ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

獅子舞おしまい

2014年04月30日 20時29分45秒 | 生活

GWのとある一日、我が家に
毎年恒例の獅子舞がやってきた。
doironの住む地域は
獅子舞の檀那場(だんなば)となっている。
ま、言ってみれば氏子のようなものである。
獅子が各戸を回って獅子舞を演じ、
おふだを置いていく活動地域
といえばわかりやすいかもしれない。

「獅子舞が来ます~」と前触れが回ってくる。

そこで「お願いします」というと、
玄関先の目立つところに
白い小さな紙垂をつけていく。

これ。



見れば向かいの家では
植え込みにつけられていた。



で、その紙垂を目印にして
後からやってくる本体が家に入ってきて
獅子舞を舞ってくれるのだ。

doironの村ではたいてい獅子を操作する人と
お囃子をする人2人で回ってくる。
いわゆる小獅子という最小単位で、
獅子舞を演じてくれているわけだ。
そりゃあ、お布施を張り込めば
中獅子、大獅子と豪勢にはなっていくんでしょうが・・・
分相応ということでね。

回ってくる団体は、
重要無形民俗文化財に
国が指定している

「伊勢大神楽講社」。

獅子舞を演じながら檀那場各戸に
かつては伊勢神宮、
現在では伊勢大神楽講社の神札を
配布してまわる人々の集団だ。

毎年の傾向を見れば
GWに集中的に回っているようで、
多分携わる人達も兼業の人が多いのかもしれない。

各戸で竈祓(かまどばらい)を行う際に
玄関や庭で獅子舞を舞ってくれる。



そこではほんの一瞬の舞にすぎないが、
実は神楽の舞そのものは奥が深く、
神社などで舞う場合は
鈴の舞、四方の舞、跳びの舞、扇の舞、剱の舞など
物語に基づいて様々な形での舞が行われるそうだ。

そういえば、子供の頃は
獅子も両手に剱を持って
それをチャンチャン鳴らしながら
踊っていたような記憶がある。

その姿は恐ろしく、
近寄りがたいものがあり、
家の陰に隠れて見ていたように思う。

各戸にやってくる小獅子の舞の
クライマックスは
獅子がその家の人の頭に
かみつくところである。

昨年は、doironが外出中だったために、
「奥さん、噛んだろか」といざなわれて
ミセスは喜んで噛んでもらったらしい。

生まれて初めての経験だったという。

今年はdoironも家にいたので、
しっかり噛んでもらった。

こんな感じ



「毛が増えますように~」。

「それではどなたもお元気でお過ごしください」
と優しい言葉を言い残して隣家に回っていった獅子。

これで獅子舞はおしまい!

置いて行ってくれたお札がこれ。



我が家では毎年同じ場所に掲げて、
そこから家内の安全を見守っていただいている。


ブラリ、オジチャリ9

2014年04月29日 21時16分51秒 | スポーツ全般

先月にオジチャリでリンリンしたコースを、
GW入りの日に再びオジチャリで走りに行きました。



今回も天気は晴れで
暑くなることが予想されるため、
七分袖のTシャツにひざ下までの短パンといういでたちです。
もちろん帽子も日除けとメット代わりに
かぶっていきます。

タイヤの空気を点検し、
携帯のナビもセットして出発です。

コースは紀州街道から大川道に入り、
樫井川を折り返す往復40キロ。
ブラリというにはギリギリ限界といえる距離でしょう。
オジチャリで40キロというのは
冷静に考えたら
ちょっと普通の運動じゃなく
非常に偏った運動ですが
心拍数をあげずに
長時間体を動かす、しかも
キョロキョロしながらというのには
うってつけの運動ですね。

ロードバイクなら2時間はかからない距離ですが、
オジチャリだとそうはいきません。
一応パンク修理キットは持っていますが、
もしトラブルがあればその辺に放置しておいて、
電車で引き返し、後で回収に来るのも可能なのが、
南海本線沿いのこのコースのいいところです。

この道はだんじり小屋も多く見られる
いわば「だんじり街道」とも言うべき道です。

その日もあちこちのだんじり小屋に
若者の姿を見かけました。

きっと、だんじりの掃除でもしているのでしょう。

そうそうだんじりの掃除ってどうするか知ってますか。
泉州人なら知っておきたいところですよね。
彫り物は雑巾で拭いて・・・
なんてとんでもございません。
カビ除けのためにも水は禁物。
では細かい彫り物の間の埃はというと、
コンプレッサーでプシュッ、プシュッ
と飛ばすのです。
これを多い所では月に数度行います。

