ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

安土だ城 1

2014年10月21日 21時41分31秒 | ウォーキング

えー、doiron世代の人なら
タイトルを正しく読んでくれるでしょう。

安土だじょー

おそまつクンのはた坊を知らない世代の人には
ちょっとわからないかな。



さて、「安土」は以前から行ってみたかった地のひとつだ。
織田信長が天下ににらみをきかせるために
城を築いた場所であり、
琵琶湖最大の内湖である
「西の湖」のある地。

安土桃山時代などの言葉があるので、
「安土」の名前を知らないものはいないだろうが、
行ったことがあるかというと
さほどいないにちがいない。

それは、様々な歴史的背景を持つ地であるとはいえ、
わざわざ観光で出かけていく
というほどのところではないというような場所だからだろう。

実際駅前に宿泊施設が並んでいたりすることもないし
JRの新快速も止まらないしね。

平成の大合併の際には、
そんな「安土」の名前を残そうと
大きな反対運動があったそうだが、
紆余曲折を経て平成10年に
合併から10年の期限付きで
近江八幡市の「安土町地域自治区」として
新たな行政が動き始めることになった。

その時の反対運動の機運を感じさせるものが、
駅前から少し歩いたところに残っている。



旧安土町の名前を冠した
公共施設の看板や道路標識を集めた
「想い出の壁」だ。(チャリンコで見づらいけど・・・)

歴史に名高い「安土」という名称を
しっかりと残したいという地元の人たちの
気概を感じる施設である。

とまあ、前置きが長くなったが
そんな「安土」を祭りの前に歩いてきた。

まずJR安土駅に秋晴れの下、
車を約二時間運転して到着。
そこに車を停めて、ぐるっと歩いて巡る旅だった。

駅前に入っていく道は狭く、
車でコーナーも曲がりにくいほどであったし、
すれ違いも難しかったが、
駅前は結構整備されている。
しかも、駅横にはなんと観光客用の



無料駐車場も整備されており、



旅人の好感度は高い。

そして道には、この導き石も描かれている。



歴史観光の町らしく、
安土山を模したような山のマークが描かれていた。

駅前で一番目をひくのが、
この相撲やぐら。



安土は近代相撲発祥の地といわれている。
相撲発祥の地は、前に歩いた
山の辺の道にある、相撲神社といわれているが、
ここは織田信長が相撲興業を
この地で開催したことに由来して、
近代相撲発祥の地といわれているのだ。

駅前で幼稚園の子供たちが
そのやぐらで楽しそうに遊んでいるという景色からも、
この街ののどかさが伺える。

その駅も新快速も止まらないというのに、
結構広々とした駅構内であるように見えた。



そして、駅の外観がかなりユニークだ。

駅舎そのものはよくある建物だったけど



目をひくのが、駅の南北をつなぐ地下道の建物。



安土城の天主を意識しているようだ。

doiron的には駅前駐車場の「びゃくしん」も
捨てがたかったけどね。



まずは、早く歩きはじめたいという気持ちを抑えて、
駅前にある「安土城郭資料館」で予習することにした。



ここには、幻の安土城の断面が見れる施設がある。



3年かけて築城し、完成後また3年で焼失した安土城を、
発掘調査や様々な資料に基づいて復元したものである。





ユニークなのが城の中が大きな吹き抜けになっており、
その中にお堂が建っていることと、
最上部に八角形の天主が設けられていることだ。

この時の建築技術のノウハウや
石垣造成の技術が、
これ以降の城郭建設の範になったそうだ。

この資料館には他にも内装の屏風や
天井画なども展示されていたが、
それらは消失しているはずなのに、
どうしてわかったんでしょうねえ。

展示物の中には、
外国の宣教師が描いた「信長」の肖像画もあった。



ふむふむ、「信長」という人物に対して持つイメージとは
さほどかけ離れてはおらんね。

そうしてひととおり予習をして、
さあ歩きはじめよう。
今回はこんなコース。



果たしてどんな出会いがあるのだろうか。
ナビをセットして、地下道を渡り駅の北側に出た。

続く。


情報流出!

