ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

古墳に興奮 最後

2013年06月30日 21時44分55秒 | ウォーキング

仁徳陵に参拝をし、
次は百舌鳥三陵の最後のひとつ、
百舌鳥耳原南陵
(もずのみみはらみなみのみささぎ)である

履中(りちゅう)天皇陵

を目指します。

仁徳天皇陵の南側には
大仙公園があります。

ここでは毎年4月29日に
10キロ部門を最長とする
マラソン大会が開催されます。

この10キロがdoironの初レースでした。
1987年、今から26年前のできごとです。

今回訪ねたのはそれよりもず~っと、ず~っと昔の
西暦400年頃にこのあたりに築造された
古墳群をめぐる歩き旅でした。

公園内には、そんなイベントができる広場や
いこいの広場などとあわせて
様々な施設が設置されるとともに、
往時の古墳も大切に残されています。

公園の中の仁徳御陵にいちばん近いところにあるのが、

孫大夫山古墳。



お堀もめぐらせてあるので、
公園の中とはいえ
内部に踏み入ることはできません。

次の竜佐山古墳とならんで



これらの古墳は
仁徳陵の陪塚とされています。

それにしても、公園の中というのに
結構しっかりと守られているため、
樹木の密度もかなり濃ゆいものがあります。

そう思っていたら、
次のグワショウ坊古墳には、



外部と隔てられたことにより
古墳林がどのように変化していくかを
詳しく調べている旨の記載がありました。

今回の歩き旅で見た永山古墳のスイレン、
収塚古墳のササユリのように、
貴重な生態を残している古墳林は
絶好の自然研究のフィールドでもあるわけなんですね。

その先にある旗塚古墳も



そんな自然観察の目で
見守られている古墳でした。

大仙公園もこうして通り抜けようとする最後の頃に、
現れるのがこれ。

七観音古墳。



ここまで来ると、仁徳御陵からはかなり離れているなと思ったら、
この古墳は南にある履中天皇陵の
陪塚であるとのことでした。

コースは公園を出て、履中天皇陵の
周回コースに入っていきます。



こういう御陵の近くは
風致地区になっていることが多く、
静かないい環境ですねえ。

さぞかし、土地の値段も高いんでしょう。

道なりに歩いていくと、
車がゴーゴーと走る泉北1号線に出ていきます。



それを左折し、
広い歩道を行くと
履中天皇の拝所に到着です。





この履中天皇陵は
お堀も広く、多くの樹木が密生しています。

また野鳥の姿も多く、



とてもバランスのいい御陵だな



と思いました。

それにしても、こういった古墳の築造には
気の遠くなるような
労力がそそがれたにちがいありません。

ちなみに、仁徳天皇陵を
現代のゼネコンが築造したら、
総作業員数680万人、
工期が15年8か月、
総費用が
見積もりした当時(1985年)の貨幣価値で

796億円という、

結果をはじいています。

いずれにしましても、
これらの古墳は巨大な権力と
高度な土木技術が
結集した巨大建造物だったんですね。

したがってそれは権力の象徴だけでなく、
当時の土木技術の礎を
築いた工事でもあったんでしょう。

地方の大きな改修工事などに
その技術が生かされていったことを思えば、
まさに歴史が磨いた技術の進化に
古墳築造が大きな役割を果たした
といわざるを得ません。

この後コースはまだ、
いたすけ古墳やニサンザイ古墳へと続いていきます。

しかしその日の時間の都合上、
合計20の古墳を興奮気味にめぐり終えたところで
残念ながら今回のdoironの歩き旅は終了です。

上野芝駅からJRで帰路に着いたdoironでした。

残った古墳や、今回コースから外れていて
いけなかった古墳にも、
そのうち是非行ってみようと
思っている今日この頃です。

古墳に興奮、これにて終了。


古墳に興奮 2

2013年06月29日 21時33分23秒 | ウォーキング

けやき通りのけやきトンネルと
なっている部分の長さは約1キロ。



その4分の3ほど歩いたところで、
西に右折をし、西高野街道の方へと向かっていきます。
そして南海高野線をまたいだところで、
線路に沿って右折していくと
仁徳御陵の陪塚群が現れてきます。