そのため定期的にだんじりの周りに集まることで、
地域の結束はますます固まっていくわけです。

話をだんじりからオジチャリに戻しましょう。

さすがに変なカメラおじさんさながらに
首からカメラをぶら下げて
リンリンするのはためらわれます。
こんな看板も各地にありますからね。



時折携帯を出しては、
メールチェックを装いながら、
素早くカシャッと撮影することにしています。

どっちかというとこちらの方が
不審者っぽいという声もありますが・・・。

それに近頃はただ歩くだけでは気がすまず、
「ネタはないか」「おもろい景色はないか」
などとキョロキョロしながら
移動しているものですからなおさらです。

唯一救いは、目つきが全然鋭くないことですかね。

貝塚あたりでは田んぼの目立つ田舎道を行きますが、
この大川道の起点の道標を



右にとったあたりからは



古い家並みが続きます。

途中から、一本海側の道に出て、
GW入りで超混雑が予想されたものの
意外に混雑している様子もなかった
りんくうのアウトレットの裏側を
さらに南下します。

最近はアウトレットも増えましたからね。
今年中には和泉の山方面にも
「ららぽーと」が完成予定だしね。

田尻漁港に突き当たる手前で左折し、
樫井川に出たあたりで20キロです。
ここで折り返しました。
日差しは強かったのですが、
チャリンコだと風を受けて
ほんとに気持ちのいいサイクリングです。

途中のコンビニで、昼食をとりつつ帰路につきました。



そのままジムに行き、
トレッドミルでランを少々やって
オジチャリ運動で固まった身体をほぐしたあと
風呂に行こうとしてふと腕を見ると、
こんなに日焼けが・・・



そういえば首の後ろもひりひりしていて、
湯船に入った時にはその痛みで
思わず飛び上がりました。
2mは飛び上ったでしょう。

でもこれが大好きな夏を迎えるための洗礼なんですね。

40キロのオジチャリのおかげで、
身体も心も少しずつ夏仕様に
変身し始めているdoironなのでした。


ドジ旅日記近江商人の陰謀編 予告

2014年04月28日 21時37分09秒 | マラソン

先日、初サロマを目指すジム友の練習を兼ねて、
ジダンと琵琶湖に行ってきました。

宿泊したのは近江八幡国民休暇村。



かつてバイクでびわ湖を一周するビワイチをした時に
仲間達と泊まった宿です。

さすがにもうビワイチをできる身体ではありませんが、
超ロングラン練習のサポートくらいはできますので、
バイク持参で参加してきました。

その練習会の成功のために
克服しなければならないのが、
近江商人の陰謀に打ち勝つことでした。

神社仏閣への寄進や
数々の公共事業にも貢献した近江商人。
一方で、その卓越した商法で
チェーン店という考え方の礎を築いたりし、
その商才をねたんだ江戸っ子に蔑まれ
「近江泥棒伊勢乞食」と揶揄もされてきた
という歴史を持っています。

その商才ゆえに、謀も多く
人々の誤解を受けてきたわけでありますが、
今回の琵琶湖特訓は、
そんな近江商人の子孫が企てる陰謀との戦いでもありました。

果たしてその陰謀とは?
そしてその戦いとは。

満を持してお送りする

「ドジ旅日記」第2弾。

「近江商人の陰謀編」

はジダンブログとの
完全コラボではなくタイアップ企画ということで
近日掲載の予定です。請うご期待!


天下第一の桜

2014年04月27日 21時35分41秒 | 生活

翌朝、下呂温泉に別れを告げ、
今回の旅の目的地「高遠」に向かいました。

国道256号と257号が重複している道を
付知川沿いに一旦南下します。

おや?道の横に何か立っています。
すかさず停車し確認をすると、
「裏木曽街道」と刻まれていました。



このあたりでは高い山に挟まれた谷筋に街があります。

木曽谷にある木曽地域から
山脈を隔てて西側にあるこのあたりを
「裏木曽」と呼んでいるそうです。

「裏」という言葉には何となく
侮蔑的な意味合いがあります。

かつては日本も太平洋側の
「表日本」と
日本海側の
「裏日本」という表現をしていました。

ところが、それに対して新潟県の
とある市長からクレームがつき、
1960年代くらいから、
使われなくなったそうです。
NHKでも以来「太平洋側」と「日本海側」と
言うようになったとのことです。

doironが前に勤めていた役所でも、
裏門と称していたところが
近所からクレームがつき「東門」
と改めたということもありました。

そのうちこの裏木曽街道も
西木曽街道なんて改名されるかもしれません。

中津川でこの裏木曽街道と交わる道が、
街道ウォーカー憧れの「中山道」です。

中央道に入るときに、
ジャンクションのところで
車を運転しながら
「いつか来ることがあるかなあ」と思いつつ、
その道をチラ見しておきました。
停車できないところだったので、
写真も撮れなくてとても残念でした。