2014年10月20日 21時36分44秒 | 生活

このブログでもdoiron個人のプロフィールは
非公開にしてあります。

まあ、公開していなくても知ってる人は知ってるし、
写真もたびたび登場するので
非公開にする必要もないと言えばないのです。

でもこのご時世、何が起こるかわかりませんし、
何も起こらないかもわかりません。
先日も、日本通運からメールが来て
「今日の午後9時に着払いの荷物が届くので、
下記のURLで確認しておいてください」
などというメールが届きました。

ん?どうもおかしい。

こんなメールは受け取ったことがないぞ、
と思いつつURLをクリックしようとして
ハタと思いとどまったのです。

はは~ん、どうやらクリックさせて
こちらの情報を盗み取ろうという魂胆じゃな、
と気がつきました。

胡散臭いメールじゃなとじっと見ていると・・・
あれ?「日本通運」だと思ってたら
なんと「日本運通」になっているではないですか。

なんかお笑いみたいな手口じゃね~。

皆さんも気を付けてください。

そうしてdoironのたいして値打ちのない個人情報は
守られたのですが、
先日一通のこんな手紙が届きました。

送り主は「Bネッセコーポレーション」。



「重要なお知らせです」と表面に書かれてあるので
さっそく開けてみると、中から出てきたのはこれ。



どうやら先般の漏えいした情報の中に、
昔、息子が統一試験か何かを受けた時に提出した
doironの情報も含まれていたようなんです。

漏れていたのが住所、氏名、生年月日、メールアドレス、
10kmベストタイム・・・最後はウソです。

あ~、なるほどこの時に提出したメアドが
携帯なのかパソコンなのかよく覚えてないけど、
やたら変なメールが来るのは
こういうところから流れたのかもしれませんねえ。

Bネッセでは「心配をおかけしたお詫びに」
図書券か子ども基金への寄付を選んでほしい
と書いてありました。

え~、この返事でまた情報が漏れるんと違うん?

と心配しましたが、
そこはきちんと配慮されて、
こちらの住所氏名など何も書かなくても、
裏面に印刷されたQRコードで
管理されているようになっていたのは、
やはり当然の配慮でしょう。

この時売られた情報は760万件で、
推定200万円くらいだったのではないか
といわれています。

この事件で、Bネッセが受けた損害は、
直接的なものだけで安く見積もっても
40億円は下らないそうです。

個人情報保護法ができるまでは
そんな高額な値打ちのなかった個人情報も、
今や高額で取引されるようになったのですねえ。

政府がいう「特定秘密」も
こうして守ろうとすればするほど、
なおさら注目されていくんじゃなかろうかと、
僭越ながら心配している今日この頃です。


友と共に 西高野街道 6

2014年10月19日 21時13分14秒 | ウォーキング

堺市、大阪狭山市と二市とも市内に
それぞれの「西高野街道」の石を建ててあったので、
ここ河内長野市でも、
負けじと建てているようだ。
それがこれ。



大阪全体をひとつのミュージアムとしようという、
前の橋下大阪知事の構想に沿って建てられたもの。



カラフルではあるがいささか風情に欠けるなあ。

その石の先にあったのが、
伊勢燈籠と宝篋印塔と町石。



宝篋印塔は、この西高野街道の堺市内にもあった
(今年3月17日のブログ参照)。



また、町石には「上神谷妙見山 二十七丁」とある。



堺市南区富蔵にある感応寺への道を示しているそうだ。
そこはまだ行ったことがない。

三国ヶ丘から歩きはじめ、
このあたりで約14キロ。
あれだけマシンガンのようにしゃべっていた
最年長ののんさんの口数が減ってきたので、
心持ゆっくりと歩くことにした。

松林寺の先にまたまたおかげ燈籠が建っている。





それにしてもこの道は、
燈籠はじめ地蔵や道標がたくさん建っているものだ。

一緒に歩いたお二人も、
「何気ないところにもこれほど多くの旧跡があるとは・・・」
とずいぶんと驚かれた様子だった。

doironも驚いたほど多かったな。

やがて、楠町東で道は中高野街道と合流する。



前の下高野街道に続いて、
2本目の高野街道と合流し、
ここから三方向からの参詣者が
ともに高野を目指すことになる。

写真の右が「天野街道」。

ここにあったのが「四国八十八ヶ所遥拝道」の石。



これが、前に書いた神南邊隆光が建てたものだ。

展望の広がる南坂を下ると、



賑やかな千代田駅前に到着。

ここでトイレタイムとスーパーに入っていくと、
我々退職者3人組とは別の
第二の人生で働いている退職者と出会った。

「何してるん?」と聞かれたので
のんさんが「三国ヶ丘から歩いてきてん」
というと「バス代ぐらい退職金でもらってるやろ」だって。

相変わらず口の減らないその人との会話に
大いに笑ったひと時だった。

さあ、あと残りはもう一息だと歩き始めたところで、
「晴明塚」に到着する。



あ、これも堺市内にあったぞと、
記憶をたどってみると、
この街道の起点近くに建つ「晴明辻」でした
(今年3月16日ブログ)



