ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

イバラはないよ 1

2016年01月31日 21時38分09秒 | ウォーキング

今日は大阪国際女子マラソンの応援でした。



え~、写真もあまりとれない中
何とか取れた一枚でした。

走った皆さんお疲れさまでした。

さて、ではdoironの少し前の
歩き話の続きです。

久しぶりの熊野も歩いたし、
次はどこへ行こうかあ
といろいろと考えてみたのです。

行先の選択はいろんな方面がある。
もちろん淀川、リボン道の続きもあるし、
草津のようなちょっと遠方に
がんばって出かけてみることもできる。

そんな歩きの中でひとつ、
プラッと出かけられるようにと、
近辺の歩きスポットも
いくつか考えてある。

今回選んだのは、
そんな近辺歩きのスポットの
一つとして選んであった
「茨木」に出かけることにしました。

和泉市と出水市、
柏原(かしわら)市と橿原(かしはら)市
なんかに似て「茨城」という字に
間違えたりします。

その昔、「イバラ」が
たくさん生えていて
それで屋根をふいた人も
多かったことから、
「茨切」(いばらきり)が生って
「茨木」になったという説が
よく言われます。

そんな茨木に行くことにしました。

ここを選んだ理由は、
まずひとつには「親父」が
青春時代を過ごした街であるということです。

当時親父は中距離の種目の
陸上をやっていたそうで、
「800m」の学校記録を
持っていたそうです。

その陸上をやっていたのが、
市内にある「茨木中学」
(今は「茨木高校」)が
親父の母校であることで、
その中学校の先輩が
「川端康成」であったことは
よく親父がしゃべっていたことでした。

地図を見てみますと、
市立の「川端康成文学館」
なんかもあるようです。

1948年に市となり、
現在人口が約28万人の
この市の中心部分を、
テクテクと歩いてみることにしました。

この日は車ではなく、
家から電車で出ました。

南海電車に乗って天下茶屋から



地下鉄&阪急で茨木に到着。



ここからちょっと寄り道しつつ、
南茨木までが今日のコースです。

では歩き始めましょう。

茨木の駅前はにぎやかです。



まずは駅前を西を向いて
進んでいきます。

東本願寺茨木別院を見ながら



進んでいきますと、



おっ、マンふたです。



市の木(カシ)と市の花(バラ)が描かれています。

真ん中にあるのが、
市章ですね。
よーく見ると茨木の
「茨」がかたちどられて
鳩のような絵になっています。

また「川立地蔵尊」がありましたので、



覗いてみますと、
おお~草津の地蔵さんと
同じように彩られた地蔵尊が並んでいます。



この辺の地蔵さんにも、
子どもによる地蔵の化粧
なんかがあるんでしょうか。

商店街を抜けていきますと、





旧地名を表す道標が立っています。



市が平成21年から22年にかけて
市内の町家調査を行ったときに
設置した道標です。

商業とともに発達した
茨木中心部の発展を祈念した
道標づくりで
10本ほど建てられているようです。

この日は結局1本しか見なかったけどね。

その先にあったのが「茨木小学校」です。



この小学校のあったのが
茨木城の城跡といわれ、
茨木城楼門を原寸大の瓦ぶきで
復元したものが立てられてあります。



おお~、ここにきて初めて
過去の歴史に触れる
それらしきものに出会いました。

この茨木城に関連のある人として、
有名な茶人「古田織部」が好んだという
「織部焼」で小学校の校名が
作られているそうです。



道はここから、紅梅が咲く梅畑の家や、



バックに緑道の大きな緑の葉が
茂っている緑道に近づいていきます。



そう、今日はこの旧茨木川が
回収されて作られた

「旧茨木川緑地」

を中心に移動します。



旧茨木川は昭和24年に廃川となり、
一時は汚れたどぶ川のような
景色だったそうですが、
今はきれいに回収され、
全長5キロくらいの緑の多い公園として
市民に親しまれているようです。

その公園の横が「川端通り」
と呼ばれています。



というのも、その旧の川に
丹波橋という橋が架かっていたすぐ先に
「川端康成文学館」があります。
これです。



寄ってみましょう・・・どれどれと続く。


熊野古道 聖域の入口へ 8

2016年01月30日 21時59分10秒 | ウォーキング

さあて、
一泊してのんびりと過ごしてから、
その日はゆっくりと帰ることにしました。

病後やもんね。

ゆっくりしなきゃね。

まずは新たに開通した
白浜の高速出口を探検です。

車で白浜市内に入っていき、
高速の入口を看板で探すことにしました。

そしたら・・・
白浜入口はかなり南の方に
できてるみたいですねえ。

白浜空港も過ぎて、
富田橋のあたりから高速に乗りました。

新しい道の駅「くちくまの」です。



そしてこの日はいったん御坊で降りて、
実家の空き地を点検です。

前回、固形の除草剤を
たっぷり巻いてあったので
草はこんな感じです。



意外に生えてませんでしたねえ。
よしよし、とうなづきながら、
次は紀伊内原のあたりから
海のほうに下っていき、
あの熊野古道にいっぱい名号碑を書いている
「徳本上人」の誕生院を
見に行くことにしました。