中央道に入るとほどなく、
全長約8500mと日本で5番目に長い
恵那山トンネルをくぐります。

途中駒ヶ岳SAで休憩をしたときに、
店内でこんな看板を見つけました。



高遠城址公園の桜情報です。
「本日満開」と書かれ、
そしてその下には、
土日は周辺道路が超混雑するので、
遠く離れた市役所から出ている
シャトルバスをご利用ください。
とも書かれてあります。

幸いその日は平日でしたので、
近くまで行ってみることにしました。

すると、やはり周辺道路は渋滞。

城址に近づこうにも近づけません。

仕方なく1キロほど離れた
河川敷の臨時駐車場に車を停めて
歩くことにしました。

その駐車場もちょうど桜が満開でした。



ここで花見をしてもいいくらいですが、
遠くに見える高遠城址公園の桜は
やはり圧巻でした。

山全体が桜色に染まっていましたからね。



ミセスの母親が生涯見た中で
最高の桜といってた桜です。
やはり間近に見に行かなくてはなりません。

途中、天女橋や二十二夜様など






由緒ある橋や史跡を眺めながら
テクテクと歩いていきます。

城址だけに調べていくと
様々な歴史を持っています。
そのうちの一つにこんなのがありました。

高遠の城主であった
仁科五郎盛信が織田軍と戦った姿は
後々まで語り継がれるほど、激しい戦いだったそうです。

盛信の流した血は、その伝承から
場内の桜の赤みになぞらえられています。

この高遠城址公園の桜は

「タカトオコヒガンザクラ」

という品種です。



ソメイヨシノに比べてやや小ぶりで
赤みのある花をつけます。
品種的に珍しいのと
約1500本といわれる規模の大きさは、
「天下第一の桜」と称されています。

花の下に立つと見渡す限りの桜が
空を覆わんばかりに咲き誇っていました。



さすがにミセスの母親が、
生涯で一番の桜だったと
いうだけのことはあります。

ただ、そんな桜と共に人の多さも際立っていました。
平日でこれなのだから、
土日となればどんな状況なのか想像もつきません。

ちょっと静かな谷あいに降りていくと、
斜面に可憐なアズマイチゲが咲いていました。



満開の桜目当てに訪れている観光客には
こんな花にだれも見向きもしていないようでしたね。

城址にある数々の歌碑も
周りでお弁当を広げる人だらけで、
取材どころか写真を撮るのもかなわず、
桜のみを堪能して城址をあとにしました。

今回の旅を通じて、
少々世俗にまみれながらも、
非日常の中に身を置いて、
次なるライター仕事の目標を
熟成させることができたかな
と思っております。

最後にもう一度満開の桜を紹介して、
今年の桜の季節の打ち止めです。



結局目的地の高遠より
下呂温泉の方が長くなってしまいました。

このシリーズ、終わり。


ゲロマエロマエ

2014年04月26日 21時38分40秒 | 生活

doiron一行が宿泊した宿は、
昭和24年に創業した
老舗の「小川屋」さん。



大浴場に続く廊下には



創業まもない頃の下呂温泉の写真も飾られています。



飛騨川沿いにあるこの旅館の
大浴場は地下一階にあります。

なぜ地下なのかというと、
道路の下をくりぬいて、
飛騨川の堤防斜面に露天風呂を作っているからです。



そこに入ると、目の前に広大な飛騨川が広がります。

そんな露天風呂もいいのですが、
ここの温泉の目玉が

「畳風呂」

大浴場の周りにぐるりと畳を敷き詰めてあり、



その上でお湯をかぶったりするのは
何となく畳を蹂躙しているような
感覚がしないでもありませんが、
足裏に感じるソフトな感覚は
とても非日常的で旅心を増幅させてくれます。

きっとあのルシウスがタイムスリップしてきたら
目を丸くして驚くでしょう。

ゲロマエロマエと命名したいほどです。

入浴前に旅館の人に取材をしたら、
下呂の由来であるとか、
マスコットであるカエルのことなども
いろいろと話をしてくれました。

そしてなんとタイミングがいいことに、
この夜には飛騨川河川敷で
太鼓演奏のイベントと花火大会があるとのこと。

これは全くのうれしい想定外でした。

う~ん、日頃の行いが
こういう時にはモノを言いますね。

ゆっくりと温泉につかってから、
お楽しみの夕食に向かいます。

この地方の食材といえばやはり飛騨牛です。
それを朴葉味噌を敷き詰めた上で焼いていただきます。

こんな感じ。



ちょうど宴もたけなわのその頃に、
飛騨川の対岸の太鼓演奏が聞こえてきました。
それを聞きながら、
おいしい料理に舌鼓を打っているうちに
花火の打ち上げ時間が迫ってきたので
急いで部屋へと戻りました。