この河内長野の晴明塚も
神南邊氏が建てたものだそうです。

この石には逸話があって、
建てられたときには「清明塚」と刻まれてあったそうなのですが、
それは間違いということで後に
さんずいへんの上に刻み足して
「晴明塚」としたそうだ。
もう一度画像を見てください。

そういえば「晴」の字がおかしくなっている。

その先で街道は国道170号の高架をくぐる。



そこを少し入ったところに立派な道標石が建っている。



「右 さかい大 左 まきの」と刻まれ
下部は地面の中に埋もれている。

右は堺・大阪 左は槇尾ということだろう。

続いて石垣に紛れてわかりにくいが
ひっそり立っていた道標がこれ。



「右かうや 左ふじゐ寺」とある。
そこが、西国三十三か所の巡礼道と交差する

「原の辻」。

ここから幾つか地蔵堂が続き、






ようやく終点河内長野に到着である。



所要時間は休憩を入れて5時間16分。

まずまずの運動になったかな。

このあと、電車で藤井寺に向かい、
入浴、



葛井寺参拝のあと、



「ろじうら」なる居酒屋で3時間ほど飲みまくり
帰宅したdoiron。

久しぶりのめちゃ楽しい時間を
過ごさせていただいた西高野街道の三人旅。

続きはいつになるかわかりませんが、
ここまで来たからには
いずれ高野山まで行こうと決意しつつ
このシリーズ終わり。

ながながとお付き合いありがとうございました。


友と共に 西高野街道 5

2014年10月18日 21時10分18秒 | ウォーキング

岩室の交差点で富田林と泉北ニュータウンを結ぶ
府道34号堺狭山線を歩道橋で渡る。





その歩道橋の下に建てられてあったのが、
堺からずっと続いて建てられていた
「西高野街道」の道標の
大阪狭山市バージョン。



昨年建てられたものだからまだ新しい。
刻まれてある内容も堺市のものより、
道標っぽくて好感度大だ。

道はここからしばらくのぼりが続く。



登り始めてすぐに道端に
3本の石が建っている。



1本は「西高野街道」を表すもの、

もう一本が「岩室郵便局跡」。



そして最後が「家塾跡」。



家塾(かじゅく)は一般の人が経営する私塾のうち、
幕府や藩から公認されて
諸費用の支出を受けていたものだそうだ。

この岩室の石に刻まれているのは
「中林喜市郎」氏、
ここの少し手前の十一里石に刻まれていたのが
岩室の「中林喜兵衛」氏、
そしてこの石が建つそばにある豪邸で



今は市の所有になっているのが
「中林一郎」氏
とどうやら中林家は岩室の名士なんだろう。
それぞれの関係はわからない。
その先で道は二股に分かれており、



その分岐点に道標が立っていた。



右は天野山まで二里 左は高野山まで十里

と刻まれている。
西高野街道と天野街道の分岐点である。
それを道標通りに左にとると、
またまた「太神宮」と竿に書かれた伊勢燈籠に出会う。



しかし、これはただの伊勢燈籠ではなく、
灯火台に「おかげ」と刻まれた
「おかげ燈籠」という燈籠だ。

伊勢神宮の信仰の中には、
「おかげ」という感謝の気持ちを表す習わしがあり、
伊勢のおひざ元にある「おかげ横丁」にもその名をとどめている。

道はその先でググッと下っていく。



その坂道を尾張坂という。

少し東のところにある狭山池の改修のために来ていた
愛知県出身の土木技術集団である
尾張衆にちなんでこの名がつけられている。

その尾張坂を下りきったところに
東から合流してくるのが、



四天王寺から南下してきた下高野街道。

4本ある高野街道のうち最初の合流点となる。
ここには、大阪狭山市が建てた案内板と



田畑を耕す牛の健康を願い、
農家が祀る牛瀧地蔵がある。



ここから、狭山池にそそぐ三津屋川沿いをしばらく歩く。



田園地帯の気持ちい道である。

何となくパワースポットめいた
三津屋太子堂への道を眺めながら、



道は緩やかに登って行き



「茱萸木」の集落にさしかかる。

「茱萸木」は、難読地名としてよく登場する地名で、
正しくは「くみのき」と読む。

「茱萸」はあの赤い実のなる
「ぐみ」のことをいうのだが、
地元の人が濁らず「くみのき」と発音しているところから、
当時の狭山町も濁らずに告示したそうだ。
あ~しまった
こんな時こそ電プレを確認しておくべきだったなあ。