今回の古道歩きでも、
あの山道の中にポツンと1基立っていました。



これまで、もう何台くらい見たでしょうか。
道を走っていきますと、
大きなクエの看板の下に、
道案内がありました。
石も立っています。



進んでいくとこんな看板もありました。



どうもそこから見えている、
この大きな屋根のお寺が
誕生院のようです。



向かっていきましょう。

寺の駐車場に車を止めて
歩いていきますと、
お寺本堂とかには
あまり記載はありません、
こういう石に徳本さんの
顕彰碑のようなことが
書かれてあるだけです。



ふと、階段の下を見ますと、
ちょっと看板がありそうなので
降りてみたら、
この奥に「徳本上人十年名号塔」
があると書かれてありましたので
行ってみましょう。

こんな道をおおっと思いながら



通っていきますと、
階段の上にそれがありました。



徳本さんの特徴のある字が
刻まれています。



拝んでおきましょう。
こんな椿が咲く道を、



また本堂に向かって登っていくと、
奥の家の中から住職さんが現れました。

「是非本堂に上がってお参りして生きなはれ」
と進めてくれはったので、
お参りさせてもらうことにしました。

本堂を拝んでお話を伺っているうちに、
住職さんは絵手紙のパネルを出して、
徳本さんのあちこちでの活躍の話を
はじめはりました。



話は多岐に及んだのですが、
どうも箕面の勝尾寺に
長くいてはることが分かりました。



あと、彼は一日茶碗一杯の麦やそばで
暮らしていたこと、

座ったまま寝ていたこと
なんかも話してくれはりました。

一通り話をしてくれた後は、
遺品も見せてくれはりました。

中でも、たたく面が擦り切れて
破れた木魚は実際に触らせてもくれました。

いやあ、突然やってきた
わけのわからん人間に対して、
とてもとても親切にしていただき、
多大な時間を取らせました。

もうまったく感謝感激雨徳本です。

徳本さんの名号碑を
これまでもいろいろと見てきた
甲斐があったのかな。

住職さん、本当にありがとうございました。

こういう、お得なお寺参りもした
今回の古道巡りは
とても充実したものとなりました。

よかった、よかったと
思いながら
また少しずつ復活へと
一歩近づいた

「熊野古道 聖域の入口へ」

シリーズ終わりです。


熊野古道 聖域の入口へ 7

2016年01月29日 21時57分15秒 | ウォーキング

道路や河川工事の場所を抜けると、
おお~本日の最終目的地
「熊野古道館」が見えてきました。



そのすぐ近くには、
5体王子のひとつである

「滝尻王子」



があるはずです。

まあ、ここを通過すれば、
藤代、切目、稲葉根と経て、
5体王子を4つ通過することになります。

あとは「発心門王子」を
残すのみとなりました。

本日の最終バス乗り場についたときには、
次のバスまであと40分ほどあります。

ちょうど時間があったので、
滝尻王子および熊野古道館を
ゆっくり眺めることができます。

まずは滝尻王子へ。

この王子のあたりが、
熊野聖域の入口だとよくいわれています。

おお~、天満の八軒屋浜から
歩いて歩いて、よくぞ
ここまでたどり着いたものです。

萩の250キロよりは少ないのですが、
まあよくもこんなけぶらぶらと
歩いてきたものです。

特に車で移動すると
その距離を実感しますねえ。

これが橋の上から見た「滝尻王子」。



そうですねえ、
2004年に世界遺産に
登録されてからもう
10年以上たちました。

さて、ここが瀧尻王子宮です。



熊野曼荼羅でいう11番にあたります。
そしてここにはスタンプがあります。



これまで紀伊路の
スタンプを集めてましたが、
ここからは中辺路のスタンプが始まります。

あっ、スタンプ台の写真を
撮り忘れていました。

よーく見ると橋の上からの写真に
小さく映っていましたから
紹介しておきましょう。



ここにも熊野ブルーの
案内板が立っています。



その説明によると、
昔の人々はここから熊野までが、
厳しい山の中を歩くことになり、
「熊野の聖域」としている
と書かれてありました。

神楽や歌会など
ここでいろんな催しが開催され、
熊野詣での無事が祈られたんですねえ。

社殿の前で写真を撮って、

さあ、熊野古道館へと向かいましょう。

おっと、その前にこの王子の入り口で、
こんなお土産や



鹿肉や獅子肉を



販売しているお土産屋さんが
あったので入ってみました。

店の人に
「こんにちは~、えっとこの辺の人の具合は
やっぱり土日が多いですかあ」と聞いてみました。