そう、部屋の窓から花火が見えるのです。

気持ちいい川風に吹かれながら
ベランダで待っていると、
静かな温泉街に大音響をとどろかせながら
花火が次々と打ちあがりました。



時間にして15分と短い間でしたが、
浴衣を着て缶ビール片手にながめる花火は最高でしたな。

下呂温泉はそんなイベントでも頑張っていましたが、
見所も結構あるところです。

これは「飛騨街道」が
この地を通っていることを示す道標です。




温泉街の各所に立っておりました。



飛騨街道は中山道の太田宿(美濃加茂市)
と高山を結ぶ街道です。

昨日も書いたように、
当時この温泉は「湯之島」と言われていました。



険しい山道も通ってきた旅人にとって、
この湯之島は極楽のようなところだったでしょう。

当時の旅人の装束が、
下呂温泉の東のはずれにある
合掌造りの里の中の民族資料館に展示されておりました。



こんな道中合羽を着て、



こんなわらじで山を越えたんですねえ。



世が世ならきっとdoironも
こんな装束で歩いていたのかもしれません。

ちょうど桜が散り初めの下呂合掌村には、



国指定の重要文化財「旧大戸家住宅」をはじめ



10棟の合掌造りの民家があります。
残念ながら、それらは元からここにあったものではなく、
白川郷などから移築したものだそうですが、
建物の中には往時の生活をうかがわせる
展示や仕掛けがあって
それなりに楽しめる施設になっています。



あ、そうそうこの合掌村の中には
ちょっと珍しい神様を祀った神社があります。

これ



料理の神様三柱を祀ってあるそうです。
隣には包丁塚もあります。



料理の仕事に携わる人はぜひ
お参りしておきたいところです。

doironも料理当番が無事に果たせるよう
お祈りしておきました。

下呂温泉には、
歌碑も多く建てられています。

大半は野口雨情のものです。

茨城県に生まれ、
北海道で新聞記者をしていた時期もあったという彼には
ちょっと親近感を覚えます。

昭和の初めにこの温泉に遊びに来て、
下呂小唄を作った事が縁で、
童謡会の三大詩人と言われた彼の書いた歌の碑が
いくつも温泉街に建てられたそうです。

これは「益田川さえ雨降りゃ濁る わたしゃ心は濁りゃせぬ」。



益田川は今の飛騨川のことだそうです。
そしてこれには



「下呂の河原の月待草の 花は夜咲朝しぼむ」
と刻まれています。

いずれも七五調のいかにも童謡詩人らしい言葉ですが、
温泉街を逍遥する彼の姿が
言葉の陰に見え隠れしているようです。

そうして下呂を満喫し
翌日、お世話になった旅館をあとにして
doironが次に向かったのは
伊那市にあって
「天下第一の桜」と名高い
タカトオコヒガンザクラが
ちょうど満開となっているはずの
高遠城址公園なのでした。

続く


日本のまん真ん中

2014年04月25日 21時32分57秒 | 生活

毎年春のこの時期になると
旅に出たくなります。

昨年は東北、そしてその前は
東北、若狭、九州に出かけていました。

これは以前の職場の習性が
まだ残っているせいなのかもしれません。

新年度を迎え、今の時期は仕事も一段落しているし、
GWを前にしているから大仕事も控えていないので
気持ち的にホッとする時期だったのでしょう。
それにマラソンもシーズンオフとなるし、
トライアスロンは宮古は別にして
シーズンの前の静けさでしたから、
一年で最も気持ちに余裕がある時期だったのかもしれません。

退職した今となっても
世間の桜の時期が過ぎ去って、
マラソンもトライアスロンもなく
静かな日常に浸っていた今頃は、
やはり習性のように
旅をしてみたくなるのだろうと思っています。

その習性は、やはりミセスにも伝染していて、
なんとなく旅に出たくなる時期やねえと申しておりました。

で、今年は、いろいろと検討した結果、
信州方面に行くことにしました。
すっかり桜も散ってしまったこちらと違って、
まだまだこれから桜が満開を迎えようとしているだろうと考え、
今年の名残の桜を見に行くことにしたのです。
桜もまた旅心を刺激する要素のひとつなのかもしれません。