まず最初に出会うのが永山古墳。



かつてこの古墳のお堀には
釣堀があったように思いますが、
今はお堀にスイレンの咲く
静かなたたずまいとなっています。



大阪屈指の幹線道路である
中央環状線を渡るとすぐに、



仁徳御陵の西面に接して、
丸保山古墳があります。



住宅街の中なので
全体を移すのは難しかったです。

この古墳の形が、
前回紹介した「帆立貝型」古墳なんです。

その古墳の南の角にはこんな神社もありました。



長い年月の間に、
御陵への敬意が
様々な形になって残っていったんでしょうね。

少しコースを外れて住宅街に入っていくと、
菰山塚古墳があります。



それにしても住宅街の中に
デンとこんな古墳がいくつもあるなんて、
この地域ならではの景色ですねえ。

そこからまた、仁徳御陵の方へ行き
時計回りに回っていきます。

いつの間にかまた西高野街道を
歩いていました。



この仁徳御陵は墓域面積が世界最大で、
周りをぐるっと回ると2850mあります。



長居の周回道路より少し長い
ランニングコースが取れるというわけですね。

15周すれば42.8キロとお手軽です。

ここでも平日にもかかわらず、
歩いている人や走っている人が結構おりました。



古墳の一番外堀の内側にも陪塚があります。

大安寺山古墳もその一つです。



円墳だそうですが、
外からだと境界がはっきりせず、
全体の形がわかりません。

そしてその少し東側にある

「源右衛門山古墳」



も仁徳御陵の陪塚なんでしょうね。

どうも名前の語感から見て、
御陵築造の土木集団の棟梁のような感じですね。

いや、これはまったく根拠はありませんが・・・。

道はさらに、堺シティマラソンで御馴染みの
御陵周回コースを逆行する形で進んでいきます。

途中、塚廻古墳が駐車場の背後にありました。



また、線路を一時的に越えていくと、
鏡塚古墳もあります。



この古墳は名前からして、
副葬品収蔵のための古墳のように思えます。

再び線路を渡り直し、
仁徳御陵周回コースに戻っていきます。



御陵の南を通る御陵通に出たところにあるのが

収塚古墳



百舌鳥駅近くのこんなところにある古墳ですが、
先の永山古墳同様に
墓域内には都会には珍しい

「ササユリ」

が咲いていました。



こんな可憐な花が絶えずに
残っているというのは
立ち入り制限をしているからこそですね。

コースはここから仁徳御陵の拝所へと向かうのですが、
以前から気になっていた古墳に
少し足を延ばしました。

というのも、この古墳、
電車のすぐ横にあって
うっそうとしているその姿を
いつも車窓から見ていたからです。

百舌鳥駅前を右折し少し行くと、
交番の横にその古墳があります。



近づいていくと、石碑が三つ建っていました。



ひとつが、かつて百舌鳥駅前に建てられていた
仁徳御陵への道標で、
もう一つが「長山古墳」と命名された石碑、
そしてもう一つが、
後に「長塚古墳」の名前で
史跡に指定された旨が書かれた石板でした。

いわば三つの顔を持つ古墳なわけですね。

写真を撮ってたら、
交番の人がちらちら見ておりました。

決して怪しいものではござらぬ~。
と心の中で言いつつ、
元のコースに戻り、
ようやく仁徳御陵の拝所にとやってまいりました。



するとそこに、黄色のウインドブレーカーを着て、
手にバインダーを持った二人連れの高齢者がおられました。

多分、ボランティアガイドの方たちでしょう。
写真を撮ってるdoironの方を見て
何か声をかけたそうにしていましたが、
関わっていると時間がかかりそうなので
早々に立ち去るようにしました。