そしたら
「いやあ、この時期はほとんど
来られないですねえ。
だいたい春や秋が多いようですよ」

「そうなんですか。
今日も一人も会いませんでしたからねえ。
歩くのにちょうどいい季節のように思うんですが・・」

というと
「そうそう。私もそう思います」
と答えてくれはりました。

そうかあ。
でもここからは山の中に入っていくし、
体力的なことも考えて、
これからはもう少し暖かくなってからかなあ、
なんて思ってしまいました。

ここでは、
今夜いただく熊野古道ビールを
お土産に買いました。



さて、それでは熊野古道館へと入りましょう。

入り口を入ると、
熊野古道を紹介するときに
モデルがよく来ている二人が立っています。

記念写真を「パチリ」。



いろいろと資料が並んでいます。

お土産も御幸記の絵巻物
なんかもありましたが
予算に合わずスルー。

結局、こんな熊野古道タオルを買いました。



このタオルでジムで汗を流しましょう。
ここからの熊野古道はよく考えて動かないと、
バスの便とかがややこしくなりますので、
宿泊施設の載った案内とかを
しっかりとゲットして帰ることにしました。

で、ぼちぼちバスの時間が
近づいてきましたので、たいさんです。

河川敷の近くの停留所でバスを待ち、



やってきたバスで
車のある稲葉根まで引き返しました。

今日歩いたのは、こんな距離。
だいたい16キロの旅でした。



その日はせっかく出てきたので、
近辺で一泊して帰りました。

翌日、御坊にある徳本さんの
誕生院によったので、

あと一話続きます。


来てます、来てます

2016年01月28日 21時32分03秒 | 生活

もしかしたら、
人間て特殊な能力があるのだろうか。

最近doironは不思議な体験を2回した。

うう~、来てます来てます。

まず一つは、学生のころの
友達に関することだ。

冬も寒く、近々大阪も雪が降るかもしれない
という天気の予想が流れた時に、
ふと昔金沢で過ごした
学生の頃のことを思い出した。

あれは3年か4年の時だったかなあ、
友達の下宿に遊びに行ったときに、
知らぬ間に大雪が降って
自分の下宿に帰れなくなった時に、
その下宿に泊まり込んだことがある。

その彼の部屋は2階にあって、
家から屋根の上に出れるような作りだった。

建物の陰で屋根がうまく
濡れないようになっている部分に出て、
その友達と町に降る雪の景色を
眺めていたことがあったなあ、
と思い出していた。

もう今から35年以上前の出来事だ。

ああ~長い間忘れていたけど
あんなこともあったなあ
と思い出していた日の午後だった。

突然家の電話がなり、
出てみると、なんとその
一緒に雪を眺めていた友達からの電話だった。

卒業してからの初めて電話だ。
中身はというと、
彼が先日ゼミの先生の還暦祝いがあって
友達が3人ほど集まった時に
同級生で同窓会をしよう
という話になり、
メールなどの連絡先を
問い合わせる電話だった。

電話がかかってきたときに、
相手が名前を言ったとたん
「おお~」と反応したら、
相手は驚いていた。

どうしてすぐに思い出したん?といった感じだ。

そりゃそうだ。
数時間前に、お前のことを
思い出してたんや。

まあ、そんなことは言わず
「覚えているよ」とは答えておいたがね。

結局、今夏に同窓会をする
ということになり、
また招待状が届くことになったのだが、
35年も前に分かれた切りの友達
(年賀状ももうなかった)
のことを思い出した日に
その彼から電話がかかる
という不思議な体験をしたのには、
少なからず驚いた。



そしてもう一つの体験もまた、
よく似た出来事だった。

doironは昔、トライアスロンクラブに入っていた。
もう今となってはそのクラブそのものも
何も活動していないが、
解散という話にもなっていない。

doironはそのクラブで、
一番最後まで活動をしていた
メンバーの一人で、
もうヤーメタとも何とも言ってないから
今もメンバーの一人である。

その最後まで活動をしていた
メンバーのもう一人が、
皆生からのお知らせメールが届いたときに
「ああ~、ことしあいつは宮古島にいったり、
皆生に出たりとかするんだろうか・・・」
と思っていたら、
突然その彼からの電話がかかってきたのだ。

携帯に出た相手の名前を見て、
「ブルっ」と震えてしまうような
タイミングだった。



その定年退職した友達から、
のんびり過ごすためかどうかは知らないが、
家の近所(羽曳野)にマンションを買ったので、
そこで今週末にパーティをしよう
というお誘いの電話だったのだ。