まず最初に向かったのは、岐阜県の下呂温泉です。



信州に向かう途中の温泉ということで
思い浮かんだのがそこでした。
中部地方のたいていの有名温泉は訪れているけど、
実はここは初めてでした。

下呂温泉は「日本のまん真ん中」というのを売りにしています。





日本の人口重心地は2000年以降「関市」と発表されていますが、
誤差の範囲内でしょう。

ところで、「下呂」と聞けば何を思い浮かべるでしょうか・・・
ただ「温泉」としかでてこないでしょ。
そうなんです、もう少し行けば「高山」や「奥飛騨」などもありますし、
高速道路を降りてからも少しありますから、
どうしても見過ごされがちなんですよね~。
これといって特徴もないし・・・
でも行ってみたらこれがなかなか良い所でした。

江戸の儒学者、林羅山が
有馬温泉、草津温泉と並んで
日本三名泉に数えた温泉だそうです。


温泉街にある林羅山の像

泉質はアルカリ性単純温泉で、透明な湯。
アルカリ温泉にありがちなヌルヌル感も少なめで、
万人向けの湯と言えるでしょう。



気になるのはその「下呂」という名前です。
その語感はあまりいいものではありません。
もとは「湯之島」と言われていたのですが、
昭和になって「下留(しものとまり)」
という地名が「げる」と呼ばれていたのが
転じて「げろ」といわれるようになり、
それに「下呂」の字をあてるようになったのだそうです。

最近ではこの変な地名を逆手にとって、
「げろ」→「ゲロ」→「ゲロゲロ」というところから、
蛙をマスコットにして、
蛙の形をしたさるぼぼなどという奇妙なお土産を作ったり、
温泉各所にカエルのオブジェを置いたり
カエルマスコットを多用しています。



ご想像通りに「無事カエル」や「お金がカエル」
などという財布に入れておこう的人形も
かなり取り揃えられております。

doironが泊まった宿の玄関にもこれがありました。



6匹のカエルで「迎える」というそうです。

そしてこれは下呂の「どんびきガエル」



ブリキのカエルには
「無事カエル」、「お金がカエル」、「生きカエル」
という名がついています・・・というのはウソ。
これはdoironの創作です。

温泉街を歩くと、チャップリンの銅像もありました。



しかしかつて、彼がこの温泉に来た、
ということは一切ありません。
映画について語りながら
楽しく温泉街を歩いてもらおうという趣向だそうです。

かつてチャップリン映画祭も催されたとか。

さらに今はこんな「いで湯卓球大会」も催されているそうです。



まさかラケットがスリッパ・・・ということはなさそうです。



スポーツで汗をかいた後は温泉とビール。
もうこれは娯楽の王道ともいうべき取り組みですね。

とまあ、そんな具合に観光協会も
温泉興しに一生懸命頑張っておられます。

もう少しこのゲロ温泉の話続きます。


フリーライター9か月

2014年04月24日 21時51分59秒 | 仕事

生活の様々な場面において、
人に職業を聞かれることが少なからずある。

例えばお店の会員カードを作ったり、
アンケートに協力したりする場合。

そうそう、交通違反切符を切られたりするときも聞かれたりする。

早期退職をして、紆余曲折を経て
結果的に月にいくばくかの新聞記事等を書き、
小遣い稼ぎのようなことをしている身としては、
そんな時の答え方が微妙に難しい。

状況によっては「自営業です」といえば
それで済む場合もあるので、
できればそれで済ませてもらうと
説明が面倒じゃなくていいのだけど、
それだとまるで「私の職業は言いたくありません」
と言っているように相手に聞こえてしまうような気がしないでもない。

一方、気軽な相手には
「新聞を書いてます」と言ったりもするのだが、
「へえ~」と感心されて、
まるで大新聞の記者のように思われるのも
嘘をついているようで胸がちくりと痛んだりする。

じゃ、正直に「フリーライター」を名乗ればいいじゃないかと思うでしょ。

ところが、その言葉にはどことなく
胡散臭さも付きまとっていたりするから始末が悪い。
その辺の見極めが難しいのだ。

先日地元ボランティアの関係で集まった時
ちゃんと理解してもらえるかなと思いつつ
初対面の人に、思い切って、
「職業はフリーライターです」といったこともある。

そしたらどうだ。
話も佳境に入ってきたころに、
「コンビニとか、ビラまきみたいな仕事も大変でしょう?」
と言われたりした。

あのねえそれは「フリーター」ですから。

そういう誤解はやはり高齢者関係の人に多い。
それもちょっとカタカナを知ってるような人ね。

会話を深めていったら理解されたりもするのですが、
一方的に話を進めていくような人だったら、
下手をすると話の最後まで
「フリーター」と勘違いされたまま
別れてしまう場合があったりもするんだよね。

