるのであんまり好きではないんですが、本作はその下地、バックグラウンドをしっかり描写してからのこのクライマックスなので上映後には脊髄反射で拍手してしまいました。いやー素晴らしい映画だった……。
 
 「ストリートダンサー」終了後はもう1本見るので腹ごしらえにマクドナルドへ。読みかけだった「流れよ我が涙と警官は言った」を読んだり小説の下書きをしたりして過ごします。しかし次の映画まで3時間くらいあったのでもう1本見ても良かったかな……。あとスマホをいじったりもしましたがマクドでは電波が弱くてぐんにょり。
 そして上映時間が近づいてきたので劇場に戻ります。
 次に見たのはこれ!
 
 
 みんな大好き「コッ」ておなじみの、アリ・アスター監督が送る最恐ファミリームービーです。
 本作は以前TERASAで配信されてたのを見たことはあったんですが、実は劇場で見るのは今回が初めて。見たものを恐怖のどん底に叩き落した例の「コッ」が、塚口の音響でどれほどパワーアップするのか、ということで覚悟を固めて行ってきました。実際、塚口の音響ってホラーとも相性がいいと思うんだよな。
 さて感想なんですが……不安定になる! 不安定になる!
 皆さん御存知の通りアリ・アスター監督作品は血がブシャー!怪物ドーン!といったわかりやすいジャンプスケアではなく、はじめから終わりまで作品全体に常に嫌な予感が漂っており安心できる瞬間が一瞬たりともありません。
 本作もそれは同じで、冒頭から明らかにアリ・アスター監督作品に通底するテーマである「家族という閉鎖空間」が「家のミニチュア」という形で出てくるし、舞台となるグラハム家は表面は取り繕っているものの深部は崩壊している関係であることが明らかです。そして序盤での嫌な予感は終盤にかけて丁寧に丁寧に何倍にも増幅されそして――。
 これまで本作以外にも「ミッドサマー」「ボーはおそれている」とアリ・アスター監督の長編作品はすべて見てきたんですが、その3作に共通する要素として「隠していたものが暴かれる」「その前段階としての隠すという行為」「でも全然隠せてない」があると感じました。
 本作の舞台となるグラハム家の面々はさまざまな問題を抱えています。主人公である母・アニーは夢遊病で悩まされていることを家族に相談できておらず、死んだ祖母・エレンの不審さに気づきながらもそのことを家族には言えていません。父・スティーブはエレンの墓が何者かによって掘り起こされているという知らせをアニーには隠しており、息子・ピーターは母とのぎこちない関係に不満と不信感を持っているもそれを言い出せず、妹・チャーリーは自閉症気味で自発的な意思表現が薄い。
 このようにだれもが周囲に何かを隠しているわけですが、その「隠す」という行為が最悪の形で出てくるのがいきなりの序盤。パーティにむりやりチャーリーを同行させられるピーター、その際にチャーリーは誤ってアレルギーのあるナッツの入ったケーキを食べてしまいます。発作を起こしたチャーリーを病院に連れて行こうと車を猛スピードで走らせるピーター。路上に放置された動物の死骸をよけようとした際に、窓を開けて頭を出していたチャーリーが――。
 あまりのことに現実を直視できないピーターは、バックミラーで後部座席を確認しようとして……目をそらしてしまいます。ピーターはそのまま帰宅しベッドに入るも、一睡もできずに夜が明けます。そして朝、買い出しのために車に乗ろうとしてチャーリーの遺体を見つけたアニーの絶叫が響き渡る――。
 アリ・アスター作品において、登場人物たちが隠しておきたいことは基本的に隠せないし最終的に全部暴かれるんですよね。上記のシーンはそれが最短距離で行われたシーンだと思います。
 ホラー映画には「結局いちばん怖いのは人間」という常套句がありますが、本作でいちばん怖いのはアニーを演じるトニ・コレットとチャーリーを演じるミリー・シャピロの表情でしょう。予告でもさんざん見せつけられたあの絶叫顔……からの、終盤で明らかに「入った」と分かるスッ……と感情が消えるあのシーン寒気がする。また、これまで溜め込んできたものが爆発して息子をなじるあのシーンの顔よ。人間ってここまで「怒りの形相」ができるものなのか……。
 またチャーリーの表情が基本的にずーっと無表情というか明らかに普通ではないのが、本作を通して流れる嫌な空気を助長しています。チャーリーは最初からもうおかしくなってたんだよな……。
 「家族という檻」というのがアリ・アスター作品の核なわけですが、本作はタイトル通り家族という逃れられない檻の中で悪夢が文字通り「継承」されていくというアリ・アスター味100%の作品でした。
 
 コッ
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