初夏に収穫されるグミなので、
この時期に歩いていても
目にすることはなかったなあ。

歩き始めてここで約12km。

地域の公民館に弘法大師御堂が併設されている。



太子堂はdoironの地元の村にもあって、
そこに毎月村の人が集まり、御詠歌を唱えている。

先日、親父が亡くなった時には
その人たちが我が家に30人近く集まって、
集団で御詠歌を唱えてくださった。

きっとこの弘法大使御堂でも
そういう活動が行われているんでしょう。

幾つか目かの伊勢燈籠を眺めながら、
直線道路を進んでいくと、
のぼりなどで彩られた立派な
「玄昌法師地蔵尊」
別名酒かけ地蔵に到着。



「地蔵をなめたら酔うかなあ」などと、



すでにアルコールの匂いを漂わせながら、
罰当たりなことをほざく三人組なのであった。

そしてその先にあったのが、
3つ目の里程石である「十里石」。



「是ヨリ高野山女人堂江十里」

と他の里程石と同じように刻まれている。
これを含む全13本の里程石を建てることになった発起人が
茱萸木村の小左衛門と利兵衛という二人だったわりに、
地元茱萸木のこの里程石は
ひっそりと建てられている。

そして道はいよいよ河内長野市内へと入っていく。

続く。


友と共に 西高野街道 4

2014年10月17日 21時37分52秒 | ウォーキング

福田南でこの街道とほぼ並行して走っている国道310号を渡り、
しばらく行くと右に竿の部分に

「太神宮」

と刻まれた伊勢燈籠が現れる。



お伊勢参りの人達のために
灯りをともしたこの燈籠。
このあともこの街道沿いに
伊勢燈籠が点在するのだが、
この道は伊勢の方角とはちと違う気がする。

伊勢講の人達が高野詣りの人達のために
建てた燈籠ということなんだろうか。

またいずれ街道歩きの中で
その辺のことは明らかになってくるんだろう。

このあたりは、街道沿いらしいこんな塀や



立派な門構えのある家が多く、



たくさんの地蔵堂を右に左に見ながら進んでいく。







街道沿いのこれらの地蔵や燈籠、道標は、
さぞや昔の人にとってありがたかっただろう。

やがて道は分岐点にさしかかる。



ここにあるこの地蔵は
高野街道の方(写真の右の道)を向いて立っている。



それは、この間違えてしまいそうな
分岐点にさしかかった人が
道を間違えないようにという、
配慮なのかもしれない。

その先で赤い鳥居が
目にも鮮やかな大平大明神に到着する。



伊勢燈籠がこの境内にもあるし、
ここに祀られている地蔵も

「左 さやま よしの」

と刻まれているそうだ。

このあたりで行程の約半分を歩いた。

曇っているとはいえ、さすがに汗もかく。
水分補給はまめにしないとね。
三人は田舎道をあーだこーだ、
のんさん風にいうと「うだうだ」言いながら
テクテクと歩いていく。



近頃、とみに老眼が厳しくなったのんさんは
「居酒屋のメニューが読めなくなったら終わり」
だと言っていた。
そ、それは大問題だな。
とまあ、三人とも喉が渇いてきたのか、
あるいは禁断症状が出てきたのか、
このあたりアルコールの話題が多くなってきた。

下戸の人が一緒に歩くと、
その話だけで酔うかもしれない。

と、そうしているうちに
本日2つ目の里程石である

「十一里石」



に到着した。

「是ヨリ 高野山女人堂江 十一里」
倉庫のシャッターの前に建っているだけに、
倉庫の持ち主はさぞや不便をしているでしょうねえ。
最近足下をコンクリートで補強したように見えますが、
それでも移動させずに
ここに建てたのは、
ある意味信仰心または誇りをもって
毎日眺めていたいのかもしれません。