ここから百舌鳥耳原南陵に向かって、
まずは大仙公園を横切っていきます。

あと一回続く。


夢を形に

2013年06月28日 21時49分13秒 | 仕事

古墳めぐりの途中ですが
ここでニュース速報を
一つお知らせいたしましょう。

先ごろ報じられた芸能ニュースによりますと、
サザンオールスターズが5年ぶりに復活するとのことです。
リーダーの桑田氏はdoironと同い歳であります。
それが復活するのです。
何かと忙しい毎日(想像ですが・・・)に戻る決意をした
ということなんですねえ。

もういいや、病気にもなったし、
あとは人生を楽しもう
なんて考えなかったんですね。

そう考えたら、
彼の復活も大きな決意の表れなんですよね。

というのがニュース速報・・・というわけではなく

実はdoironも半年以上社会から遠ざかっていたけど、
なんと近々社会復帰することになりそうなんです。

といっても、
介護の親を大量に抱えている身としては
完全復活とまではいきませんがね。
なんとか以前から熱烈にやりたかったけど、
夢のまた夢と思っていた仕事が
ようやく一歩をふみだせそうな気配となってきたのです。

今日はその会社で面談がありました。

久々に履歴書も書きましたし、
作った資料も送り、
自分をかなり売り込んだところ、
会ってくださることになったのです。
まあ、面談というより
営業のお話に興味を持っていただいたって感じですかね。

で、とりあえず、
いつものジーンズにTシャツじゃあんまりだろうと、
昔着ていた仕事服を引っ張り出して、
久しぶりにこんな格好をしてみました。



まるで、公務員みたいでしょ。

そこはチャリンコでいける距離なんですが
雨模様だったので車で近くのスーパーまで行き、
そこから歩いて、
決められた時間に事務所に入りました。

こんにちは~と事務所に足を
踏み入れたとき
みんなの視線が
一斉に矢のように注がれましたわあ。

doironの実績を表す様々な資料の入った
カバンを思わず落としそうになりました。
営業の人ってそんな気持ちなんでしょうかね。

面談は代表の方にしていただきました。
するといろいろとアピールをするまでもなく、
先に送った資料が気に入ってもらえていたようで、
話はすぐに仕事の進め方や
契約条件の話になりました。