そもそも高齢者に横文字を使うことが、
誤解のもとなのかもしれない。

残念ながら「フリーライター」にぴったり当てはまる日本語がなく、
あえて直訳すれば「自由な著述業」となるのだろうが、
これだとますますもって胡散臭い。

フリーライターを標榜してはや9カ月。

そんなこんなで、社会における立ち位置も定まらないまま、
今日を生きているというのが本当のところだ。

で、ここらでフリーライターという職業を
もう少しわかりやすく説明できるようにしようと今、
実は新たなフリーライター仕事の展開を求めて
色々と試み始めてはいるのだ。

果たしてその試みやいかに、
そして次なる目標は・・・

おいおいまたブログに綴っていこうと思う。

地図を赤線でなぞって道筋を間違えずに歩くように、
書いて確認しながら夢の航図を自ら作り、

さあ未知の海に漕ぎ出すことにしよう。


驚きの岩湧山 後編

2014年04月23日 21時21分54秒 | ウォーキング

送電線の鉄塔下を過ぎると、
しばらく植林の林の中を歩く尾根道が続く。



ん?植林の木立の合間に見える景色が
なんだか変だぞと思いつつ、
進んで行って開けたところに出てみたら
ビックリ仰天の驚きの光景が広がっていた。

前の週が寒くて、
下から見上げたら雪で白くなっていたのにも驚いたが、
な、なんとススキやカヤに覆われているはずの山頂周辺が
今日は真っ黒けだった。



ややっ、これはどうしたことかと近づいていくと、
どうやら山焼きをした直後だったようだ。

あとでわかったのだが、
その前の日に山焼きをしたらしい。
折からの風で灰が舞い上がり、
その光景はまるで地獄の山のような様相だった。

そういえば、なんとなく地面も
ほんのり熱を帯びているような感じもした。

見上げた時に山頂付近に
一人で座っていた登山者の光景も、



地獄の番人かと思わせるような風情で
世間を眺めおろしているように見える。

草原や山は放置しておけば、
草原から林へとどんどんその様相
(「植生」という)を変えていく。

その最終形を極相といい、
極相は環境によって草原であったり
広葉樹であったり針葉樹であったりする。

ここでは岩湧山頂のカヤを
文化財にするために
刈り取ったりしているので、
茅場の植生を維持するために
山焼きをしているそうだ。

かつて、ここで刈られたカヤは
この「梅の木永久索道」によって降ろされていたが、



見た所現在は使われていないように見えた。

地獄の番人が座っていたところの広場には、



こんな方位盤施設がある。



それによると
条件が良ければかなり遠くまで見渡せるようだ。
この日はあいにく花粉等で霞んでいたけどね。



そこからもう少し行くと、三角点がある。
この看板の手前にある
上辺に十字を刻んであるのが三角点。



標高897.7m。
ここまでかなりのんびりと歩いてきたつもりだったのに、
地図のコースタイム通りに
ちょうど2時間で到着だ。

そこは風が強かったので、
先ほどの方位盤のところに戻って食事をすることにした。

今日の食事はこれ。



小さなお弁当とカップヌードルとビールである。

ビールは登山口に来るまでの
コンビニで買ったもの。
そんなにあったまっておらずおいしくいただけた。

お湯を沸かしたりしているうちに
正午を迎えるようになると、
最初は数人だった山頂にも
結構人が登ってきた。

写真撮影をお願いした2人連れは、
ダイトレ縦走のために関東からやってきて、
昨夜は紀井見荘に泊まったそうだ。



これから槇尾山まで行くという。

結構山に行ってそうな恰好だったのに、
「金剛山というのはどれですか?」
と訊かれて驚き、
あれがそうやでと教えてあげた後
「どこから?」と聞いてみて
関東からの登山者だと分かった次第だ。
ダイトレ縦走をしに泊りがけでこられているとのこと。

ダイトレは大阪以外でも結構知られているんやねえ。

最終的に山頂は20人くらいの登山者で埋まった。
あとは下るのみなので
ゆっくりとコーヒーを沸かし、
こんな手作りケーキのデザートもいただいた。



食事中は油断すると風に舞う灰が、
お弁当に降ってきたりしたので、
その点は要注意だったな。

まわりを見ると、「ゴミは持ち帰りましょう」
などの看板に加えて、
「火気厳禁」などという看板も立っていた。
これだけ燃やしておいて、
ちょっぴり説得力に欠けるなあ
などと考えてしまった。