さて街道沿いには思っていたほど
コンビニや飲食店がありません。

ある時に利用しておくのがいいでしょう。
ジダン風に言えば「ある入るの法則」です。

ということで、時間は午前11時30分。

多分このコースで最初のコンビニとなる
岩室の交差点にある「ファミリーマート」で
昼食にしましょう。



と、ここで突然ですが、

***doironコンビニランキング~(個人の感想)***

先ず第4位は・・・セブンイレブン。

ごみ箱が店の中にあることが多く、
その点でかなりランクが下がる。

そして3位が・・・サンクス。

品揃えがイマイチかな。
他は可もなく不可もないコンビニ。

2位が・・・ローソン。

品揃え、店員の応対はよいのだが、
ごみ箱が、ペットボトルとキャップの
分別を要求するところが、
環境に対する意識が高いと言えばそうなんですが、
トイレもなんとなく利用しにくいのもマイナスポイント。

そして栄えある1位が・・・ファミリーマート。

トイレは自由にお使いくださいだし、
ごみ箱も利用しやすく、
ウェルカム精神が高い。
店主や店員のポリシー、
店の規模にも寄るのだろうが、
いろんなコンビニを総合的に見て、
doironの評価はこんな感じとなる。

**************

そのファミリーマートで食事を買い、
さすがにdoironランキング1位のコンビニだけあって、
店の片隅に休憩コーナーが設けられており、
そこでいただくことにした。

これ。



もうここにくるまでに、
散々アルコールの話になっていたので
ランチ宴会である。

doironは引率の仕事があるので
小さいビールですが、
お二人はガッツリと
500のビールを飲んでいました。
食事がすんだら、

「もう一本」

の声が出る前に店を出よう。
長居は無用だ。

続く


友と共に 西高野街道 3

2014年10月16日 21時55分35秒 | ウォーキング

十二里石を後にし、しばらく行くと左に

「出雲大社大阪分祠御旅所」がある。



「御旅所」とは神様が立ち寄るところであり、
神社が分社を回る際に立ち寄ったりする。
そこに分祠された出雲大社の社殿を建てたのが
この出雲大社の始まりだ。

このお旅所は最寄駅の名前から「初芝さん」といわれている。

この日は、中には入らなかったが、
ここの社殿を建てたのは
日本最古の会社といわれる「金剛組」。

今日歩いた3人組が働いていた市に
その会社があり、何度か仕事でお邪魔したことのある会社で、
なかなか立派な応対をしていただいたが、
まだそこにあるのだろうか。

その先で府道199号線に出たところの交差点に
「野ざらし薬師如来」が北向きに建っていた。



その薬師如来に刻まれている文字が

「東 ふじい寺 なら」

と刻まれている。
一緒に歩いたのんさんは
藤井寺市にお住まいなので、
何となくこの石像に親しみを持たれたようだ。

ここでいう「ふじい寺」は
西国観音霊場五番の「葛井寺(ふじいでら)」を指しているのでしょう。



その葛井寺には、
歩行後銭湯の開店時間待ちで
後ほど立ち寄ることになるので
またその時に紹介しよう。

この野ざらし薬師如来を西に1kmほど行くと、
「土塔」という奇妙な施設がある。


HPより

四角形に土を持っており、
一見方墳のようにも見えるが
出土品などから古墳とは考えにくく、
仏舎利等を祀る塔のようなものだったそうだ。

今回は立ち寄らなかったが、
近々行ってみようと思っている。

街道はやがて草尾という集落にさしかかる。





このあたりの新田開発をした二人の
出身地である部と踞から一文字を取って
つけられた名前であると
資料には出ている。
地域の名前には過去の出来事が
タイムカプセルのように埋められていることを
よく表すエピソードのひとつだ。