もちろん出かけることになったのだが、
その彼からの電話も、
もうたぶん2年ぶりくらいのものだったので、
なんか人間て予知能力があるのかな
と思わせるような出来事が
2回も続いたのであった。

まあ、そう考えたら、
人間ていらぬことを考えるより、
うれしいことを考えている方がいいのでしょうねえ。

よし、では、今夜は宝くじに
当たるようなことを想像しながら、



眠ることにしよう。


熊野古道 聖域の入口へ 6

2016年01月27日 20時25分47秒 | ウォーキング

「北郡(ほくそぎ)橋」とは、
コンクリートの塔で支えられた
木製の吊橋なのだ。



う~ん、熊野古道を歩いていて
一番大きな吊橋に出たなあ。

ていうか、いままで吊橋てあったけなあ。

ここは橋脚は結構高いが、
特に揺れることもなく
快適に渡れる橋だ。

きっと車も通るんだろうなあ。

おお~、
橋げたでそんなことしたらあかんよ~って、



ちょっと遊んでみただけです。

この橋を渡って、対岸の橋の下や



こちら側の橋の下を眺めると、



今わたってきた橋下に
旧橋の釣り橋の橋台が残っていた。

どうしてあんなに下にあるのかなあ。
調べましたが、
まったくわかりませんでした。

そこからは川の右岸を
さかのぼっていきます。



あっちにこっちに
くねくねと山道を行きますと、
ようやく表れてきたのが「清姫の墓」です。



清姫というのは、
これまでもいくつか関係場所がありましたねえ。
お寺や松など
結局彼女をほっちらかして
国へ帰ろうとする安珍を
蛇の姿になって追いかけて、
道明寺で鐘ごとやいてしまった
というお人ですね。

清姫は、この真砂生まれの娘でした。
なので、この辺りの清姫の状況は異なります。

安珍に惚れ、
嫁にしてもらえると思っていた姫は、
安珍の熊野もうでの帰りを待ちました。
ところが、安珍はそれを無視するように
去っていこうとしたわけです。

そのことを知った清姫は、
富田川のこの辺りに
身を投げ入れてしまいます。

悲劇の主人公になってしまったわけですね。

ところがその彼女の怨念が蛇に化して、
例の事件を起こすことになりました。
地元で愛された清姫は、
愛されたまま亡くなり
ここではワンテンポ遅れて蛇が誕生して
それが思いを告げに行くわけですね。
どんな話がどうして
こんな話になったんでしょうねえ。

清姫の墓がこれ。



そしてそのそばには



「清姫堂」が立てられ、
里人たちは今も年に一度の日を決めて、
彼女の霊を供養しているとのことでした。



そのお寺を出てしばらく行くと、

「清姫茶屋 まんだら」



という食堂があります。
中辺路の郷土料理が
味わえる場所として営業されており、
「熊野和牛すき焼き定食」
なんかがメニューにあるそうです。



こんなコーヒーも気になりますが
残念!doironはもうすでに
高級食材のおにぎりの食後です。

店には入らず、
裏手のトイレだけお借りしましたあ。



その先にあった橋はわたらずに行きますと、
おおこれがバス停でその名も「清姫」。



う~ん、地域の人たちには
愛されている名前なんですねえ。

公民館の名前でさえ
「真砂清姫会館」とこうなっています。



と、そんなところで右下に
国道311号を見ながら歩いていますと、
国道に何やら大きく
数字が書かれています。



こんな数字は初めてやなあ。



133と134の間は
まあだいたい1キロ程度あります。

これはまた、マンふたや
電プレ同様に
和歌山独特の位置情報なのか?
と思ってあとで調べてみますと、
これがどうも昨年春に完了した、
地震・津波災害のための
道路路面の対空表示だったそうです。