報酬や条件の契約交渉など
生まれて初めてなので緊張しましたが、
概ね妥当な線を提示していただいたので、
こちらとしても快諾しました。

そして週明けの月曜日には
さっそく仕事を1本いれていただいた次第です。

まあ、これだけじゃ何の仕事かわからんでしょうが、
その辺はまだ声をかけていただいた会社への遠慮もありますので、
おいおい明らかにしていくことにしましょう。

将来的には、その仕事を実績に
徐々に仕事の幅を広げていけたらなと考えています。

ワクワクするような、
新しい人生が動き始めたという感じです。


古墳に興奮 1

2013年06月27日 23時10分10秒 | ウォーキング

先日、熊野街道堺市内を歩いた際に
仁徳陵をはじめ、
いくつかの古墳を巡り歩きました。

古墳群はどれも緑に覆われるとともに、
人が踏み入ることを拒み続けたことによる、
静謐な雰囲気に満ちていました。

そう、それらはまさに貴重な文化遺産であることから、
先日の富士山のように
世界文化遺産の登録を進めよう
という動きがあります。

そこで、今回は街道歩きを一休みし、
これらの古墳群をめぐる歩き旅をしてみようと、
梅雨の晴れ間に出かけることにしました。

最寄りのJRから電車に乗って、
最初に向かったのが

「南海高野線堺東駅」



東口に降り立ったのが午前9時05分。
早速、反正天皇陵に向かって歩き始めました。

反正天皇は仁徳天皇の第3皇子で、
仁徳天皇が第16代天皇であるのに対し、
第18代天皇として
西暦400年頃の古墳時代に
5年間天皇に在位しました。

さらに言いますともう一人、
今回最後に訪ねたのが、
仁徳天皇の第1皇子である

履中天皇の御陵

その人は第17代天皇として
6年間在位していました。

この北から順に
反正、仁徳、履中の御陵はそれぞれ、
百舌鳥耳原北陵、
同耳原中陵、
同耳原南陵といわれ、
総称して百舌鳥三陵と言われているようです。



ちなみに「百舌鳥耳原」とは
御陵の築造現場に
鹿が舞い込んできて絶命し、
その耳から百舌鳥が出てきた
という話に由来するものです。

先ずは、先日の「熊野街道、チン電とともに」の中でも訪れた
北陵(きたのみささぎ)である反正天皇陵の拝所に参拝しました。



駅からここまでわずか8分でした。

今回の古墳めぐりに際して、
もう一つ学んだのが「陪塚(ばいちょう)」です。

それは、古墳時代に建設された
古墳の様式のひとつで、
大きな古墳の周りに、
同時代に築かれた
小さな古墳群を表します。

そこには、大きな古墳に埋葬された
首長の親族や臣下、あるいは副葬品が
おさめられてあったりするそうです。

そもそも、世界遺産に登録しようという動きのある、

百舌鳥・古市古墳群

の「古墳群」という言葉は、
上記3陵をもって「群」として表したものではなく、
大きな古墳の周りにある
陪塚も合わせて古墳群と呼んでいるようです。

今回歩いた百舌鳥古墳群には、
大小合わせて40以上の古墳が含まれているそうです。

反正天皇の陪塚として知られているのは、
御陵の南東にある「鈴山古墳」



と東にある「天王古墳」です。



これらはいずれも、少し珍しい
四角い形をした方墳で、
途中の住宅街の家と家の間にありました。
道にはこんな案内が埋め込まれていました。



ちなみに、御陵の形は
その方墳のほかに前方後円墳、
円墳、そして前方後円墳の四角部分が小さい
「帆立貝型古墳」に概ね分類されます。

それらを眺めながら
地図に従って、方違神社に出て



そこから東に少し行き、
南にUターンするように、
堺市屈指の素敵な並木道である



「けやき通り」



を南下してゆきます。

先ほどの天王古墳は
明治時代までそこにあった
「天王社」の名前に由来するものですが、
その方違神社に合祀された
天王社にあったクロガネモチの巨木が、
今もケヤキ通りの歩道上に今もそびえており、
これは大阪府の天然記念物に指定されています。



通りを南下していくと、
右手になにやら古墳のような
緑の小山が見えてきます。

近づいてみると、



「旧天王貯水池」

と書かれてありました。
おお~、アブさんゆかりの施設ですね(とこれは身内オチ)

凱旋門風にデザインされた
煉瓦造りの正面入り口は、
国の登録有形文化財となっていました。



それにしても
指定文化財とか
府の文化財とか
天然記念物とか
いろんな指定の仕方があるもので、
それらについてはもう少し勉強して、
おいおいここに記していこうと思っています。

ま、とにかくそんな
「登録有形文化財」を後にし、
道は百舌鳥耳原中陵
(もずのみみはらなかのみささぎ)である
墓域面積が世界最大の古墳、

仁徳天皇陵

へと進んでいきます。続く。


ナニコレボールペン

2013年06月26日 21時21分57秒 | 最近の出来事

熊野街道、チン電とともに・・
も無事に終わった。
あと大阪府内は堺南部と岸和田~貝塚を
残すのみとなったが
やはり、暑は夏い。
次はいつになることやら・・・

てことで今日は
先日届いた1通の封書の話をしよう。

ナニコレ珍百景に出演した見返りはというと、
謝礼3万円と番組特製オリジナルボールペンで、
最も珍しい「MV珍」に登録されると、
賞金30万円だそうだ。

残念ながら、あのタイゾーめが押さなかったため、
登録はならなかったから、
MV珍はかなわなかったものの、
とりあえずは採用されたので、
謝礼等はいただけた。

一通の封書で送られてきたそんなボールペンがこれ。



丸珍のハンコが押せる仕組みになっている。



うまくできているもんですな。

お礼状も添えられており、



そこには「今後とも・・よろしくお願いします」
との文字が書かれてあるので、
お願いされてやろうと思っている。

次回は、忠岡の逆さ狛犬を投稿してみようかいな。



もし取材申し込みがあったら、
ジダンも一緒に受けてくれるかな?