庚申講の祠や



中地蔵を見ながら、



惟妙寺の前に建つ道標を過ぎると



道は府道36号と阪和自動車道の高架をくぐる。



この高架道路は、開通以来20年以上
doironが職場に通い続けた道だ。

よもやこうして、街道歩きでその下を
歩いてくぐることになろうとは
夢にも思っていなかった。

その先には、また例の
「おん かかか・・・」が書かれた地蔵尊や、



野ざらしの地蔵尊、



法界地蔵尊などが次々に現れ、



福田の道標石と地蔵のある辻にさしかかる。



堺の山之口商店街に建っていた道標に
「左 福田・・」と刻まれていたあの福田は、
和泉の福田ではなくここの福田のことだったんやね。

しかも調べてみたら、
ありふれたと言っては「福田」さんに申し訳ないが、
よくある名前のここの「福田」にも、
実はタイムカプセルが潜んでいた。

このあたりは陶器荘といい、
そこの新田開発を請け負ったのが
大阪の豪商である福島という人。

その島が開墾したということで
「福田」となったそうなのだ。

さて、その福田にあるこの道標だが、



これもまたひとつのタイムカプセルだ。

正面には

「右 かうや 大ミ祢・左 たきゝに 金剛山」

と刻まれている。

現代風に訳すと

「右 高野山 大峰山・左 滝谷不動尊 金剛山」

ということになる。
それはまあ、昔の表記のことだからいいとして、
注目すべきなのはその左面に刻まれている
発起人の名前である。

「発起 神南邊 隆光」

この人物は、河内の国の鋳物師で
殺生を好む無頼漢だったのが、
あるとき夢の中で地蔵に諭され改心して
各地に道標を建てたそうだ。

実はこれまでのこのブログにも登場していた。

昨年の7月4日の

「古墳に興奮 第2部の2」

の中で百舌鳥八幡神社の境内にあった

「すぐ かうやさん」の道標がそれ。



神南邊隆光の道標は
今回の歩行の中でもあと二本登場する。

よほど若い時の悪行を悔いたのだろう。

「道を間違えてはならんぞよ」
との思いを道標にこめたにちがいない。

続く


友と共に 西高野街道 2

2014年10月15日 21時50分34秒 | ウォーキング

今回一緒に歩いたお二人は
車で1時間近くかけて通勤していたdoironと違い
お二人ともチャリンコで通える地元に住んでいた。
特にのんさんは毎日長尾街道を
チリンチリンと行き来してたとのこと。
なので、地元の情報はdoironよりも詳しい。
そんな情報通のお二人に
歩きながら、昔の仲間の消息などを色々聞かせていただいた。
在職中に大変お世話になった人が、
定年退職されてすぐに亡くなったというような話には
胸がキュンとなったものだ。
亡くなった人の冥福をお祈りするとともに、
こうして楽しく歩けることの喜びを
あらためてかみしめた。

また、そのお二人とは楽しい思い出を
いっぱい共有しているものだから、
思い出話は他にもあって本当に尽きない。

しかし、あーだこーだとワイワイ歩いていると
ついつい見所を見逃してしまうから要注意である。

いくつも立てられているこの道標に出会うたびに、





「あ、次は何やったかな」と注意を喚起されるので、
ええ加減辟易するような道標でも
それはそれで役に立ってくれた。

道はやがて、大阪府立大学の中百舌鳥門のところに出る。



この大学には、友達もたくさん通っていたので
在学中は帰省したときなんかによく行ったし、
仕事でもここの大学の先生にある委員をしていただいていたので、
打ち合わせにも来たことがある思い出深い大学だ。

ここからしばらくは310号の歩道を歩き、



白鷺門のところで中の道に入る。



この区間唯一の歩道歩行だった。

なか道に入って鉄塔の横を抜け、



再びこの石を見ながら進んでいくと、



白鷺公園の横に出る。



そこには、この西高野街道の案内板が立っていた。



そこに書かれていたのは、
この道が平安時代に参詣道として整備され、
江戸時代には堺と高野山の
重要な物資輸送の道となった旨が書かれてあった。
公園を訪れる若者たちには
まったく興味もないだろうが
中には遠い昔に思いを馳せて
勉強しようなんて若者が・・・
いないやろうな、やっぱし。

グラウンドもある静かな白鷺公園の先で、



泉北高速鉄道の高架下をくぐり、



しっとりと落ち着いた街道の歩行が続く。



レンコン畑になっている新家町の星谷池を過ぎ、



地蔵堂右に見ながら進むと関茶屋という地域に
今回初めての里程石である「十二里石」が
地蔵堂のところに斜めに傾いて立っていた。



堺から高野山までの13本の里程石は
全て安政四年(1857年)に建立されている。
なかでもこの十二里石は
2月と早期に建てられたものだ。

施主の名前を読むと地元の「関茶屋新田」と
この地域の名前が刻まれており、
施主がこの地に住んでいたことが伺える。
したがって、多額のお金を要する施主探しに
時間がかからなかったので、
早期建設が可能になったというわけなんだそうだ。