和歌山県内の国道6本と
県道1本に設置されたそうです。

設置場所は、
上空に邪魔者がないようなところで
場所の表示がしにくいところ
となっているそうです。

まあ、近々大きな地震が
よりされているときに、
行政もいろいろ大変ですねえ。

さあて、あとは本日の
終点滝尻を目指すのみ
となってきましたが、
この辺に来て一気に道路工事、
河川工事が活発になってきました。



見ていると、
どうも最近の台風か何かで、
路面が崩れたりしているようです。

よこの谷を見ますと、
こんな大掛かりな工事をしていたり、
道路横の斜面が埋め立てられたりしています。



道そのものもこんな大きな橋を
架けたりして変わっていくようです。

はたして熊野古道は守られるんでしょうかと、
ちょっと心配しつつ、続きます。


熊野古道 聖域の入口へ 5

2016年01月26日 20時44分22秒 | ウォーキング

やがて道の先に
「のごし橋」が見えてきました。



この橋の先から、
道はしばらく山の中に入っていくようです。

その橋のたもとにあったのが
「藤原定家歌碑」です。



後鳥羽上皇の熊野御幸にお供した定家は
「後鳥羽院熊野御幸記」を記しています。

当時の御幸の様子や
世俗の風情がよくわかる読み物として、
熊野を行く人たちの
いわゆる一つの道案内にもなっています。

その定家が、この富田川
(かつての「岩田川」)の景色を
美しくも厳しい道であることを説いています。

その日の目的地「滝尻の宿」で
詠んだ歌がここに刻まれています。

「そめし秋を くれぬとだれか 
いわた河 またなみこゆる 山姫のそて」

彼が、この御幸記を書いたときの
年齢がまだ40前の38歳。

御幸記の中での彼の活動は
かなり多彩に及んでいるそうです。

熊野御幸記は国宝であるが
その内容はネットでも読むことができますから、
ぜひ参考にどうぞ。

こんな植木に埋もれてしまいそうな



案内に沿って進んでいきますと、
いよいよ道は山道へと変わっていきます。





途中にこんな道祖神と
庚申塚があります。



とくに庚申塚はずっとあった
6本手の庚申さんです。



庚申さんには、なくしものを探すと同時に、
病気も払いのけるとされていますから、
doironの病気が再発しないように
しっかりお願いしておきましょう。

庚申さんのお伝え人である猿も
しっかり掘られてありました。



あ、これはちょっと大人の
備え石かと思ったら違ったようです。



なんでも庚申さんに穴の開いた石を
備えることは、
耳の病気にいいといわれているそうだ。

さあ、まだまだ山道は続きます。

この辺りの淵は「念仏淵」
といわれているそうです。



なぜかといいますと、
熊野に詣でる人がこの淵で念仏を唱えると、

「仏、仏」

と淵の底から仏の声が聞こえてくるそうなんです。

いろんな風習やあやしい出来事が
熊野への接近をさらに物語っているようです。

こんな木の橋や



階段を



上ったりしながら歩いていきますと、



前方に橋が見えてきました。



国道311号の「蕨尾橋」です。

ああ、これで山道は終わりか
と思ったら、決してそんなことはありません。

この橋を潜ってしばらく行きますと



道は上り始めます。

途中、こんな二体の庚申さんがありました。



っと、この時です。

庚申さんのすぐそばに
大きな木を丸田切りにしたような
何かが置かれています。

近寄ってみますと・・・

おお~なんとこれは備え付けの
ハチの巣箱だったのです。



この巣箱はこの地方では
「ゴーラ」と呼ばれます。

梅の産地といわれるこの辺りでは、
ミツバチの養殖も結構盛んです。

ウバメガシで炭を作り、
梅林の周辺にはこのゴーラを置いて
ハチを育てるという、
地域の環境にあった暮らしが
今も続いているそうなんです。

まったくどういうものなのかわからない
「御日侍供養塔」のほか、



この辺には「徳本さん」の
名号碑も置かれてある。



しかし、熊野古道には
この徳本さんの名号碑はとても多い。
毎回歩いていると
どこかで見かけているような気がする。
帰りには日高町にある徳本さんの
誕生院によってみようかな

結局ひと山超えた感じで歩いていくと、
ようやく人里が近づいたような
感じになってきた。





ああ~よかった。

病後、ちょっと控えていた
山登りの簡単なところを
クリアしたぞって感じだ。

一般道と合流して、



アップダウンをもう少し続けていくと、



こんな日吉神社なんかも迎えてくれる。



またまた犬にほえられたりはしたけど、
この辺は気持ちのいい道だ。

この辺りは「北郡(ほくそぎ)」
といわれる場所だ。



実は今回の古道歩きで
ひとつ楽しみにしていた橋が
ここにはかかっているのだ。

それはどんなかというと・・・続きます。


菊ちゃん、おめでとう

2016年01月25日 21時01分30秒 | スポーツ全般

琴奨菊。



いやあ、よかったよかった。
大相撲本場所の優勝となると
日本人力士で10年ぶりともいうが、
それはまた別の話で、
doironは何よりも琴奨菊の優勝がうれしかった。

大相撲が大阪で開催される春場所。

各相撲の一族があちこちに部屋を作ります。
琴奨菊の佐渡ケ嶽部屋はその時、
松原で部屋を張るのです。

そのころはよく取材に行きました。

当時は「琴欧州」が最高位だったので、
その取材だったけど、
部屋に行くたびに
「菊ちゃん(彼は地元の人たちにこう呼ばれていた)は
人柄もよく、子どもにも人気なので、
彼の取材を頑張ってやってくれよ」と、
地元世話役のおじさんに言われたりした。