スーパームーン

2013年06月25日 22時04分55秒 | 自然

この三日間、夜になったら
空を見上げてばかりしていました。
去年の10月30日のブログに書いたのは

ブルームーン

ひと月に満月が2回あって
二回目の満月のことを
こう言い表します。

そして今回、梅雨空に阻まれ
その姿を、ほとんど見ることができなかったのが

スーパームーン

月が地球にいちばん近くなるタイミングで
満月になる月のことをこう呼びます。

世界各国では、このスーパームーンの
写真を撮影し、様々な姿を
ネット上にアップしていましたが
残念ながら、大阪では
土曜日に、満月にわずかに届かない月齢での
プレスーパームーンが見れただけで
昨日今日と空を見上げ続けましたが
厚い雲に覆われて、その姿を
見ることができませんでした。

スーパームーンはだいたい年に一度
現れますが、とりわけ最大となるのが18年に一度の
エクストリームスーパームーンで
一番最近は2年前の3月でした。
というと、あの東北大震災があった月ですね。

そう、月が大きく見えるということは
月が近いということで
その分引力が大きく働きます。
ということで、地震などの災害が
起こりやすくなっているという
科学的根拠のない俗説があります。

てなわけで、今年も何か起こりゃあせんだろうか
例えば世界文化遺産に登録されたばかりの
富士山で大噴火はシャレにならんぞ、とか
そんなことを考えておったわけです。

ま、スーパームーンを見ることはできなかったけど
何事もなくてよかったっす


熊野街道、チン電とともに おまけ

2013年06月24日 22時07分06秒 | ウォーキング

堺市内の熊野街道には、
何度も言うように数種類の経路があります。

ひとつは今回歩いた御陵通までのコースで、
基本的に御陵をめぐるコースです。

そしてもう一つは、
堺の寺町街ともいうべき
チン電の走る道近くを南下するコース。
この道は、もっと北の方で
紀州街道と同じ経路をたどるコースです。

そしてもう一つが
その間の堺東の駅裏あたりを通る繁華街コースです。

このうちどれが間違いで
どれが正解かというと、
実はどれも正解なんです。

熊野詣が盛んに行われ始めた頃は、
京の都から上皇などが
盛んに行き来しました。
そのころだと、きっと
先祖の御霊をうやまいつつ
御陵近くを歩いたでしょう。

そして、開口神社など、神仏信仰が盛んだったころは
チン電近くのコースを歩いたでしょう。

また、堺の文化が盛んとなったころなら
繁華街コースを歩いたのかもしれません。

時代背景に応じ、
人々が行き交う道は変遷しました。

それはとりもなおさず、堺市の歴史の
奥深さを物語っていることにほかなりません。

今回歩けなかった堺市内の道は、
日を改めて必ず歩こうと思っています。
今や数少ないチン電といい、
数々のお寺や神社といい、
独特の商風といい、

堺の奥深い歴史に、
もう少し触れてみたいと思った
今回の街道ウォークでした。

「熊野街道、チン電とともに」 終わり


熊野街道、チン電とともに4

2013年06月23日 21時17分00秒 | ウォーキング

またまた街道話の続きです。

堺市の遠里小野町1の交差点から
数本東側の道を、
資料を見ながら探します。

どうやら、3本ほど先の
一方通行順行の道をゆくようです。

しかしそもそも、大阪市内を南下してきて、
遠里小野橋に迂回すること自体が、
熊野御幸が盛んだったころにはあり得ませんでした。

それは、大和川が今のルートに付け替えられたのが
今から300年ほど前だったからです。
熊野御幸の頃には
そこに川はありませんでした。

では、それまでの大和川はどうだったかというと、
今の石川との合流点あたりから
北西に伸び、様々な川と合流しながら
最終的に淀川と合流する
というルートで流れていました。