とにかく高野山まであと50キロ近くあるということになるのだが、
はたしてそれは正しいのかどうかわからない。
里程石とはいえ、
きっちり一里(4km)の間隔で立っているわけではなく、
中には6キロも離れている場合もあるそうなので
おおよその目安二しか過ぎないのだ。

さらにこの里程石をよく見ると、
石の下部がコンクリートの中に埋まっており、
「右 高野山女人堂 十二里」の
「里」は半分隠れている。
これはかろうじて文字が読めるからまだしも、
堺市内の道標の中には
同じような形で設置されている石があって、
まったく文字が埋もれてしまっているものもあった。
せめて書かれてある文字は
全てあらわになるように設置してほしいものである。

里程石の横には小さな道標石も立っている。



そこには「左 滝谷」の文字が読み取れた。

富田林市にある「滝谷不動明王寺」
への道であることを示しているのだろう。
方角的にいっても間違いない。

後ろに立ってた地蔵堂の中にある
道標地蔵も見てみると、
きれいな前掛けをつけられていたので
読むことができず残念だった。



地図だけでなく人工衛星を利用するナビも発達した現代、
道標は道標としての役割を持つ時代ではなくなったが、
人目に触れなくなるのはちょっとさびしい気がしないでもない。

続く


友と共に 西高野街道 1

2014年10月14日 21時19分20秒 | ウォーキング

春とはいえまだ細かい氷の雨が
時折漂っていた今年の3月14日。

真言宗の聖地高野山を目指す4本の参詣道のうち、
2番目に長い西高野街道を、
堺の浜の出発点「大小路」から
環濠の痕跡を眺めつつ、
数々の神社仏閣を訪ねながら
堺の中心部分を歩いたことは、
もうずいぶんと昔のことのような気がしている。

実はその時から、
今回の歩行は計画していた。

全長58キロに及ぶこの参詣道の続きを、
30年以上ともに同じ職場で働き、
マラソンなどで時間を共有してきた
先輩、後輩と今度は一緒に歩こうと思っていたのだ。

それが春先からの介護の慌ただしさに取り紛れて
延び延びになっていたのを、実行に移し、
それを記録したのが今回の

「友と共に 西高野街道」というわけなのだ。

一緒に歩いたのは、
先輩の「のんさん」と
職場の後輩にしてトライアスロンの先輩である「I田クン」。

前回の終着点である三国ヶ丘の駅で待ち合わせて、
午前9時過ぎからテクテクと歩き始めたのだった。

その日は平日だったので、
通勤の人達が忙しく歩く中、
先に着いていた待ち合わせのI田クンは
ベンチに座ってジャージを脱ぐなど
あわただしい街の景色の中で
ひときわ浮いた存在であった。
なのでゴマ塩頭で精悍な顔つきの彼が、
10月だというのにジャージを脱ぎ
半ズボン、半袖のポロシャツで
ベンチに座っているのを
人々は遠巻きにしながら歩いているようだった。

やがて、阪和線に乗り慣れていない
のんさんが天王寺で道に迷いながら
少し遅れて到着。
いつもの歩行スタイルのdoironとあわせて、
奇妙な三人組の歩行がいよいよ始まるのであった。

前回到着時は工事中だった駅が



今はすっかり出来上がってきれいになっていた。
これ。



そこから前回歩行を終えた交差点まで歩き、
この地点でナビをセットして
本日の終着点「河内長野駅」を目指した。

コースはこのとおり。



西国三十三か所や四国八十八ヶ所への
巡礼の旅が「曲線的」であるのに対し、
高野への参詣が「直線的」であることがよくわかる。

しかも道は国道310号と並行しつつも、
それに沿った集落の中道を通るために、
車がビュンビュン走る歩道を歩くということはほとんどなく、
落ち着いて歩ける静かな道だった。

歩き始めてすぐに、こんな道標が立っていた。



堺市が設置したもので、
その先もかなりの本数を目にすることになる。
数えてみたら、今回の歩行時のカメラには
13本の堺市の道標が写っていた。

撮らずに過ぎたのもあるので、
20本近く立っているのではないだろうか。

ここが「撫松山 本通寺」。



真宗大谷派の名刹と言われているが、
今回は距離が長いのと、
一緒に歩いている二人への遠慮もあって、
「たのもう~」と言って中に入ったり
周りをしげしげと眺めたりはせず、
250年以上前に建てられたという
薬医門形式といわれる寺門だけを写真でパチリ。