それ以後の職場替えで
そんな取材の立場を外れても、
佐渡ケ嶽部屋の力士たちは
いつも本番時の気になるメンバーだった。

しかし、あの八百長問題、
琴欧州の引退を経て、
もう今となっては一番気になっていたのが
「琴奨菊」のみだった。

しかし、かれも故障や不調で、
いつも負け越し寸前での相撲が多く、
やきもきしながら見ていたものだ。

カド番も何度か乗り越えて、
勝ちが進んでくると、
毎回今回こそはと祈りつつ見てしまう。

ところが取り組みが上位の力士とになってくると、
いつも通り案の定負けが続いたりしたもんだ。

ま、今回も最初は調子が良かったので、
ああ、今回はあまりやきもきしないで
済むかなあと思っていたら、
横綱までどんどん破っていくではないか。

おお~これは今回すごいぞとおもいつつ、
毎回ジムで自転車こぎながら
彼のルーティンワークからの撮影に
のめりこんでいた。



ああ、詰め所で手を合わしたりするのは、
弱そうに見えるのになあ
と前は思っていたけど、
今はもうそれさえも彼の力を
高めていってるように見えた。

変に見落とすと、
「あれ、今日は合掌忘れてるんじゃないか」
と気になったりしたもんだ。

1敗の相手は豊ノ島で、
彼とは小学生のころからの
相撲仲間であることも初めて知った。

この負けを機会に
あとはまたずるずるかなあと思ったが、
うまく切り替えて立ち直ってきたのが
とても素晴らしかったな。

最後の相撲で買って優勝を決めた時に、
観客席で泣き崩れていた彼の父の姿が、
いまも忘れられません。
琴奨菊と自分の息子と
年が一歳しか違わないもんでね。

春になれば、また彼は松原にやってくるだろう。
多分、そうだと思う。

これでもう従来よりも
取材が一気に多くなるはずである。
そんな中、もう一歩踏み込んで頑張って、
横綱となるための
強さを養っていってほしいものである。

「菊ちゃん。感動したよ!」ありがとう


熊野古道 聖域の入口へ 4

2016年01月24日 21時21分46秒 | ウォーキング

花折地蔵を離れて山道に戻り
てくてくと若干下りつつ進んでいくと、
町の手前でアスファルトの道に合流する。

おお~この辺は結構にぎやかだ。

熊野古道の看板も
ごみ箱の横に結ばれてあったりする。



こんな、何がどの方向に
どうなってるんや
とさっぱりわからん案内板を見つつ、



進んでいくと「大塔郵便局」に到着です。

あ、ガラスの向こうのネコさんこんにちは。
すみません。資料に書いてある
「平野三郎国綱の墓」はどちらか知りませんか。



「わしゃ、しらん」

とわからんそうなので
ここはパスしました。

そうして町の中から国道311号に合流したら、



前方に橋が見えてきました。
これが、「鮎川新橋」です。

ということは、その少し手前に
「鮎川王子」があるはずですよね。
進んでいきますと、
まず見えてきたのがバス停横の
「鮎川王子ふれあいやかた」です。



そろそろお昼も過ぎてしまっていたので、
どこかで昼食を食べよう
と思っていたところです。

座れる椅子もあるし、



ここで食べましょう。
今日は手作りおにぎりです。

あわてて食べて写真を取り忘れてしまいましたあ。

で、食べながらそこにあった
案内板を見ていると、



さっきのとは違ってわかりやすいです。

富田川の南の川が「日置川」なんですねえ。
3回ほどここで開催される
マラソン大会にも出ましたねえ。
メダルを獲得した
なかなかげんのいい大会でした。

でも見どころはやはりこちらの
富田川沿いのほうが賑やかそうです。

さあ、おなかもいっぱいになったし、
出発しましょう。
掲示板によると、ここから
最終の滝尻王子まで2時間と
出ていました。

あっ、これが「鮎川王子社址」ですねえ。



ここにはあの熊野ブルーの王子の案内板と



熊野古道の案内板もありました。



さて、では鮎川新橋を渡りましょう。



結構立派な歩道も付いていました。



中々この川のこの橋を、一日で
何人が渡るのかちょっと想像もつきません。
古道歩きの人を意識してるんですかねえ。

富田川は、相変わらず気ままに流れています。



橋を渡り切ったら、古道は左折です。



そこにあったのが、
先ほどの達磨寺に続く
「熊野曼荼羅」の一つ、
住吉大社です。



この神社はいわれも古いのですが、
注目すべきは神社を囲む森です。



十種に近い古木が植わっており、
樹木学的には面白い森なんだそうです。



そんな住吉神社の社殿の
右手にある夫婦木がおもしろい。



ムクロと楠がくっついて育っている。
ああ、草津にもありましたねえ。
「小汐井神社」のクロガネモチと
ムクノキの夫婦木とよく似た形です。

最近見たので印象が濃いですねえ。

そんな神社を出て、周りを見ると、
どの家も同じように
紀州木材なんかを使った
統一系の開発がされているようでした。



さて、道はこの辺りからまた
山方面へと向かっていきます。

それいけ~。



おっ、川のほうを見ると
不思議な橋が架かっています。



これは杉の一枚板を張り付けた
橋なんだそうです。

橋脚にワイヤーで結び付けた沈下橋?