それを今のルートに付け替えることで、
摂津や河内地域のひどい水害をなくそうとしたわけです。

当然付け替えられた地域では、
村は分断され、田畑は川の底になってしまいますので、
大反対がありました。

摂津地域の促進の上申書と
川になってしまう地域の反対の上申書が
ともに残っているそうです。

もし今の時代にそんなことをすれば、
政権をも揺るがす大騒動でしょうね。
橋O市長が出てきて
選挙で民意を問いましょう
なんてことになるかもね。

だから、熊野街道そのものが、
この川の付け替えで部分的に消失していることは明らかで、
今の時代にそれをたどろうとすれば、
解明されている他の区間のルートとの
連続性などで推測するほかに手立てがありません。

そういう意味で、
堺市の浅香山あたりは、
地形的なもの、
電車の軌道敷きによる道の寸断などを考慮して、
現代は無難なルート設定をしている
といわざるを得ません。

そしてまたこの先の堺市内の道も、
中世環濠都市の発展と
戦後の都市整備とで、
経路が定かでない部分が大半です。

それはその都度検証しながら歩いてみることにして、
とりあえずそのようなことを念頭に、
先に進んでいきます。

堺市内はこれまで
紀州街道は歩いたものの
熊野街道はまだ歩いていません。

どんな道しるべがあるのでしょうか。

浅香山駅の南側で線路をくぐって右側、



線路沿いではない、二本目の広い道を
南下していきます。

この道はけやき通りへと
つながっていく幹線のひとつです。

資料によりますと、
この先の今池町3の交差点には
道標があるはずです。

しかし交差点を中心に
ウロウロと探してみましたが
なにも見つかりませんでした。

仕方なく、先を歩きます。

真っ直ぐ南下をしていき、
大阪刑務所の高い塀のある交差点を右折し、
公園に突き当たったところに境王子跡がありました。



これは大阪府が平成4年に建てたもので、
諸説ある中でひとつの
「伝境王子跡」とも言われています。
その境王子跡を左折すれば、
まっすぐ伸びた道の先に、
方違神社の森が見えていました。