下りは元来た道を下っていくことになる。
このあたりは道がいくつか分岐しているので、
あちこちと歩き回れそうだし、
南側に見える南葛城山の稜線も楽しそうだ。

機会を見つけて行くことにしよう。

ところで、着ていった例の肌着だが、
先日街道歩きで試した通り、
背中がべたつくこともなく
快適な着心地を維持し、
山で使っても評判通りの性能を発揮してくれた。
まさに登山の三種の神器の名にふさわしいグッズだ。
もう少し値段が安ければ、もっと多用出来るのじゃがね・・・。

屋外での活動にぴったりなこの季節、
まだまだ動き回りたいところですが
そうとばかりも言ってられません。

仕事もしなくてはなりません。

そこで、今考えている新しい仕事の展開に備えて、
このあとdoironは信州へと旅立ったのであります。

その話は次回以降で。


驚きの岩湧山 前編

2014年04月22日 21時09分07秒 | ウォーキング

抜群に天気のいい日に、
お弁当を持って岩湧山に登ってきた。

街から眺めると、
金剛山の南側で山頂付近が夏はつるっとし、
冬には真っ白に積もった雪を冠する
はげ山を眺めることができる。

あれが「岩湧山」である。

春山を全身で感じながら歩きたくて、
最も手頃なコースのひとつである
滝畑からの往復コースを選んで登った。

装備は、一応お湯が湧かせるセットと
水、カップラーメンと
小さなお弁当とおやつとビールとコーヒー。

そして服装は、
上は先日街道歩きで試した発汗肌着と
Tシャツとアーム、
下はタイツとハーフパンツ、
足下はトレイルランシューズといういでたちだ。

もちろん雨具やタオル、地図などの
必要装備もパックした。

登山口までのアクセスは車。
滝畑の奥の方にある食堂に駐車することにした。
一回1000円なのだが、
そこに停めると下山時に
コーヒーが一杯サービスされるので、
その努力を評価してあげることにした。

ま、店の横なので防犯上からも
何より安心であるともいえる。

今回歩いたのは、
地図に書かれたコースタイムでいくと
登り2時間、下り1時間半のお手軽コースである。

9時30分スタートで、
駐車場脇から始まる登山道を登り始めた。



日当たりのよい斜面には
タチツボスミレが結構咲いている。

しかし、そんな景色も束の間、
すぐに道は植林内の
日蔭道を登って行くことになる。

しばらく行くと、
これがここまで頑張って登ってきて
ちょっとがっくりするのだが
広い林道にでる。

千石谷へと続く林道で、
1997年の地図によると
突き当たりにタクシー事業所が
あるようなことが書かれてあるが、
今もあるのかわからない。

ていうか、そもそもそんな山奥に
なぜタクシー事業所があるのか
その意味がわからない。

もしかしたらナニコレネタになりそうな
事実が潜んでいるかもしれないなと思いつつ、
かといってこの時は奥まで確認しに行くつもりもなく、
機会があれば行ってみようということで
林道を横切って再び山道へと入っていった。