そしてこのコースで最初に出てきた地蔵がこれ。



立江地蔵尊。

四国の霊場19番札所の立江寺から
勧請された地蔵尊だろう。
春に歩いた和泉の山すそや
司馬遼太郎記念館を訪ねた
東大阪の小坂神社の近くにもあったのを思い出した。



さすがに参詣道とあってこの道沿いには地蔵尊が多い。



中百舌鳥駅前地蔵尊には
お唱えの言葉が書かれてある。その言葉は



「オンカカカビサンマエイソワカ」。

「カカカ」は笑い声を表すそうで、
全体の意味は「地蔵の稀有なる力で
諸願を成就させたまえ」となるとか。

これは仏の言葉であるサンスクリットを
そのまま音写したもの。

その言葉は「真言」といわれ、
この道の終点高野山の真言宗と
深い関わりがあるのにちがいない。

この街道は生活道路として
今の世に根付いている。



またこれだけ道標が立っていても、



それにも気づかず日々の暮らしは続いていく。



初めて街道をこうして歩く二人は口を揃えて、
「あらためて歩くと街の中にも
いろいろ残っていたり作られていたりするものなんやなあ」
と驚いている様子だった。

続く。


嵐の四十九日

2014年10月13日 21時15分41秒 | ウォーキング

今年8月10日に執り行った
義父さんの四十九日は
嵐の直後でありました。
近所の公園の木を折り、
列島各地にもいたましい傷跡を残して
消えていった台風11号の
さなかにお経を唱えていただいた。

そして今日は実父の四十九日。

今朝がた九州に上陸した台風19号が
まともに近畿にやってきているさなか
お経が始まった。
窓をたたく雨の音、
吹きすさぶ強風の声が渦巻く中
「南無阿弥陀仏」が
静かに唱えられた。

お参りに来ていただいた人のために
玄関にタオルを何枚も重ねて置いたり
準備してあった「お下がり」の
袋の中にもビニール袋を入れ
一応の雨対策はしてあったものの
本当に気の毒な法事の開催を
してしまいました。

「doiron」さんのお父さんの時は
えらい嵐やったなあと
語り継がれるんでしょう。

どうぞ語り継いでやってください。
それも何よりの供養です。

義父さんは嵐のように生きた人だったから
それにふさわしい四十九日だと思ったが
実父の場合は
穏やかに穏やかに生きた人なのに
最後の最後に自己主張をしたのかもしれない。

それにしてもここ数週間は
祭の準備があるかと思えば
合間に週ごとのお参りがあり、
街道歩きをしたかと思えば
四十九日の準備があり。
そして究極には祭りの翌日に
四十九日本番と
慶事と弔事を交互にこなしてきた。
まるでトライアスロンの
トランジッションで写経をするような気分。
doironにとってそんな振幅の大きい日々は、
本当に嵐のような数週間であった。

今日が終われば
また静かな日々に戻るだろう。

朝方台風接近の西の空に
虹が出ていた。



親父は台風が作った
あの虹を歩いて西方浄土へ向かい
永遠に静かな世界へと
旅だって行ったのだと思いたい。

合掌


2014祭終了

2014年10月12日 23時41分18秒 | 生活

台風19号が南方から不気味に接近する中
今年の祭りも無事に終了した。
ひとりのけが人もなく
世話人としても何よりです。

今年は花の受付という
裏方の裏方ともいうべき
役割でありましたが
これもないと祭りが成立しないもんね。

いつも機嫌よくだんじりに乗っているばかりで
気付かなかったいろんなことを
勉強させていただいた。

さて、明日はいよいよdoiron家の
四十九日法要だ。
遠方から来ていただく人は
台風のせいで
さぞや気を揉んでいることことだろう。

それは本当に申し訳ないが
こればかりは延期というわけにもいかないので
ご理解いただくほかはない。

曳行終了後、最後のあいさつをするときに
doironさんは今年はだんじりに触れなかったから
来年も会長留任してほしいという話になってしまった。
う~ん、仕方ないかなあ。

まあ、とにかく今年は無事に終わって
めでたしめでたし。
願わくば、明日の片づけも
スムーズに行くことを願ってやまない。

ううっ、飲みすぎました