このあたりは道は碁盤の目のようになっているのですが、
一方通行の道が多く
ややこしそうなので車も少なく快適に歩けました。

そして道は方違神社へとつながってまいります。



方違神社には間違いなく道標があるだろうと探してみると、
歩道の片隅、電柱の陰にありました。



なんかいじけた感じでした。

それに比べて
堺市が設置したと思われる
歴史めぐりの案内は
大変充実しているようです。


この方違神社から、
熊野街道は何本かに分かれていきますが、
今回は大阪府の資料に基づいて
最も東側の
古墳近くのコースを歩くことにしました。

方違神社のすぐ南側にあるのが、

「反正天皇陵」

御陵の横に沿って、



こんな狭い道を歩きます。



突き当たりに三国ヶ丘高校が見えてきたところで、
御陵の南正面に戻り参拝です。



そして街道は、高校の教室エリアとスポーツエリアを隔てる
あいだの道を南下していきます。

住宅街を抜けていくと、
やがて道は竹内街道と交わり、
その後西高野街道との分岐へと出ていきます。



竹内街道は、日本最古の官道と言われており、
西高野街道は高野山へ向かう長い街道のひとつです。

熊野街道はしばらく、
西高野街道と同じ経路となりますが、
中央環状線に出て歩道橋を渡る手前で別れていきます。



仁徳天皇陵に出ると、
ホテル街をかすめる
堺シティマラソンのコースを
しばらく歩くことになります。



支援学校でマラソンコースと別れて、
小さな古墳の点在する
御陵沿いの遊歩道を歩き、
御陵通へと出ていきます。

そしてここからは、
御陵通りを西進し、
往路で乗車し
途中で何度か右に行ったり
左に行ったりしながら
ともにやってきた感のある
チン電も越えて



湊駅から帰宅したdoironでした。



またまた続く。

堺市内のコースについて、あと1回おまけで書きます。


トレイル用品

2013年06月22日 21時29分05秒 | 自然

街道話は一回お休みして、
お口直しに今日はトレイル用品にまつわる話題を。
と、言いましても
ロールペーパーや
サンポールの話題ではないですよ。
それはトイレ用品。
取り上げるのはトレイル用品ですから・・

日本国内外のアウトドアブランドが、
最近、トレイルラン用のスポーツ用品を
充実させてきている。

日本でエックステラなどが始まった頃は、
スポンサーになってた

「Salomon」

なんかが頑張っていたけど、
近ごろはノースフェイスも
トレイルランに結構力を入れているようで、
店先には
山を走っている男女のポスターを
大きく掲げていたりする。

そんなお店で、先日グッズを買い求めた。

一つ目はリュック。

買ったのはこれ。



やはりノースフェイスのデザインは好きやなあ。

そんなおしゃれなデザインの中に
いろんな機能をひそませている。

ひとつが、写真には写ってないけど
背中にあたる部分がメッシュになっており、
そのメッシュの内側に
タオルなどを入れられる構造になっているため、
汗を吸収してくれるのが優れものだ。
一度おろしても、タオルを抜けば
さらさらということだ。

それともうひとつ。
腰ベルトについている小物入れが非常に便利だ。
よく使うものは、
いちいちリュックを降ろさなくても
取り出すことができる。

先日の街道ランの時に
これを担いで走ったのだが、



携帯、財布などの収納にとても重宝した。
カメラも収納できる大きさだ。

また、本体部分の収納は何層にもなっており、
慣れるまではどこに何を入れたか探してしまうが、
慣れれば用途別に収納部を分ければ便利に使えるだろう。

体へのフィット感も、
中には体型の小さい人には少し大きめなので
ベルトの締め具合、
収納品のつめ方などに工夫が必要だ
と言ってた人もいるけど、
doironにはほぼピッタリであった。

これからもちょっとしたマラニックでも重宝できそうだ。

そしてもう一つ買ったのが

「シューズ」。

ノースフェイスの靴というと、
長靴やトレッキング用を思い浮かべる。
でも最近は、トレイルラン用も供給している。

普通のランシューズと違うところは、
ソールが硬いこと。
小石を踏んだり、
でこぼこ道を走ることがあるので、
足裏に直接当たる凹凸の衝撃を軽減してくれる。

そして、当然未舗装路なので
滑りにくいようなソールの形状にしてあるところだ。

となると、当然重くなりがちなので、
ランシューズ並みの軽さを確保するための
工夫をしてあるというのがトレイルラン用のシューズだろう。

doironが買ったのはこれ。



残念ながらまだ買ってから、使用していない。
今月末に町石道に行く予定なので、
多分それがデビューとなるだろう。

それにしても、学生の頃から山に登っていたけど、
その頃に比べたら、
アウトドア関連の道具も
ずいぶん進化したものだ。

40年近くも経つので無理はないけど・・・


熊野街道、チン電とともに3

2013年06月21日 21時02分28秒 | ウォーキング

30号線を南に渡ったあたりは
「遠里小野(おりおの)」と言われてます。
そこはかとなく変わった名前ですね~
なぜか異国の香りがするのは
あの軽快なリズムで歌う
「オリオリオリオ~
の歌のせいかもしれません。