なんか手作り風の奇妙な橋です。

山の中の道を進んでいきますと、
おお~梅畑です。



しかも白梅がもう少し咲き始めています。
去年の今頃はちょうど
南部のあたりを歩いていたのを思い出します。
今年は咲き始めるのも早いかもねえ。

あっ、この辺の電プレは面白いよ。



中辺路と清姫だって。
歴史の教科書に出てきそうな名前だ。

そうそうもうちょっと行けば
清姫の墓があるもんね。

そうしてなおも山の中を進んでいきますと
こんどは「御所平」と書かれた場所に到着します。



ああ、この辺は山の上のほうまで
上がってきているので、
後につけられた場所か
と思っていたら、
ちゃんと昔からの古道だったんですねえ。

ここにあるのは、
後白河法皇の仮の御所があったとされる場所です。



お薬師さんも置かれ、
雨が多く増水して進めなかったときは、
ここでしばらく逗留されたのではないか
といわれています。

この辺り、富田川は非常にきれいな
瀬をあちこちにつくっています。

この御所平の下あたりのきれいな瀬は
今も「御所の瀬」といわれているそうです。



きれいやなあと思いつつ続く。


熊野古道 聖域の入口へ 3

2016年01月23日 20時23分21秒 | ウォーキング

田舎を歩いていると、
犬がめちゃ吠えてくる。

静かな山道風の道だと、
その犬の激しい泣き方で、
不審がられたりはせんかと
不安になるくらいなのだ。

そんな犬に追い立てられるようにして
山道を進んでいきます。



おっ、ここはなんか
河童の出そうな池ですねえ。



淵にはこんな看板も。



大人もこんな池はあまり遊びたくないですねえ。
この辺りは元気のいい子供が多いのか、
壁には「子供に注意」などという
こんな看板も張られておるぞ。



とまあ、そんな景色で
遊びつつ歩き続けます。



田んぼの土手には、
さすがに和歌山ですねえ。
フキノトウが大群落です。



街が見えてきて下りきりますと、



富田川のところに出ます。
こんな水のない
入りあい川に右から出てきて、
左の奥へと進んでいきます。



河原にはこんな看板も立っています。



おっ、ここから道は
田んぼの中のあぜ道へ
と入っていきます。



眺めのいい田んぼ道を
あちこち眺めながら歩いてますと、



おお~遠くに
一ノ瀬王子のようなところが
見えています。

ではあそこまで田んぼのさらに
細いあぜ道を進んでいくことにしました。



秋ならきっと引っ付き虫注意報
大発令の場所でしょう。

富田川の「オオウナギ生息所」
の案内看板のところに出て、



先を見ますと、
おお~これが「一ノ瀬王子」です。



駐車場とトイレの横に
小さな王子が置かれています。

遠くから見るとこんな感じです。



この王子をよく見ますと、



この辺りの地蔵さんと同じく
六本足の庚申さんが、
お堂の中に据えられてありました。



さて、ではまた川沿いを進んでいきましょう、
と歩いていたら、
写真に小さく映っているのですが、
ここにひとりランニングで
抜かしていった男性がいました。



そう、そうなんです。

実はこの川沿いの道は
毎年二月に行われている
「日置川マラソン」のコースだったんです。

僕もここは3回ほど走っています。
あの時はねえランニングで走っていても、
まさか自分が熊野古道の
王子の横を走っていたなんて、
これっぽっちも考えたことがなかったもんなあ。

ていうか、熊野古道も王子も
よくわからん世代だったもんね。

そんなコースを今はゆっくりと
歩いているなんて、
人生はわからんものです。

コースは古い家の横や



山の中をきれいな富田川にそって



続いていました。

川の横の斜面には
こんな烏瓜も咲いています。



ようやくちょっとにぎやかなところに出て、
手作り風の飛び出し小僧が現れ、



河川敷の年季の入ったゲートボール場を過ぎたら、



そこの加茂橋を渡って、
コースは対岸へと移っていきます。



富田川はここでも水が自由に流れています。

渡り切ると、
少し左へと戻る方向に曲がり、



斜面を登っていく古道コースの入口に出ます。

おお~ありましたここです。



ここからとんでもない急傾斜を
100mほど登ります。



あっと、今さっき渡った加茂橋が下になり、



ぜいぜい言って登り切ると
道は一気に平たんになります。



このへんは地元の人も
歩いている人には挨拶をしてくれます。

「旦那さん、ちょっと家によって
ビールでも飲んでいき~」とはいきませんが
「こんにちは」とか
「ごくろうさんです」なんて声は
普通にかけてきはりますねえ。

そんな山道の途中にあったのが

「花折地蔵尊」



この日もきっちり花が植えられていました。



むかしは目や耳の病気に聞く
お地蔵さんとして親しまれていたそうだ。
山の中腹に気持ちのいい広場になっていて、
人が集まれるようになっている。

「くまのみち」と書かれた
小さな石が置かれてあることからも、



この地蔵のあたりが
往古の熊野古道なんだろうといわれている。

熊野古古道なんちゃって・・・

続く。

 