尾根に出るまではちょっと急登となるが、
ゆっくり歩けばさほど汗も出ない
手ごろな山道である。

道端にはこんな石標が建っている。



そう、ここは「ダイヤモンドトレール」
という縦走路なのだ。

屯鶴峯から槇尾山までの約50キロを
大阪府が1970年に整備した自然歩道で
ダイヤモンドトレールの名称は
1972年に大阪府によってつけられた。

コース中の最高峰が金剛山、
そこから金剛石→ダイヤモンドの連想で
名付けられたらしい。

通称は「ダイトレ」。

キラキラした名前より
この通称の方が、なんとなく
大阪の「大」を連想させるし、
語感も泥臭くて山のにおいを感じさせていいなと思う。

もしそこまで考えての
「ダイヤモンドトレール」命名だったとしたらすごい。

道はある程度登るまで植林の日蔭道が続く。

それが途切れた頃から
山本来の自然の姿が始まるのだ。

道は整備され、道標も立っていて
迷うこともないだろう。









足下には、マムシグサや



ツボスミレ、



フデリンドウ、



チゴユリ、



キランソウ



などが咲き、
きれいな藤色のコバノミツバツツジはちょうど盛り。



気の早いモチツツジやヤマツツジもちらほら見えている。
耳には、ウグイスやたくさんのガラ類の鳴き声に加えて
キツツキのドラミングの音が飛び込んでくる。

岩湧山の鳥類図鑑によると
「アオゲラ」



もしくは「オオアカゲラ」だろう。



まるで工事現場の小型削岩機のような音が
山中にこだましていた。

気軽に自然を楽しめるいい山である。

この山に登ったのは5年前くらいだろうか。
伐採されたばかりの木の切り株に腰かけて、
鳥の声を聞いてた記憶がある。



水場も過ぎて開けた所に、
送電線の鉄塔が立っている。

あれ?こんな彫像が・・・。



山職人がチェーンソーで作ったのだろうか。

山頂まであと少し。
お弁当とビールが待ってる。
頑張って歩きましょう。



ところがこのあと、あっと驚くような光景に出会うことになるのです。

続く。


熊野古道紀之國人情編 6

2014年04月21日 21時27分05秒 | ウォーキング

伊太祁曽神社で、しばし静かな時間を過ごしたあと、
駅に向かいました。



時刻表はわからないので、
電車が来たら乗ればいいや
といった感じでした。

駅に着きますとすでに何人かがホームで待っています。



そして駅前にも、
山歩き風の中高年の皆さんが
何人かたむろしてはりました。

貴志川線はこの熊野古道だけではなく、
ハイキングなどにもよく利用されるようです。

おや?向こうの方に白い電車が見えます。
近づいてみると・・・

これが「たま電車」略して「たま電」です。



一文字しか略していません。

貴志川線の終点である
貴志川駅の駅長である猫の「たま」にちなんで
命名された電車ですね。

これが車庫のところに停車しておりました。

やがて下り線のホームに入ってきたのが、これ。



「おもちゃ電車」略して「おも電」です。
中に入ってみましたが、
乗客の方々が結構おられたので
内部の写真は撮れませんでした。

doironが乗車予定の上り線に、
やってきたのは普通の南海電車でした。

そうです、この貴志川電鐡は
2006年に南海電車から継承された路線でした。

しかし、これでいちご電車だったら
そろい踏みだったのに残念でした。

車内には山帰りとみられる団体もおられました。

この時期、アウトドア遊びには
本当にぴったりの時期ですねえ。

できるだけ仕事を減らして
遊ばなくてはなりません。

座りながら車窓を流れる景色を見ていて、
気づいたことがあります。

それは、シュロを植えてある家が多いことです。



連なる屋根の上にピョコンと突き出た
シュロの姿を何本も見かけました。

前回、中村王子の手前当たりの古道では
行く先の目印になっていたあの木です。

ヤシ科の植物であるこの木には
南国風情が漂います。

そのことから、この木を植えているお宅は
何となく南国を強調されているような気がしてなりません。

さすがここは紀之國、
おおらかな南国。

庭の木をもって紀之國人情を現わしているのかも
と勝手に思ったりしておりました。

何人もの人に話しかけられた
今回の旅を通じて、
そう思わせる印象が刻みこまれたのかもしれません。

これからの旅の楽しみがまた一つ増えたような気がします。

番外編

今回の旅でひとつ試したことがあります。
それは、先日の中高年の山歩き講座で
教えていただいた下着です。

速乾性で体に接している面は
常にサラサラという優れものだと聞いて、
さっそく最近オープンなった
阿倍野ハルカスの山屋さんに行って購入してきましたので
今回はそれを着て歩いてみました。



大阪府内を歩いている時は
荷物の出し入れも考えて
ショルダーバッグで歩いていたのですが、
紀州に入ってからは山の部分も多いので
リュックにしています。

なので、リュックのくっついている背中が
どうしても汗でじっとりしてしまいますから、
そのシャツの性能を試すのにはちょうど良いでしょう。

和佐王子跡でリュックを降ろしてみますと・・・
あれ?背中がやはり汗でじっとりしています。

なあんや、あまり実感ないなあ
と思ったのも束の間、
みるみる背中は乾いていき、
一分もたたないうちに背中がサラサラしてきました。

手を入れてみると、シャツの内側は・・・

濡れていません。

これはすごい!街道歩き程度の汗なら、
まったく問題なく性能を発揮してくれました。

そのうちに山に行くときも
着てみようと思いました。

友達にそのことを言ったら、
トライアスロンの傍ら
トレイルランを楽しんでいる友達や
ハードに山に登っている友達は
すでに愛用しているとのこと。

doironもすっかりファンになってしまいました。

「ファイントラック」というメーカーの肌着です。

今すぐ検索を。
ステマではありませんからご安心を。

ということで、



あったかい紀之國人情に触れ、
新しいグッズも手に入れたという
収穫の多かった熊野古道紀之國人情編終わり。