しかしそうではなくて、古来からの名前なんです。
万葉集にもこの表記は見られるそうです。

どうも語源は「瓜生野(うりうの)」からきている
というのが有力な説だそうです。

大和川は流域での氾濫を抑えるために
1700年ころに大きく付け替えられています。

その際に、この地域を分断するように
川を付けたので、
今は大阪市と川の向こうの堺市にも
「遠里小野」の地名が残っています。

この付け替えによる地域の分断は、
他にも松原市の若林と
八尾市の若林町などがあります。

その遠里小野に入ってすぐに、
商店街に入っていきます。



道しるべがここでは道路に埋め込まれてありました。



なおも歩いて、我孫子の駅近くにさしかかると、
左に安楽寺という寺があり
その門前に、石碑が建っていました。

写真ではわかりにくいのですが、
資料によりますと、

「右 八尾街道 堺 大鳥 岸和田 
左 阿倍野街道 住吉 天王寺」と刻まれた面と



「右 八尾街道 我孫子 平野郷 八尾」



と刻まれた面があります。

明治35年に建てられたとも刻まれてます。

親父より大先輩です。

先日亡くなった長寿世界一の木村さんは
明治30年生まれなので、
この人よりかは後輩でした。

とっても立派な道標です。
街道の分岐点かと思うと
感慨もひとしおですね。
ここで旅のお別れもあったでしょうし
出会いも数々あったでしょう。
道標は道案内をするとともに
そんな往時の人々の心のランドマークで
あったかもしれません。

その先の左側、
遠里小野小学校の塀に
現在の道しるべが見えてきました。



とその前に右側にあるのが

「農神社」。





歩いていてもこのあたり
農耕の雰囲気は漂っていませんが、
昔はきっと盛んだったんでしょう。

何せ「瓜生野」ですし、
遠里小野は菜種油発祥の地ですし・・。

その農神社に立っているのが

「遠里小野編入記念碑」



1925年に大阪市に編入されたのを
記念して建てられたそうです。

地域を愛した地域の人たちの
郷土愛を窺わせますね。



八軒家浜から11.4キロと刻まれた、
大阪市域最後の道標を過ぎ、
ようやく大和川に到着です。





堤防には、かなり立派な
道端のお堂がありました。



祀られているのは、
雲上地蔵尊と白龍大神。





ここにこれが建てられた経緯は
実にすさまじいもので、
明治2年の堤防決壊に端を発します。

川から押し寄せる洪水を抑えようと、
地元の人たちは決壊場所に
墓石や地蔵を投げ込んだそうです。

その墓石や地蔵が今も泥の底に眠っているそうですが、
そのような石の供養と
二度と水害が起こらないように
との願いからここに地蔵を設置したんだということです。

そんな流域の人々の
昔からの祈りは、
スーパー堤防の築造という形で
実っていくのでしょうか。

さて、このあたりで歩き始めてちょうど2時間。

お腹がすいてきたので、
遠里小野橋を渡り





大和川の河川敷に降りて昼食にしました。

今日はおにぎりと少しのおかずと
「カツオと筍」の缶詰です。
今回はビールはおあずけで
真面目にランチタイムしました。

しっかし、広々とした河川敷で食べる昼食は最高やね。

台風が近くにいるので、
青い空と雲のコントラストもきれいでした。



下流を見ると、これに乗って旅を始め、
時にはともに連れ添って歩いてきた
チン電の鉄橋も見えています。
そして堤防にはこれ。



以前、大和川をずっと遡って、
飲み会のある藤井寺まで歩いて行ったのを思い出しました。

遠里小野橋の南詰では
阪神高速大和川線の工事が続いています。

工事計画時のアセスにかかわった身としましては、
なんとも感慨深いものがありますねえ。

昼食を終えて、
本来なら左岸から直接まっすぐ下って、
街道に降りていくのですが、
その工事のおかげで
道は分断されており、
仕方なく30号線を南下し、
遠里小野町1の交差点を左折して
街道へと入っていきました。

こんな開発があったりして
街道は消失していくということなんですね。

職人さんが工場横の日陰で昼寝をしている
お昼休みの静かな工場街をてくてくと歩き、
いよいよ本格的に堺市内に突入していきます。

もう少し続きます。