 


熊野古道 聖域の入口へ 2

2016年01月22日 20時52分49秒 | ウォーキング

前回の終点であった稲葉根王子あたりに、
車を止めて置くところとなるとむつかしいなあ。
コインパーキングなど絶対ないしなあ。
でも稲葉根王子あたりとか、
ちょっとした公園の駐車場とか
止めるところはいろいろあるような気がするから、
とりあえず車で向かって見ることにしてみよか。

田舎に行けば、
思わぬ駐車場があったりするしねえ。

出かけた日は列島に寒気が舞い降りる前の日だった。
暖かい日差しを受けていると
暖かくなるような気候。

まあ、それでも山の中とかで
寒くなってはいかんから、
一応上にはダウンを着ていくことにした。

約2時間、車を走らせて
稲葉根についたのは午前10時。

たまたま誰でも止められる
駐車場があったので、
うまくそこに駐車することにした。
ウレピー

なんてついているんだ。

さあ、ではこの時点から、
昨年9月前半に行った
熊野古道歩きの続きをスタートである。

まずは、稲葉根王子の先にある、
古木のモニュメント辺りから出発です。



このあたりは国道311号と
並行して歩くので、
こんな歩道をつらつらと歩きます。



昔のひとは遠くに見える山を見ながら、
あの辺が熊野の入口あたりだろうかと、



もしかしたらうきうきしたかもしれませんね。

もう少し、春が深くなったら
このあたりは菜の花がきれいんだそうです。

今回ずっと横を流れる富田川の
案内板が立っていたり、



上富田の村中案内看板が
立っている横を歩いていきます。



ああ~熊野古道はやっぱりいですねえ。
歩いていてなんか気持ちがうきうきしてきます。

紀州木材で彩られたような
郵便局を過ぎ、歩き始めて



1キロ少しくらいで

「市ノ瀬橋北詰」



の交差点に出ますので、
ここでいったん右折して
橋を渡ります。



それにしても富田川は
川幅のわりに水量は少ない。



上流の植栽、下流の河川工事などで
今はこういう状況だが、
昔はもっと川幅も狭く
くねくねと流れる天井川の
様相の部分が多かったそうだ。

人々の暮らしとともに、
こういう景色も変わっていくんやねえ。

果無山脈から太平洋に流れ込むダムのない川。

今日はこの川に沿って
ググッと熊野に使づいていく。

橋を渡ったところから、
一気に上り坂を登っていき、
途中こんなあぜ道や



田舎道を



こんな標識を頼りに



ふうふうと歩いていくと、
次の目的地である

「興禅寺」に到着する。



おお~、もう遠くから
でっかいだるまの彫り物が
見えているではないか。

近づいていくと、
そのだるまは「平和達磨」
と書かれたお堂の上に座っていた。



本堂に上がっていくと、
鐘楼や煙抜の付いた古い建物もある。





そして、本堂の横には
こんな文字が書かれた板が掲げられている。



「熊野曼荼羅 第8番」

壮大な歴史的、文化的遺産を
未来永劫、後世に残そう
という考えから出発した霊場巡り。

すばらしい見所や由緒、高い芸術や
文化を継承している社寺が選ばれていて、
心からの癒しと安らぎを
味わうことが出来るとしている。

西国33カ所のように、
この手の「巡り」はいろいろあるから
あまり意識してなかったんやけど、
ここへ来るまでに
闘鶏神社や稲葉根王子のように
ほとんど歩いてきてるんだよね。

これからはもう少し意識して歩いてみよう。

そんなお寺をあとにして、
さあこんな標識を見ながら
進んでいこう。

熊野古道は緑の矢印に沿って行けばいいようだ。



この辺り、野辺の地蔵なんかにも
手が6本ある庚申さんの進行が盛んだそうだ。

物をなくした際にこの庚申さんは
縄でぐるぐる巻きにされ、
「何々を出してください」
と書いて置いておくと、
物が見つかったり
ということがあるそうだ。

そんな地方の人間の欲を
この仏は象徴しているんだと、
資料には書かれてあった
人間て面白いなと思いつつ、続きます。